2015年02月18日

すべては風の中に

1.カンサス

その昔「カンサス」というバンドがありました。結成時のメンバーの大半が、米国カンザス州出身だったので「KANSAS」というのですが、日本の音楽ファンの間では、なぜか濁点を取って「カンサス」と発音されていました。所謂「プログレ」、プログレッシヴ・ロック(ジャズやクラシックの要素を盛り込んだ前衛的なロック)のバンドです。1970年代後半に活躍していました。

彼らの最大のヒットと言えば、やはり「すべては風の中に」(Dust in the Wind)でしょう。1977年のアルバム『暗黒への曳航』(Point of Know Return)からの曲です。「Dust in the wind,/all we are is dust in the wind,/everything is dust in the wind.」(風に舞う塵/ぼくらは皆、風の中に舞い踊る塵みたいなもの/すべては風の中の塵」というサビのフレーズが今でも忘れられません。アコギ(アコースティックギター)伴奏によるバラードで、間奏のヴァイオリン(と言うか、フィドル)ソロが「大正演歌」のようなメロディーを切々と歌い上げます。私の「青春の一曲」です。

当時から「この歌詞は聖書からインスパイアされたものだ」等と、尤もらしく説明が為されていました。「塵に過ぎないお前は塵に帰る」(創世記3章19節)、「わたしは彼らを風の前の塵と見なし/野の土くれのようにむなしいものとする」(詩編18編43節)、「神を信じない者の希望は、風に運ばれる籾殻/嵐に吹き散らされる消えやすい泡/風に吹き流される煙、一夜だけの客の思い出/このように彼らの希望は過ぎ去って行く」(知恵の書5章14節)…。確かに、似ていると言えば、似ているかも知れません。

2.棕梠の葉

この何年か、レント(受難節)に入る前週になると、私は教会の庭で焚き物をして灰を作っています。前の年の「棕梠の主日」に飾った棕梠を七輪で燃やすのです。その焚き付け用に、教会学校の子どもたちが書いた願い事の短冊を使います。短冊と棕梠、これに香り付けとして線香も加えるようになりました。

灰作りも今年で4年目を迎え、随分と要領よく出来るようになっています。2012年に初めて試した時には、大量の棕梠を全部燃やそうとして、泥まみれの悪戦苦闘でした。普段、あちこちで私たちが目にする棕梠は「和棕梠/ワジュロ」か「唐棕梠/トウジュロ」、その交配種「合棕梠/アイジュロ」です。

2011年、礼拝堂の座席ベンチの両隅に、大きな棕梠の葉を飾って「棕梠の主日」礼拝を表現しようとしました。残念ながら、会衆の多くは、尖った棕梠の葉を居心地悪く感じたり、礼拝堂全体に違和感を感じたりで、顰蹙を買ってしまいました。こういう失敗を仕出かしたことも、私は自らの胸に刻み付けるものです。これを大いに反省して、以後は、会堂外の入り口の階段手すりに飾るようにしています。

毎年、寄付して頂いた「唐棕梠」を使っています。葉が垂れているのが「和棕梠」、「和棕梠」よりも更に組織が固く、葉が垂れていないのが「唐棕梠」です。1年間干して乾燥させていたとは言え、この固い「唐棕梠」を燃やそうとしていたのですから大変です。3時間以上、七輪の前で右往左往していました。翌年(2013年)には「唐棕梠」を燃やすのを遂に断念し、礼拝堂正面に飾る「洋棕梠」、つまり、ナツメヤシ(棗椰子)、フェニックスの葉だけを焼くようになったのです。

焚き付けとしては、短冊は余りにも小さいので、今年は「神よ願はくは耳を我が祈にかたぶけ給へ」(文語訳、詩編55篇2節)の聖句に棕梠の絵を描いた模造紙を用意して、子どもたちに自分の短冊を貼って貰いました。これを短冊切りにして、焚き付けると、丁度よい塩梅でした。これを「火による聖別式」と称して、私なりの式文を整えて臨んでいますが、今年は30分で、上質の灰を作ることが出来ました。私の中では、規模の小さな「左義長」、キリスト教信仰に基づく「どんど焼き」に成っています。

3.塵灰なり

レント第1主日の「灰の受膏式」では、このようにして用意した灰を、参列者の額に塗ります。主イエスの受難と十字架に与ることで、その復活と永遠の命にも与りたいと願って為される儀式です。従って、ここで唱えられる御言葉は「我等は塵と灰なり/プルウィス・エト・スポディウム・スムス」という悔い改めの告白です。私としては、単なる「厄祓い」で終わらせたくはないのです。

こうして年々、準備に手間取ることはなくなりましたが、それでも、こんなに試行錯誤したり、労力と時間を費やして、何をしているのかと笑われるかも知れません。その目的の1つは、余りにも内面化・精神化されたレントを、もう一度「肌に感じるもの」としたいという試みです。もう1つは、日本文化、東洋文化との対峙であり融和です。勿論、西洋伝来のキリスト教ドグマを上位に置いて、これまで私たちの魂を育んで来た日本の文化を下位に見ようとは、私は少しも思わないのです。私なりに、聖書のメッセージを、この国の風土に接木することが出来ないかと考えている訳です。

「すべては風に舞う塵」と認識することは、何も諦念でもペシミズムでもありません。それが真実であるならば、そこから与えられる新たな希望や喜びも必ずあるのです。自分が塵や灰に過ぎないということが、私たちを怨みや呪い、執念や欲望から救い出してくれるとしたら、どんなに素晴らしいでしょうか。また、「塵に過ぎない者」として、この刹那を大切に感じることは出来ないでしょうか。それは、十字架の御前に、自らを投げ出す姿勢から、そんなに遠く離れてはいないと思うのです。

牧師 朝日研一朗

【2015年3月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 11:20 | ┣会報巻頭言など