2015年03月10日

3月第3主日礼拝(レント第4主日礼拝)

       3月15日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”十字架を運んだ人” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 15章21〜32節(p.95)
賛 美 歌  27、293、490、525、302、26
交読詩篇  107編1〜16節(p.123)

あいさつの会(相互交流の会)      礼拝後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール

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posted by 行人坂教会 at 06:36 | 毎週の礼拝案内

2015年03月09日

弱さを抱きしめて【Uコリント12:1〜10】

聖句「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」(12:9)

1.《二者択一》 子どもの質問は単純です。問い掛けが単純であるということは、単純な答が求められているということです。「これは良い者、それとも悪者?」「これは強い、それとも弱い?」と二択の問い掛けが多いのです。子どもは、人生を歩み始めたばかりなので、これから社会や人間の複雑さを学んで行くのです。むしろ世の中の複雑さに頭を抱えるのは、大人の仕事、使命なのかも知れません。

2.《命の弱さ》 幼少時に怪獣映画が好きだった私も、成長して思春期に差し掛かる頃には、英米の怪奇映画やホラー映画を盛んに観るようになりました。今、ドラキュラの退治のされ方を思い出してみると、何と弱点の多いことか、何と数多くの弱みを人間に握られていることかと驚きます。実際、怖ろしげに描かれるモンスターやエイリアンにも、人間の弱さが投影されているのです。弱さにこそリアリティがあり、人間味があるのです。そもそも、命は脆く儚いものなのです。頑丈壮健を誇った人が、突然、事故か何かで命を失うこともあるのです。だから、神さまも、そんな人間の弱さをこそ、大切に思ってくださるのです。

3.《御力の種》 イエスさまが弱さを抱えて生きていかれました。人間として、生き物として生きるということは、即ち弱々しいことなのです。大谷大学の佐賀枝夏文教授は、大きな石を抱えるようにして根を張った銀杏の樹を見て、気の毒に思いました。ところが、嵐の翌朝、銀杏が「石を抱えていたので倒れませんでした」と語るのを心に聞いたと仰います。「弱さを取り去って下さい」と念じるのも祈りですが、弱さを抱きしめて生きていくことこそが、真の祈りなのでしょう。ギリシア語の「力」には「デュナミス」と「エネルゲイア」があり、アリストテレスは前者を「種」、後者を「花」に例えています。神さまの御力の種は、既に私たちの中に蒔かれていて、いつか「永遠の命」として花開くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2015年03月03日

3月第2主日礼拝(レント第3主日礼拝)

       3月 8日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”弱さを抱きしめて” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  コリントの信徒への手紙U 12章1〜10節(p.339)
賛 美 歌  27、293、490、498、579、26
交読詩篇  107編1〜16節(p.123)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 07:19 | 毎週の礼拝案内

2015年03月02日

2015レント〜イースター案内

2015年のレント〜イースター案内のパンフレットです。


レント〜イースター案内のパンフレットの表紙

朝日牧師メッセージ「移動する復活の命」

レント〜イースターの諸行事スケジュール
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この人を世の光に【マタイ5:13〜16】

聖句「あなたがたは世の光である。」(5:14)

1.《ルミナリエ》 昨年末、毎日新聞が行なった「2014年、あなたが元気をもらったニュースは?」ベスト10を見ると、その内7つがスポーツ選手の活躍、2つが芸能ネタでした。残る1つがLED開発者のノーベル賞受賞でした。単に名誉と言うのみならず、発明品が照明なので人心を明るくしたのでしょう。震災後の神戸で、「ルミナリエ」という光の祭典が続けられていることも同じです。光には、人間を励まし勇気づけたり、心を動かし前向きにする効果があるのです。

2.《光は主観的》 動物学者の日高敏隆が英国の生物学者ハクスリーの「光はこの地球上に動物が出現し、目を持った時に初めて現われた。それ以前には、電磁波の特定の領域に過ぎなかった」という説を紹介していました。生物学的には、この説明が正しいのです。モンシロチョウは翅の麟紛の色で、同種の雌雄を見分けるそうです。それは紫外線の領域に当たります。モンシロチョウにとっては光である紫外線は、人間にとっては可視光線ではありません。このように種によって何が光であるかは微妙に異なるのです。もしかしたら、私たちが闇が光で、光が闇であるかも知れないのです(詩編139編11〜12節)。

3.《汝ら世の光》 イエスさまが「世の光」と言われる時、それはキリスト者のこと、教会の使命だとして受け止めます。間違いではありませんが、イエスさまの前には、教会もキリスト者も、キリスト教すらも存在していませんでした。「あなたがたは」というギリシア語の強調文から、凡そ世間では考えられていないという前提があると思います。「社会福祉の父」と呼ばれ、知的障碍児、重度心身障碍児の施設を創設した、糸賀一雄が「この子らを世の光に」と宣言したことが思い出されました。「汝ら世の光なり」との御言葉を受けた時、糸賀はそれを自分のこととは思わず、「この子たちのことだ」と思ったのです。この人たちが「世の光」として認められる時、私たちも本当の光へと変えられるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:47 | 毎週の講壇から