説 教 ”父と子と聖霊の名によって”

聖 書 マタイによる福音書 28章16〜20節(p.60)
賛 美 歌 27、568、490、406、351、29
交読詩篇 146編1〜10節(p.163)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」(11:35)
1.《ペンテコステ》 「五旬祭」等と言っても、単に「50日目」という意味です。南太平洋バヌアツにはペンテコステ島があります。フランス人が「発見」した日が丁度その日だったと言います。バンジージャンプ発祥の地です。また、日本人で初めて受洗の記録が残っているのが、ザビエルの通訳を務めたアンジロー(弥次郎)です。1548年(天文17年)のペンテコステでした。ラテン語の「神/デウス」を「大日」と訳してしまったのは興味深いエピソードです。
2.《聖霊降臨の日》 その失敗に懲りたのか、以後、イエズス会の宣教師たちはキリスト教用語を無理に漢字に翻訳しませんでした。「祈り」は「おらしょ」、「天国」は「ぱらいぞ」、「隣人」は「ぽろしも」でした。現代でも「降誕節」等と発話しても誰も理解できませんが、幼児ですら「クリスマス」は理解できます。それにしても、近年のカタカナ語の流通と消費のスピードには問題を感じます。余りにも語が大切にされていないように思われるのです。聖霊降臨の場面には、14(7の倍数)の国と地域が紹介されています。福音は「全世界」に向けて、翻訳発信されたのです。ペンテコステは通訳者、伝える人の記念日なのです。
《光輝くために》 日本におけるキリスト教信仰普及の低さ、滲透の遅さを嘆く人が大勢います。「リバイバルが足りないから」「聖霊の働きを祈らないから」との理由説明も聞きますが、むしろ、このことは、日本の私たちに与えられた独自の使命と課題ではないでしょうか。各人の人生に固有であるのと同じく、この国特有の課題があるのです。日本ホーリネス教団創設に協力した宣教師、レティ・バード・カウマンは「?燭が輝くためには、先ず身を削って燃えなければならない」「燃えるとは、苦痛や病、消耗や活動低下」「しかし、実は、良い働きをしていると自分で考えている時よりも、この世の祝福となっている」「世の人は十字架なしに栄光を求めている」(『荒野の泉』)と祈りの言葉を残しています。
朝日研一朗牧師
聖句「祈る時にも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。…また、あなたがたが祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。」(6:5,7)
1.《偽善者》 家族や友人から面と向かって「偽善者!」と罵られたら、誰でも大きなダメージを受けるでしょう。青年時代、私は「偽善者」の謗りを受けたくないばかりに悪人ぶっていました。「偽悪者」です。しかし、人間は仕事や家族に対して社会的責任を果たし、人生とも向き合っていかなくてはなりません。むしろ、神の御前には「偽善者」でしかないことを自覚することが大切なのです。
2.《異邦人》 そう言われても、久保田早紀のヒット曲かカミュの実存主義文学を思い出すのが関の山です。「オリコン第1位」か「ノーベル文学賞」です。サンドラ・スミスの新しい英訳は「L’Etranger」を「The Outsider」としました。この世の秩序や価値観から完全に離脱してしまった者です。その意味では、問題提起者でもあります。私たちが「自明」とすることに異議申し立てをするのです。聖書の世界で「異邦人!」と言われたら、戦前日本の「非国民!」とのレッテル貼りにも等しい破壊力がありました。しかし、イエスさまは、「異邦人、異教徒」と蔑まれた徴税人たちや娼婦、遊女たちと共に生きられたのでした。
3.《祈る人》 そんなイエスさまなのに「異邦人のように祈るな」と、否定的に教えています。「マタイによる福音書」が書かれた当時、ユダヤ人キリスト者たちはユダヤ教の礼拝堂から排除されたのです。礼拝で必ず唱える18ヶ条の祈祷文「シェモーネ・エスレ」に、新たに「ナザレ人と異端の者どもを直ちに滅ぼし給え」が加えられたのです。これは「踏み絵」でした。こうして会堂から追放されたキリスト者たちは「主の祈り」を唱え始めたのです。「くどくどと述べる」祈りとは「シェモーネ・エスレ」のことだったのです。「偽善者」の謗りを受けたら、自らを振り返る機会としましょう。「非国民」の罵りを受けたら、差別される人に寄り添う機会としましょう。それこそが、真の祈る人の姿勢なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(4:16)
1.《友愛と連帯》 「母の日」はプロテスタント教会起源の祝日です。メソジスト教会の牧師夫人が提唱した、母親の健康と衛生を守る運動の一環でした。やがて南北戦争で50万人もの兵士が戦死する事態に至った時、ジャーヴィス夫人は「母親友愛の日」を、ジュリア・ウォード・ハウは「平和を求める母の日」等のイベントを開催して、戦争犠牲者を覚え、母親たちの悲しみを訴えたのです。
2.《平和と悲嘆》 生涯をかけて「母の日」を国の記念日として制定しようと運動を続けたジャーヴィス夫人の没後、その娘アンナが母の遺志を受け継ぎます。母の召天日翌日の礼拝で、出席者にカーネーションを配ったのです。本来「母の日」は母親を亡くした者たちが悲しみを言い表わす日だったのです。グリーフケアの啓蒙活動をする社団法人「リヴオン」の尾角光美代表は、母の自死に自らも傷付きましたが、「母の日」の由来を知り、衝撃を受けたそうです。それを契機に母親に死別した人たちの文集の出版活動を続けているのです。顧みて、私たちはどれ程そのことを意識していたでしょうか。
3.《人を生かす》 家族の喪失と向き合うことは辛いことです。しかし、それを少しずつ果たしていくのが「グリーフワーク」(悲しみの作業、喪の仕事)です。「ラルシュ共同体」のジャン・バニエは、知的障碍のある青年たちと共同生活を始めた時、本当の自分を見つけたと言います。愛されていないと感じている人は優秀な人間に成ろうと努力し、権力を求めて注目されたがるのです。私たちは、愛や思いやりによって生きる力を与え合い、互いを生まれ変わらせることも出来るのです。全身麻痺の挙句、5歳で死んだ少年は、病没の数週間前、失明しました。傍らで嘆く母親に向かって、彼は「お母ちゃん、ぼくにはまだ心があるよ。お母ちゃんのこと大好きだよ」と言いました。彼は母親を生かそうとしたのです。
朝日研一朗牧師
聖句「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」(3:9)
1.《三回化》 後に預言者となるサムエルの少年時代ですが、神殿に仕える姿は、江戸時代の「一休咄」と重なります。同じ事柄が3回繰り返されるのを、昔話の世界では「三回化/トレブル」と言います。繰り返されることで面白味も増すし、ホップ・ステップ・ジャンプで跳躍して新展開に移ることも出来るのです。
2.《聴いて》 グリム童話の翻訳で知られる小澤俊夫は、音楽のバーフォームになぞらえて、誰かが発見発明したのではなく、聴き心地が良かったからだと論じて居られます。恐らく、少年サムエルの物語も、口伝承の時代から受け継がれているのでしょう。「一休咄」が単なる笑い話ではなく禅の公案であるのと同じように、この物語も「神に聴くとは如何なることか」と教えようとしているのです。祭司エリは少年サムエルに「主よ、お話しください。僕は聞いております」という「聴き方を伝授」したのです。「聞く」には「空耳」や「聞き流し」も含まれるでしょう。単に「聞こえる」だけの場合もあります。しかし、「聴く」には「理解して味わう」ことや「聴き従う」ことが求められているのです。
3.《シェマ》 脱カルトカウンセラーのパスカル・ズイヴィは、「聴く」を「十四回も耳を傾けて、心で聴くこと」と漢字の意味づけをしていました。もう1つ「尋ねる」の「訊く」があります。質問して確かめるのです。相手の言っていることの意味を共有しなければなりません。「聞く、聴く、訊く」の3つの意味を全て含むのが、ヘブル語の「シャーマー」です。律法の一番大切な教えとして、イエスさまが挙げておられる教え(マルコ12章28節以下)も、「聞け、イスラエルよ」で始まります。これをユダヤ人は「シェマの祈り」と言い、苦難の時、殉教の際にも、これを叫ぶのです。神への愛と隣人への愛とを、イエスさまは「聴く」ことにおいて繋がれました。まさしく「信仰は聴くによる」のです。
朝日研一朗牧師