2015年05月04日

ねぇ、聴いていますか?【サムエル上3:1〜9】

聖句「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」(3:9)

1.《三回化》 後に預言者となるサムエルの少年時代ですが、神殿に仕える姿は、江戸時代の「一休咄」と重なります。同じ事柄が3回繰り返されるのを、昔話の世界では「三回化/トレブル」と言います。繰り返されることで面白味も増すし、ホップ・ステップ・ジャンプで跳躍して新展開に移ることも出来るのです。

2.《聴いて》 グリム童話の翻訳で知られる小澤俊夫は、音楽のバーフォームになぞらえて、誰かが発見発明したのではなく、聴き心地が良かったからだと論じて居られます。恐らく、少年サムエルの物語も、口伝承の時代から受け継がれているのでしょう。「一休咄」が単なる笑い話ではなく禅の公案であるのと同じように、この物語も「神に聴くとは如何なることか」と教えようとしているのです。祭司エリは少年サムエルに「主よ、お話しください。僕は聞いております」という「聴き方を伝授」したのです。「聞く」には「空耳」や「聞き流し」も含まれるでしょう。単に「聞こえる」だけの場合もあります。しかし、「聴く」には「理解して味わう」ことや「聴き従う」ことが求められているのです。

3.《シェマ》 脱カルトカウンセラーのパスカル・ズイヴィは、「聴く」を「十四回も耳を傾けて、心で聴くこと」と漢字の意味づけをしていました。もう1つ「尋ねる」の「訊く」があります。質問して確かめるのです。相手の言っていることの意味を共有しなければなりません。「聞く、聴く、訊く」の3つの意味を全て含むのが、ヘブル語の「シャーマー」です。律法の一番大切な教えとして、イエスさまが挙げておられる教え(マルコ12章28節以下)も、「聞け、イスラエルよ」で始まります。これをユダヤ人は「シェマの祈り」と言い、苦難の時、殉教の際にも、これを叫ぶのです。神への愛と隣人への愛とを、イエスさまは「聴く」ことにおいて繋がれました。まさしく「信仰は聴くによる」のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:58 | 毎週の講壇から

2015年05月01日

一点一画 one jot or one title(続き)その23

  • 「あそぶ神仏/江戸の宗教美術とアニミズム」(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)
    妻の親戚に「ギイ坊(ぼん)さん」と呼ばれる作仏聖(さくぶつひじり)がいたらしい。全国各地を遊行した後、京都の桂の山奥に庵を結んで、仏像を彫り続けたらしい。最期は四国で亡くなったとか。妻の実家に帰る度に、その「ギイ坊(ぼん)さん」の釈迦誕生像(多分「天上天下唯我独尊」の姿勢と思われる)と御一緒させて貰っている。この本に採り上げられる円空や木喰行道の仏像を見て、この無名の作仏聖の存在が重なったのでした。他に、風外慧薫、白隠、仙高フ禅画、天龍道人源道の仏画が解き明かされ、伊藤若沖、葛飾北斎の浮世絵の宗教性までが論じられています。日本の風土に深く根差したアニミズム(万物に神仏霊が宿っている)の復権が、この本のテーマです。私たち、日本のキリスト者としても、パンセイズム(汎神論、万有在神論)として受容、再解釈した上で、土着化を考えるべきです。遠く蝦夷地まで渡って木彫、石彫を続けた木喰(「奪衣婆」の素晴らしさ)、「法ノ本ハ無法ナリ」と、意識的に無技巧な禅画を志した仙香A彼らの求道の人生もさることながら、日本の仏教美術に見られるファンシー(奇想、可愛らしさ)、これが大切です。どう見たってマンガやアニメの源流でしょう。
  • 「マクロイ傑作選/歌うダイアモンド」(ヘレン・マクロイ著、好野理恵他訳、創元推理文庫)
    アラビアの格言「かなえられた願いには禍いがつきもの」、余程、著者お気に入りの言い回しだったのでしょう、「八月の黄昏に」と「人生はいつも残酷」に引用されています。やはり、巻頭の「東洋趣味(シノワズリ)」には舌を巻きます。幻想的、衒学的、厭世的な物語でありながら、義和団事件直前の清朝末期という歴史的背景が素晴らしい効果を上げているのです。ドッペルゲンガーを扱った「鏡もて見るごとく」、UFO目撃者が次々と怪死を遂げる「歌うダイアモンド」は、推理小説の体裁は採っているものの、探偵役が法廷精神科医ということもあり、また、著者の心理表現の技巧も相まって、心理小説(超心理小説?)と言っても良いでしょう。私が最も感銘を受けたのは、核戦争による終末を描いた「風のない場所」です。レイモンド・ブリッグスの『風が吹くとき』やグードルン・パウゼヴァングの『見えない雲』に比肩するアポカリプス・メルヘンです。巻末「人生はいつも残酷」は、その苦々しさが読了しばらく後を曳きます。「灰の味を見るようだった。彼女は出ていった。荒涼とした世界に一人残されたブライは、口の中に苦さを感じた。それは燃え尽きた青春の後味だった」。
  • 「おばけずき/鏡花怪異小品集」(泉鏡花著、東雅夫編、平凡社ライブラリー)
    「…夜と昼、光と暗との外に世界のないように思って居るのは、大きな間違いだと思います。夕暮れとか、朝とか云う両極に近い感じの外に、たしかに、一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。私はこのたそがれ趣味、東雲趣味を世の人に伝えたいものだと思って居ります」(「たそがれの味」)。そんな黄昏時の逢魔を描く「怪談女の輪」が怖い。やはり、男子にとって女の曲線ほど魔性に通じるものはありません。それも、集団で登場された日には…。「黒壁」は、丑の刻詣りに遭遇してしまった生々しい恐怖。武家屋敷の「血天井」「不開室」「庭の竹籔」と来て、在り来たりと思っていたら、映画『ホステル』か、月岡芳年の無残絵みたいに残酷趣味も加わってしまう「妖怪年代記」。今や古典の域の鏡花ですが、ストーリーテリングよりも、その独特な感性から生まれる表現にドキッとさせられます。「颱風の中心は魔の通るより気味が悪い」、「心づくと、人ごみに揉立てられたために、手を曳いた児は、身なしに腕一つだけ残った」、「ひとえに白い。乳くびの桃色をさえ、蔽いかくした美女にくらべられたものらしい」、「縁側の手拭掛が、ふわりと手拭を掛けたまま歩行んです」、「川の流は同じでも、今のは先刻の水ではない」、「黒髪に透く星あかりを魂棚の奥に映す」…。親戚が城崎の老舗旅館をやっているので、随筆「城崎を憶う」では、故郷を懐かしみました。
  • 「みうらじゅんのゆるゆる映画劇場」(みうらじゅん著、文春文庫)
    「(どんな映画でも)どこかしらグッとくるシーンはあるに違いない。それを見つける行為をオレは修行≠ニ呼んで映画館に通っているのである」(「文庫版あとがき」)。これって結局、淀川長治のモットー「私は未だかつて、嫌いな人に会ったことがない」と同じですね。意外にヨドチョーさんと繋がっているのです。「淀川長治先生のTV映画解説の最後が『ビースト/巨大イカの大逆襲』であったように、終焉は突然やってくる。人生は選ぶことができないという」の一節にシビレました。そう、何を隠そう、著者と同じく怪獣映画ファンの私も、日曜洋画劇場、ヨドチョーさんのラストカット、見ましたがな「『JAWS』と同じ、ピーター・ベンチリーの原作なんですね」と強調しておられました。最近は、ジャンル映画についてのウンチク本、それどころか、わざわざトラッシュ(クズ映画)を漁って、お笑いネタとしてリサイクルする類いの映画本が数多ありますが、著者は、大ヒット作も、苦手な恋愛映画も、ホラーも青春映画も、時代劇も分け隔てなく鑑賞しています。不真面目に見えて、かなりな「ヨドチョーさん」なのでした。いや、『シベ超』や『ペキフー』を持ち上げて、カルトに仕立て上げてしまった力量は侮れません。
  • 「時代劇は死なず!〈完全版〉/京都太秦の『職人』たち」(春日太一著、河出文庫)
    私の友人Kは、1970年代末、東映太秦映画村でバイトをしていました。ロボコンの着ぐるみに入って村の中を歩くだけ。観光客の女の子と抱き合って、記念写真に収まる仕事、しかも「ロボコンお散歩、随時」だったそうです。その話を聞いて羨ましいと思ったものです。その映画村が、稼働率の低下したオープンセットの活用、撮影所スタッフ、大部屋俳優の出向先であったことは、本書に詳しい経緯が記されています。観客人口の減少と映画産業斜陽化は、テレビの普及が原因として挙げられて来ました。しかし、その固定観念を覆したことが、本書の最大の功績です。実際には、撮影所からテレビ製作現場へと出向した人々が新たな表現の場を与えられたこと、そのお陰で撮影所と時代劇製作の人材が生き残ったことが証明されたのです。しかしながら、「新書版あとがき」「文庫版あとがき」を読むと、残念ながら現在では「死なず!」とは言えぬ、壊滅状態に至ってしまったとのことです。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第7巻(カガノミハチ作、集英社)
    マケドニア王フィリポス5世が登場。ハンニバルに呼応し、アドリア海とイリュリアの覇権を巡って、ローマ艦隊と戦います。世に言う「第一次マケドニア戦争」の始まりです。フィリポスは、ハンニバルのカルタゴが敗北した後も、対ローマ戦争を続けることになります。まあ、そういう話は描かれていませんが、「第二次ポエニ戦争」の背景として押さえて置くとしましょう。それでも、第45話「忠臣の使命」には、マケドニアに向かうハンニバルの使節船が、ローマ艦隊の攻撃を受ける場面がしっかり描かれており、『ベン・ハー』でお馴染み、火槍(ファラリカ)投擲や衝角(ロストルム)による体当たり攻撃が出て来ます。重装歩兵を敵船に乗り込ませるための嘴(コルルウム)も見えられます。新キャラ、マゴーネ(ハンニバルの幼馴染)が中々いい味を出しています。
posted by 行人坂教会 at 13:22 | 牧師の書斎から

タイトルが新しく変わりました。

「牧師の書斎から」で掲載しておりました「幽径耽読」ですが、このたびタイトルを新しく変更させて頂きました。


一点一画 one jot or one title」です。


「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイによる福音書5章18節)と言われています。「一点」は「1つのイオータ」、ギリシア文字「イオータ」(英語のアルファベットの「i」に当たる)は、ヘブル語では「ヨッド、ヨード」、一番小さな文字なのです。「一画」は「1つの小さな角」、ヘブル文字の「ダレット、ダーレス」(英語の「d」に当たる)は、まさしく「一画」という形をしています。

この世が終わる、その日まで、本を読む楽しみを大切にしたいと思いました。


・・・というのがその由来です。


posted by 行人坂教会 at 10:16 | 牧師の書斎から