2015年06月30日

7月第1主日礼拝

       7月 5日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 平和の挨拶=@音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 14章25〜31節(p.197)
賛 美 歌  27、125、490、577、354、71、89
交読詩編  97編1〜12節(p.110)

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2015年06月29日

幸福な目、幸福な耳【ルカ10:21〜24

聖句「イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。』」(10:23)

1.《福音》 「福音」を「フクオン」と発音した人がいて、私たちが何気なく使っている用語の特殊さに、改めて気付かされました。ギリシア語の「エウァンゲリオン」は「良い知らせ」です。漢訳聖書が「福音」と訳したのを「明治元訳聖書」が採用したのです。しかし、漢籍の教養のない日本人水夫が協力した「ギュツラフ聖書」では「タヨリヨロコビ」でした。英訳聖書には「福音/ゴスペル」という特殊用語を使わず、「良い知らせ/グッド・ニュース」と訳したものがあります。

2.《眼福》 辞書を引くと「珍奇なもの、貴重なもの、美しいもの等を見ることの出来た幸福」、もしくは「目の保養」と書いてあります。「目の保養」には「手に入らない」の含みもあります。際限のない欲望を自ら戒めているのかも知れません。他方、「福耳」はありますが「耳で聞く幸せ/耳福」という語はありません。しかし、音楽や小鳥の囀り、懐かしい人の声など、耳で感じる幸せも確かにあるのです。勿論、音色だけではなく、その内容も大切です。「福音」の場合には、むしろ、耳障りではなく、そのメッセージこそが「善きもの」なのです。

3.《御心》 「あなたがたの見ているものを見る目」等という言い回しが引っ掛かります。しかし、絡んで来るのは、そこにメッセージがあるからです。「あなたがたの見ているもの」とは「神の御子はどんな御方であったのか」ということです。これが「福音」の内容です。主は十字架に掛けられ、殺されたのですから、決して耳障りの良い話ではありません。むしろ、私たちが神について抱くイメージ(清浄さや厳かさや静粛さ強さ)は裏切られるのです。それは、主が「自分の意志ではなく、御心を行なう」ために生きられたからです。私たちが自らの思いを遂げようとするところに、本当の幸福は存在しないのではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2015年06月23日

6月第4主日礼拝

       6月28日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 幸福な目、幸福な耳=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 10章21〜24節(p.126)
賛 美 歌  27、21、490、281、512、88
交読詩篇  52編1〜11節(p.61)

・讃美歌練習(7月の月歌:125番)   礼拝後   礼拝堂
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2015年06月22日

光を指さす人【ヨハネ1:6〜18】

聖句「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」(1:7)

1.《ボルジア家の圧政》 往年の名画『第三の男』の中に、犯罪者のハリー・ライムが自らの悪の哲学を開陳する場面があります。「ボルジア家の圧政がイタリアではルネサンスを生んだ。だが、スイスの平和が何を生んだか。鳩時計だとよ」。その台詞を巻頭言にして、星野之宣の『ボルジア家の毒薬』は、ルネサンスの光と闇を描きます。そして、その引き裂かれた魂の祈りとして、レオナルド・ダ・ヴィンチの『洗礼者聖ヨハネ』を提示して終わるのです。

2.《洗礼者聖ヨハネ》 レオナルドの最晩年の作とされており、『モナリザ』と同じように、性を超越した人物が不思議な微笑みを湛えています。十字架の杖は「見よ、神の小羊」を、人差し指を天に向けるポーズは「天から来る救い主」を指し示しているのでしょう。東ローマ帝国時代の聖遺物には「洗礼者ヨハネの腕」もあります。その右手はキリストを指し示したが故に、聖なるものとされているのです。目に見える物を用いて、目に見えない昔の出来事を語らせようとしているのでしょう。私たちが「聖地旅行」をするのと同じです。

3.《光は万人の上に》 6月24日は夏至、即ち「洗礼者ヨハネの誕生祭」なのです。「証人/マルテュス」は法廷用語でしたが、紀元2世紀後半に迫害が激しくなると「殉教者」を意味するようになりました。未受洗者なのに、自分の家族や友人を助けようとして処刑された人たちが大勢いました。当時の教会は彼らを「自らの血によって洗礼せられた」と表現しています。行き掛かり上、連帯して自らの命を投げ出さざるを得なかった人たち、彼らもキリストの「証人」なのです。私たちは自らを光輝かせようとして磨きを掛けます。しかし、「証人」は、暗闇の中で傷付け合っている人々のために、光を指さすのです。

朝日研一朗牧師

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2015年06月16日

6月第3主日礼拝

       6月21日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 光を指さす人=@音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 1章6〜18節(p.163)
賛 美 歌  27、21、490、222、51、88
交読詩篇  52編1〜11節(p.61)

・あいさつの会(相互交流の会)   礼拝後 
  (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)階下ホール

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2015年06月15日

二人の家出【ルカ15:11〜32】

聖句「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。」(15:11,12)

1.《人間の成長》 人間は叱られるだけではやりきれない。その怒りが、裁きが、正しければ正しいほど人は救われない。そこには逃げ場がない。逃げ場のない場所で裁かれると、人は滅びる。そうではなく有罪を確定した上で、同時に償いの終了を宣言、そして自由と解放へ誘う言葉が語られて、初めて人は立ち上がり歩き始める。人は裁かれることで成長するのではない。裁きの中で弁護され、抱きしめられることで成長する。このような天の父の言葉が聖書に溢れている。

2.《問題の家庭》 このような父親がいる家庭は少々問題を起こす。この家庭は家出人だらけ。弟は物理的に家出するが、兄は精神的に家出している、片方が帰宅すると片方が家出。イエスさまの前では、みんな家出人。みんな間違っている。そしてみんな愛され、みんな今日も探されています。

3.《家出の教会》 礼拝に出ている皆さんは、放蕩息子のお兄さんです。放蕩息子はイースターやクリスマスに教会に来る人です。その後また家出する。もう来ていない。そんな弟を見送り、しかも主任牧師のいない時も礼拝を守るなんて、みなさんお家に残ったお兄さん以外の何者でもない。しっかりと父の家を守っている。えらい。しかし、お家に残った形の家出人かも知れない。天の父への思いは、実は何年も前から離れている…そのことは、あなたの心が知っている。それでいい。お兄さんだからといって、正しくなければいけない訳ではない。あなたも間違っていていいし、家出人でいい。探されるために。愛されるために。これは教会の姿。教会にどれだけの人が帰ってきたのでしょう。そして同時に、どけだけの人が再び家出したことでしょう。物理的に、精神的に。だから増えもせず、減りもせず。でも神様は、教会にそれをお許しになったのです。

塩谷直也牧師(青山学院大学)

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2015年06月09日

6月第2主日礼拝

       6月14日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”ふたりの家出”   塩谷直也牧師(青山学院大学)
聖  書  ルカによる福音書 15章11〜32節(p.139)
賛 美 歌  27、21、62、「わたしが歩む道を」、552、88
交読詩篇  52編1〜11節(p.61)

注:本日の礼拝録音はありません。
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2015年06月08日

あなたの肉を食べ、あなたの血を飲む【ヨハネ6:52〜59】

聖句「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6:54)

1.《食生活の変化》 私の子ども時代には鯨肉がご馳走でした。しかし、外国の2百海里水域での操業規制が強まり、遠洋漁業は痛手を受け、海洋汚染と赤潮で沿岸の漁獲高も激減、天然物から養殖物への転換期でもありました。1970年代に、日本人の主食は魚から肉へとシフトしたと思われます。それに先立つ1950年代には、卵の大量生産流通ラインが生まれて、日常的に卵が食べられるようになっていたのです。数十年間で、日本人の食生活は大きく変わりました。

2.《カニバリズム》 ザビエルが来日した戦国時代、南蛮人は鉄砲と共に肉食文化ももたらしました。しかし、鎖国に向かう時代、肉食は切支丹禁教の理由の1つに挙げられました。南蛮人が肉食を好んだこと、信徒たちが「キリストの血と肉」に与る聖餐を受けていたこと、葡萄酒が血のように見えたこと等から、キリスト教禁教と人肉食のタブーとが融合してイメージされたのです。そのようなデマや中傷は古代からありました。トラヤヌス帝と小プリニウスとの往復書簡からも、当時そのような流言飛語があったことが読み取れます。

3.《血肉を喰らう》 それどころか、既にイエスさまが御言葉を語られた段階で、ユダヤ教徒は憤激し、弟子たちですら「聞くに耐えない」と吐き捨てて、主の御もとを離れ去っているのです。ここには「トローゲイン/喰らう」という語が4回も使用されています。「バリバリ噛む」「ガツガツ音を立てて喰う」「ムシャムシャ喰う」です。肉食動物が獲物を捕らえて食べる時の表現です。凡そ上品な表現ではありません。しかし、イエスさまは敢えて「喰らう」という言い方をすることで、私たちが「永遠の命」に与ろうとする際の必死さを尋ねておられるのではないでしょうか。周囲から誤解されても悪口を叩かれても、喰らい付いたら決して離さないような意気込みを持っているでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2015年06月02日

6月第1主日礼拝

       6月 7日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”あなたの肉を食べ、あなたの血を飲む音楽 朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 6章52〜59節(p.176)
賛 美 歌  27、21、490、4、56、82、88
交読詩篇  52編1〜11節(p.61)

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2015年06月01日

父と子と聖霊の名によって【マタイ28:16〜20】

聖句「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(28:19,20)

1.《聖霊の働く時》 1年の教会暦は「主の半年」と「教会の半年」から成っています。しかし、「教会の半年」の核である三位一体の教説が問題なのです。頭で理解できても、腑に落ちないと言われる方が多いのです。前任教会のNさんも、三位一体が引っ掛かって受洗に踏み切れないでいました。ところが、牧師が「私も分からない」と答えたことを契機に、彼は受洗を決心されたのでした。

2.《顔のない聖霊》 三位一体の「位/ペルソナ」は、舞台俳優の被る「お面」から来ています。その癖、聖霊には「顔」がありません。父なる神にも、子なるイエスさまにも御顔のイメージがあるのに、聖霊だけは「炎の舌」「風の音」「鳩の降下」と譬えられるばかりで?み所がありません。中世欧州では、聖霊の代わりに聖母マリアを入れていた程です。三位一体は、キリスト教独自のものではなく、他の宗教にも見られます。仏教の「釈迦三尊」「阿弥陀三尊」をはじめ、エジプト、バビロン、ギリシア、インドにも「三位神」「三神一体」として見られる展開です。それ故、聖霊の顔の無さは、信仰の受容を難しくしているのです。

3.《三人の食卓で》 14〜15世紀のロシアのイコン画家、ルブリョフの「聖三位一体」(別名「至聖三者」)はロシア正教会が認めた唯一の三位一体の図像です。三位一体説を巡って、教会内に分争が生じた時、彼はこのイコンを描いたのです。題材は「創世記」17章の三人の天使ですが、族長アブラハムに息子誕生の奇跡を告知するためではなく、人々に和解と献身の手本を示すために訪れているのです。しかも、三位一体の教義を図式的に説明しているのではなく、キリストが十字架を決意した瞬間を捉えているのです。「父と子と聖霊の名によって」とは、世界の一致と和合の象徴なのです。その使命のためにこそ、私たちは洗礼と祝福とを受け、信仰告白し、互いに祈り合い、この世に遣わされているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:49 | 毎週の講壇から