2015年07月28日

『聖書と祈りの集い』休会について

聖書と祈りの集いは、8月いっぱい休会します。9月2日から再開します。

posted by 行人坂教会 at 17:16 | 教会からのお知らせ

8月第1主日礼拝(平和聖日)

       8月 2日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 破れを担って立つ=@音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  詩編 106編6〜23節(p.945)
賛 美 歌  27、196、490、499、357、72、24
交読詩篇  122編1〜9節(p.146)

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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2015年07月27日

さあ、向こう岸に渡ろう【マルコ4:35〜41】

聖句「その日の夕方になって、イエスは、『さあ、向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」(4:35)

1.《歩く神の子》 電車やバスや地下鉄などの公共交通機関、自家用車、自転車と私たちには色々な移動手段があります。東京には、明治時代から路面電車が整備されていました。しかし、ほんの何十年か前まで、田舎には徒歩しかありませんでした。イエスさまの一行も、主を訪ねて来た人たちも皆、徒歩で移動していたことを忘れてはいけません。聖書の神さまは「時速5キロ」(小山晃祐)なのです。

2.《ガリラヤ丸》 「マルコによる福音書」に「群集」という語が使われる時、必ずしも良い意味ではありません。病人が主の御もとに来るのを阻むばかりか、祭司長に扇動されて主を捕らえて、十字架刑を要求します。しかし、イエスさまは「群集」の中に1人1人の人生を見ようとします。それでいて、その中に留まる訳ではなく、群集から離れて移動します。「マルコ」では、ガリラヤ湖を行き来する「舟」がその移動を助けます。大正時代、近江兄弟社を立ち上げたヴォーリスも、大型モーターボートに「ガリラヤ丸」と名付け、その伝道船で琵琶湖畔を廻りました。「ここは日本のガリラヤ、主の訪れを待つ地」と考えたのです。

3.《同じ舟の上》 激しい突風が吹き荒れる湖の上、波を被って揺れ動く舟の上で弟子たちが慌てふためいています。教会もまた、この世にあり、集まる者も普通の庶民ですから、内憂外患を抱えています。古来、キリスト教では、教会は「舟」に譬えられて来ましたが、私たちの教会は豪華客船でもタンカーでも戦艦でもなく、帆掛け舟のようです。また、難局にあっても、神の御心に不従順であるかも知れません。試練の嵐の中で、自分の弱さ脆さに気付いて、漸く祈りを学ぶのです。そんな時、イエスさまは眠っているように見えても、必ず私たちを助けて下さいます。何しろ、私たちと同じ舟の上に乗っておられるのですから。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:48 | 毎週の講壇から

2015年07月21日

7月第4主日礼拝

       7月26日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 さあ、向こう岸に渡ろう=@音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 4章35〜41節(p.68)
賛 美 歌  27、125、490、127、456、89
交読詩編  97編1〜12節(p.110)

讃美歌練習(8月の月歌:196番) 礼拝後     礼拝堂

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2015年07月20日

多く愛した者が多く赦される【ルカ7:36〜50】

聖句「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(7:47)

1.《マグダラ》 マグダラのマリアは聖書の人気キャラで、欧米では「マグダラ」という彼女の出身地も「マデリーン」や「マドレーヌ」といった女性の名前として定着しています。何しろ、イエスさまの十字架と復活の最大の証人です。8章「奉仕する婦人たち」の名簿には筆頭に挙げられています。このことから、彼女が家柄も良く、かなりの資産家であったことが推測できるのです。

2.《罪深い女》 ところが、マリア・マグダレーナと言えば、娼婦の代名詞にされてしまうのです。英語の「マグダリーン」は「売春婦の更生施設」です。ベタニアで主に香油を注いだマリアの記事と、ガリラヤで主に香油を注いだ「罪の女」の記事とが混同されてしまった結果です。その上、ローマ教皇グレゴリウス1世が「7つの悪霊を追い出して頂いたマグダラの女と呼ばれるマリア」という紹介文から、「7つの悪霊」を「7つの大罪」と解釈したため、7つの大罪の全てを犯した「罪深い女」とされるようになってしまったのです。このように、古代中世の人の聖書の読み方は、面白半分の思い込み、ウケ狙いが多いのです。

3.《献げる愛》 「携香女」と言って、香油の入った壷を抱えた女性がイコンに描かれていると、マグダラのマリアを意味します。確かに、主の復活の朝にも、彼女は香油を携えて墓に向かっています。しかし、ガリラヤの「罪の女」は、主の葬りの備えをしたベタニアの女とは異なる記事です。最大の違いは、彼女が泣きながら主に油を塗っているところです。その嘆きの深さは半端ではありません。彼女は悲しみを抱えたままの自分を主に献げたのです。立派な自分や価値のある自分を献げる必要はありません。星野富弘の詩にもあるように「しあわせが集ったよりも/ふしあわせが集った方が/愛に近いような気がする」のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2015年07月14日

7月第3主日礼拝

       7月19日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 多く愛した者が多く赦される=@音楽 朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 7章36〜50節(p.116)
賛 美 歌  27、125、490、439、483、89
交読詩編  97編1〜12節(p.110)

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2015年07月13日

てんたさん【ヤコブ1:12〜18】

聖句「誘惑に遭う時、誰も、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は…人を誘惑したりなさらないからです。」(1:13)

1.《言霊幸はふ國》 「てんたさん」とは誰かと、数人の人から尋ねられました。大和言葉の力は、現代に生きる私たちの五感も刺激するようです。山上憶良が「好去好来の歌」に「言霊の幸はふ國」と詠んだ通りです。私たちは、言葉に霊的な力(タマ)が宿り、その働きによって幸福がもたらされていると信じているのです。「てんたさん」は、『どちりな・きりしたん』(1600年)の「主の祈り」に「我らをてんたさんに放し給ふことなかれ」の「tentaçâo」のことです。

2.《試練か誘惑か》 何しろ、当時「悪魔」も「天狗」と訳していたくらいですから、「テンタサン」にも適切な訳語が見付からなかったのでしょう。ギリシア語の「ペイラスモス」には「試練」と「誘惑」の両方の意味があります。「神の与えられた試練」か「悪魔の誘惑」か明瞭ではないのです。この両義性が翻訳を難しくしたのかも知れません。イエスさまの「荒れ野の誘惑」でも、主を悪魔の誘惑へと導いているのは「御霊、聖霊」です。それは「共観福音書」が主張しているところです。果たして、神さまが私たちを悪魔の誘惑へ連れ行くのでしょうか。

3.《立ち尽くす愛》 「試練」は「耐え忍ぶ、持ち堪える、逃げ出さずに留まる」べきものとして教えられています。先輩の牧師からは、女性やお金の「誘惑」に遭う時には「三十六計逃げるが勝ち」と教えられました。試練とは外側から襲い掛かる苦難、誘惑は内側から忍び寄って来て、欲望を煽り、唆すものです。また、私たちには試練が誘惑の働く機会としてしまう場合があります。苦難に際して、責任転嫁したり、神と人とを呪い怨むようになるのです。私たちは弱いので、苦難に耐え切れるものではありません。しかし、そんな時こそ、立ち尽くしましょう。愛は、信仰は立ち尽くすのです。イエスさまの十字架のように。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2015年07月07日

7月第2主日礼拝

       7月12日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 てんたさん=@音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  ヤコブの手紙 1章12〜18節(p.421)
賛 美 歌  27、125、490、538、532、89
交読詩編  97編1〜12節(p.110)

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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2015年07月06日

平和の挨拶【ヨハネ14:25〜31】

聖句「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(14:27)

1.《仁義を切る》 映画『男はつらいよ』第1作には、寅さんがテキ屋仲間に仁義を切る場面があります。また、東映任侠映画の『昭和残侠伝』や『緋牡丹博徒』のシリーズでは、今なら些か冗長と思われるような渡世人の仁義切りが、毎回のように丁寧に描かれています。本来は「辞宜」と言って「挨拶をすること」「礼をすること」だったのです。香具師や侠客だけではなく、炭鉱や鉱山の労働者、旅回りの職人の世界にも、仁義を切る習慣があったと言われています。

2.《安否を問う》 仁義切りの姿勢では、右の手の平を相手に見せるのが基本です。手の内を見せて、武器も敵意もないことを知らせるのです。西洋人や中国人の握手にも同じ意味があります。日本のサラリーマン社会に残る名刺交換の儀式も、その流れを汲んでいます。「平和の挨拶」はキリスト教会の専売特許ではありません。ユダヤ教徒の「平和の挨拶/シャローム」は、会衆がお互いの安否を問う習慣でした。それは「接吻」によって行なわれました。欧米では、誰もが日常的に「頬っぺにチュッ」を行なっていますが、私たちは苦手な分野です。

3.《本当の平安》 古代ユダヤ教では、相手の身分や立場、相手との関係によって接吻の部位が変わりましたが、キリスト教会は、階級や人種の違いを乗り越えようと努力して来ました。「平和の挨拶」は「聖餐」の前に行なわれました。和解をした上で初めて「聖餐」に臨むことが出来るのです。シリアやアルメニアの教会では 接吻でなく握手を交わし、コプト教会では礼を交し合います。自分らしい在り方で良いのです。南インド合同教会は、20世紀に諸教派が20年以上の対話を重ねて合同した教会ですから、「平和の挨拶」の時間を最も大切にしています。私たちも、魂を奪われている人の手を包んで、祝福を祈りたいものです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:37 | 毎週の講壇から