2015年08月31日

夢がかなう【ヨハネ15:1〜8】

聖句「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)

1.《アイアム》 「ヨハネによる福音書」では「最後の晩餐」の場面は4章にわたりますが、パン裂きと葡萄酒について触れる代わりに、イエスの「私は…」宣言が7回もあります。「命のパン」「世の光」「羊の門」「良い羊飼い」「復活」であり、「命」「道」「真理」「まことの葡萄の木」であると宣言されます。実は、ギリシャ語やヘブライ語は日本語と似ており、主語の「私は…」を使うのは自分のアイデンティティを強調する時だけです。主イエスは弟子たちに必死に自分のアイデンティティを伝えようとなさっているのです。 

2.《相互関係》 これらは旧約聖書のイメージを用いています。命のパンの「マナ」や「世の光」は「出エジプト記」、「良い羊飼い」は「詩編」23編や「イザヤ書」40章、「葡萄の木」は「イザヤ書」5章です。「出エジプト記」3章のヤハウェの自己紹介は曖昧で抽象的ですが、イエスの「私は…」宣言は分かりやすい。しかも、ご自身のアイデンティティを説明するだけではなく、私たちのアイデンティティをも説明しているのです。

3.《聖霊の実》 イエスは、神が与えた「命のパン」として私たちを養い、神が約束した地へ導く「光」です。神と出会える唯一の「道」です。今日の箇所では、主イエスは「葡萄の木」、私たちは「枝」、神は農夫として私たちを手入れします。罪深い私たちは、自分で実を結ぶことは出来ませんが、イエスに繋がると、必ず霊の実を結びます(ガラテヤ5:22〜23)。クリスチャンになると、私たちの心が変わります。私たちの霊的なDNAはイエスと同じようになり、主イエスの夢(御国が来ますように)が、私たちの夢になります。そして、その夢は必ずかなうのです。

キスト岡崎エイブラハム宣教師(南支区、久が原教会)

posted by 行人坂教会 at 17:50 | 毎週の講壇から

2015年08月30日

日曜日には、お家に帰ろう

1.神の家

旧約聖書では、時折「神殿」のことを「神の家/ベート・ハー・エロヒーム」と呼んでいます。特に「詩編」で「神の家」と出て来たら、十中八九「エルサレム神殿」のことを意味します。

「わたしは魂を注ぎ、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神に家に入り、ひれ伏したことを。」(詩編42編5節)、「わたしは生い茂るオリーブの木。/神の家にとどまります。」(詩編52編10節)、「あなたの庭で過ごす1日は千日にまさる恵みです。/主の逆らう者の天幕で長らえるよりは/私の神の家の門口に立っているのを選びます。」、「ハレルヤ。/賛美せよ、主の御名を/賛美せよ、主の僕らよ/主の家に/わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ。」(詩編135編1〜2節)。

福音書の「安息日に麦の穂を摘む」の記事では、イエスさまもファリサイ派の人を相手に論争をして「(ダビデも)神の家に入り、…供えのパンを食べたではないか」と語っておられます(マタイによる福音書12章4節、マルコによる福音書2章26節、ルカによる福音書6章4節)。但し、ここで、イエスさまの仰っている「神の家/ホー・オイコス・トゥ・セオゥ」は「エルサレム神殿」ではなく「ノブの神殿」のことです。

こんな所からも、イエスさまが「シオニスト」ではないことが分かります。ガリラヤ出身のメシアは中央集権的ではなく、エルサレム神殿を絶対化してはいないのです。それどころか、エルサレム神殿に感動し、その壮麗さを賛美する弟子に対して、「これらの大きな建物を見ているのか。1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」等と言ってしまわれるのです(マルコ13章2節)。

2.会見場

イエスさまは「聖地」としてのエルサレムも、壮大な建造物としての「神殿」も、神を礼拝する真の信仰とは、直接は関係が無いと断じておられるのです。それ故、新約聖書で「神の家」と言う場合には「神を信じる者の共同体」を指すようになりました。例えば、パウロは「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」(テモテへの手紙一3章15節)と言っています。

従って、教会の会堂、礼拝堂を指して「神の家」と称するのは、旧約聖書の神殿の立場であり、新約聖書の信仰からは大いに外れていると言わざるを得ません。「神の家」とは「信仰共同体(コミュニティ)」としての教会であり、土地建物のことでは無いからです。

それでは、「神殿」でも「神の家」「神の宮」でも無いとしたら、私たちにとって会堂、礼拝堂とは何でしょうか。実は、神と人との「会見の場」なのです。神と人との会見は何によって実現するのかと言えば、礼拝(御言葉の宣教と聖礼典の執行)において可能に成るのです。それがキリスト教の「基本のキ」です。「神の家族」である会衆が皆、等しく礼拝に与ることが出来るように、聖書と解き明かし、聖餐と洗礼を真正面に据えた、現在の礼拝堂の構造が生まれたのです。

但し、プロテスタント教会の礼拝堂は、余りにも礼拝への集中を促した結果、構造が「近代学校モデル」に接近し過ぎてしまいました。その反省から、近年では、礼拝堂の構造を奥行きの長い「縦型」から、奥行きの短い「横型」に変えたり、祭壇(Altar)を囲むように丸みをもたせて、会衆席を3列にして、身廊(Nave)、要するに中央通路を2本にしたりする試みもあります。

とは言え、礼拝堂の構造や礼拝の在り方に多少の変化があるとしても、礼拝において神さまが会衆と会見されるという点だけは変わりません。端的に言って、私たちにとっては、礼拝への参与です。実際に礼拝に出席することによって、神の見えない御力の庇護下に入るのです。教会生活を続ける中で、私が体得したことの1つに「取り敢えず足を運ぶこと」の大切さがあります。勿論、これは「無理強い」ではありません。むしろ、キリスト者としての最低限の修行、修養なのです。

3.日曜日

「出エジプト記」には「会見の幕屋/オーヘル・モーエード」というヘブル語が何度か出て来ます。残念ながら「新共同訳」では「臨在の幕屋」等と、身も蓋も無い訳語にされてしまいました。聖書では「モーエード」が「集会」とも訳されますが、本来の意味は「期日、予定日、定刻」です。そこから「祭り、祭日」という意味が生まれました。英訳聖書では「会見の幕屋」は「テント・オブ・ミーティング/Tent of meeting」です。つまり、日曜日の礼拝とは、神さまとの「ミーティング」の「予定日」だったのです。毎度毎度、そんなに約束をスッポかして良いものでしょうか(笑)。

さて、神さまと私たちとの「会見場」である行人坂教会の会堂も、建築から彼是、53年です。半世紀を超えてしまいました。2001〜2005年には、教会創立百周年記念事業として、バリアフリー化を目指した内部の改修工事、会堂外壁と大屋根の補修工事が行なわれました。その時から数えても、早や10年の歳月が経ってしまいました。

階下ホールでは、経路不明の雨漏りが続いており、雨風の日には、ブルーシートを床に敷かなくてはなりません。水道管が漏水したために、何ヶ月か数万円もの水道料金が連続して請求されたのも古い話ではありません。よく見てみれば、外壁にも内壁にも、あちらこちらクラック(亀裂)が入っています。この会堂、実に、よく耐え忍んでいると思います。

最近では、有志が会堂の補修作業を行なうようになりました。皆で一緒に、会堂のこれからを考えてみましょう。何しろ、私たちが「神の家」と成るために必要な場なのですから。

牧師 朝日研一朗

【2015年9月の月報より】

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2015年08月26日

8月第5主日礼拝

       8月30日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 夢がかなう音楽 キスト岡崎エイブラハム宣教師(南支区・久が原教会)
聖  書  ヨハネによる福音書15章1〜8節(p.198)
賛 美 歌  27、196、490、493、540、24、
交読詩篇  122編1〜9節(p.146)

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2015年08月25日

覚悟【コリントT15:1〜6】

聖句「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは(中略)キリストが聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、〜」(15:3-6)

1.最古の主イエスの復活の記録は、使徒パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の中にあります。優れた貿易港をもつコリントは商業都市として栄えた町でした。繁栄の中で、貧富の差があり、互いに正義を主張する分派争いがあり、弱者への軽蔑と不倫が日常化していました。それが教会の中にも起っていることに心いたみます。執筆者パウロはその原因が復活信仰の欠如にあることを示すべく書かれたのがこの手紙です。

2.主イエスの復活は讃美歌327番にあるように「主イエス死に勝ちたまえば、人の命かぎりなし」という約束のしるしであると共に、主イエスの十字架の死を創造主である父なる神が肯定した(良しとした)しるしでもあるのです。主イエスは人々のあざけりと裏切りの中で「父よ彼らをお赦しください」と祈り「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。人の裏切りと軽蔑、神の怒りと無視を全身で受け止め、「神のみこころにかなう者も、みこころにかなわない者をも神は愛している」(福音)事を啓示するために馬小屋に身を横たえた第2人格としての子なるキリストは十字架の死を遂げられました。「愛に生きる」という事はそのような最後を覚悟して生きることです。

3.愛にはそのような覚悟が必要です。覚悟のない愛の本質は欲望(リビドー)です。人はそのような「覚悟ある愛」を生きることはできません。しかし、代々のキリスト者は、主イエス・キリストを通して示された覚悟ある愛を信じて絆をつないできました。「文明崩壊」の著者ジャレド・ダイアモンドは「個人も国家も、危機に遭った時に捨てるものと残す物を選ぶ。選択の成否がその後の運命を左右する」と述べています。主の復活と、私たちの永遠の命を信じる私たちは主イエスの「覚悟」をもって愛と平和を追い求めましょう。

長津栄牧師

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2015年08月18日

8月第4主日礼拝

       8月23日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 覚悟=@音楽       長津 栄牧師(隠退教師)
聖  書  コリントの信徒への手紙T 15章1〜6節(p.320)
賛 美 歌  27、196、490、56、327、24
交読詩篇  122編1〜9節(p.146)

・讃美歌練習(9月の月歌:59番)  礼拝後    礼拝堂

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2015年08月17日

神さまの応援歌【ヨシュア記1:5〜9】

聖句「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」(1:5,6)

1.《応援団》 夏の風物詩と言えば高校野球ですが、近年、チアリーダーに押され気味ですが、応援団の存在も忘れてはなりません。1890年代後半、旧制高校の対抗試合が盛んになる中、弊衣破帽のバンカラ応援隊から生まれたようです。学ランの「ラン」はオランダ人宣教師の衣装から、「フレー!」の声援も英語の「万歳」に由来します。古色蒼然に見えて意外にハイカラだったのです。

2.《非主役》 後輩に大学応援団出身のN牧師がいますが、彼によると、実に地味な集団です。対校試合となれば、いの一番に駆け付け、横断幕の準備、観客席の清掃、試合後にも人知れずゴミ拾いをして帰ります。勿論、主役は選手たちですから、応援団がエールを受けることは稀です。自己満足と批判されることすらありますが、どこまでも「非主役」に徹しつつ、選手たちのお役に立ちたいと願っているのです。そんな応援団の姿勢は、聖書の神さまにも通じるのではないでしょうか。「聖書の主役は神」と主張する牧師もいますが、神さまは裏方に徹していて、信仰と不信仰の人間のドラマが繰り広げられるのが聖書です。

3.《檜舞台》 古代中世の西洋の演劇には「デウス・エクス・マキナ/機械仕掛けの神」がありました。万事休すの場面に神役が現われて、大団円に至らせるのです。「夢落ち」「ご都合主義」とも言います。しかし、これこそ、神を主役にしているように見えて、人間の都合に仕えさせているのです。むしろ、神さまは、私たちを主役として舞台の上に送り出した後は、舞台の袖から祈るような気持ちで見守っておられるのではないでしょうか。私たちを自らの「人生の主役」に立てて下さっているのです。それが「強く、雄々しくあれ」のエールです。私たちも互いに励まし合いながら生きて参りましょう。毎日が「檜舞台」なのです。

朝日研一朗牧師

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2015年08月11日

8月第3主日礼拝

       8月16日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 神さまの応援歌=@音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  ヨシュア記 1章5〜9節(p.340)
賛 美 歌  27、196、490、537、511、24
交読詩篇  122編1〜9節(p.146)

・ホサナ広場映画上映会   昼食後〜午後2時    礼拝堂
 映画:『ライフ・イズ・ビューティフル』(1998年・伊・117分)

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2015年08月10日

熱情の神【申命記6:1〜15】

聖句「あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りが…燃え上がって、…滅ぼされないようにしなさい。」(6:15)

1.《愛の兜》 戦国時代、越後国の上杉景勝に家老として仕えた直江兼次は「愛の兜」が有名です。彼を主役にした大河ドラマの『天地人』を見ると「愛の武将」として描かれています。しかし、彼の「愛」の前立ては「愛宕権現」か「愛染明王」から来ているとされています。戦勝と立身出世、敵の調伏を祈願しているのです。事実、当時のイエズス会の宣教師たちは「ご大切」と翻訳しています。

2.《嫉妬神》 「新共同訳」が「ねたむ神」から「熱情の神」に切り替えたのも苦心の末です。英訳、仏訳、独訳、羅訳に至るまで「嫉妬深い神」「焼き餅焼きの神」なのです。但し、ギリシア語「七十人訳」の「ゼーローテス」は「熱心党」と同じ語です。ヘブル語「カンナー」にも「熱烈な」と「嫉妬深い」の2つの意味があります。但し、旧約聖書のヘブル語の本来の用法からすれば、「エール・カンナー」に「熱情の神」の訳語は当たりません。人間の妬みとは違う、神についてのみ使われる特別な用法の「妬む」なのです。主を否む者には天罰を与え、主のみを礼拝するように要求する、それが「妬む神」なのです。

3.《愛の神》 旧約の神は、荒れ野や砂漠の厳しい暮らしの中から培われた信仰です。「聞け、イスラエルよ」の呼び掛けで始まる「シェマー」は「ユダヤ教の魂」と言われています。唯一神に対する絶対的服従と依存が信仰の中心です。しかし、イエスさまは御子として、全く異なる神を証されました。「アッバ」と呼び掛け得る神、義人にも罪人にも、善人にも悪人にも等しく慈しむ母、「放蕩息子の帰還」を待ち侘びる父でした。北村透谷は、英語の「パッション」を「情熱」と訳しましたが、「受難」の意味の方が古いのです。「熱情の神」が、人間に向かって溢れる愛の余りに「受難のキリスト」を産み出して下さったのです。

朝日研一朗牧師

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2015年08月04日

8月第2主日礼拝

       8月 9日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 熱情の神=@音楽          朝日研一朗牧師
聖  書  申命記 6章1〜15節(p.291)
賛 美 歌  27、196、490、536、483、24
交読詩篇  122編1〜9節(p.146)

・・・当日の音声録音を聴く
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2015年08月03日

破れを担って立つ【詩編106:6〜23】

聖句「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」(106:23)

1.《責任回避》 新国立競技場の問題では、既に59億円もの公費を損失しています。このプロジェクトには責任者が全く存在しないかのように、引責辞任を表明する人はいません。本来「長」と名の付く役職は、不祥事の責任を取るためにあるはずですが、お互いに「自分は迷惑を掛けられた被害者だ」と主張しています。原因究明も検証も為されないままでは、今後も同じ過失が繰り返されるでしょう。

2.《変わり身》 政治学者の丸山眞男は、東京裁判で、戦時中の軍国主義者や政治指導者たちが異口同音に責任逃れをするのを見て「日本ファシズムの矮小性」「膨大なる無責任の体系」と名付けました。宗教界も積極的に戦争に協力したのですが、占領軍が不問にしたために、自らの組織としての責任を明確にすることがありませんでした。それどころか、キリスト教団は、自らを不幸な被害者のように捉えました。また時も時、東久邇内閣の令旨やマッカーサーの優遇政策に乗って、戦後の「キリスト教ブーム」を迎えてしまいました。結果として、戦時下における自らの責任を考えようとする機運が生まれなかったのです。

3.《破れ口に》 「詩編」106編は「贖罪の詩編」です。出エジプトの歴史の中で先祖たちが繰り返した過ちを唱えながら、自らの罪を御前に告白し、赦しを求める儀式です。信仰者の姿勢は「破れを担って御前に立つ」ことです。直訳は「破れ口で主の御前に立つ」です。「破れ口/ペレツ」とは、アッシリアの破城槌によって破壊された城門や城壁の破損箇所です。ここから敵兵が雪崩れ込んで来るのです。「破れ口」が出来たら終わりなのです。しかし、自らの無力を知りつつ、モーセは「この破れ口に身命を賭して立った」のです。神の「驚くべき御業」を信じて「破れ口に立つ」ことこそが、責任ある大人の生き方です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から