2015年09月14日

言が肉となって宿られた【ヨハネ1:1〜18】

聖句「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(1:14)

1.《命と光》 「世界は言葉でできている」と言われるのは本当です。但し、人間の言葉ではなく、神の言葉によって造られています。「初めに言があった」と語り始まる「ヨハネによる福音書」の巻頭言は「言」−「神」−「万物」−「命」−「光」と、イメージの連想を広げて行きます。目に見えない何かを可視化し、誰も知らないものを誰もが知っているもので表現するのです。

2.《ロゴス》 「新共同訳」「協会訳」「文語訳」は「言」、「新改訳」は「ことば」、「明治元訳」は「道」と書いて「ことば」のルビを振ります。幕末の「ギュツラフ聖書」や「ベッテルハイム訳」は「カシコイモノ」としています。因みに「カシコイモノ」は単に「賢い」ではなく、「畏れ多い」ことを表現しています。ヘボンは「言霊」と訳しました。英訳は「the Word」なのに、日本語訳は七転八倒の苦労をして、単なる言葉ではないことを言おうとしています。何しろ「命」であり「光」でもあります。私は「生体エネルギー」のように思います。

3.《身体性》 この「言」が「肉」となったと言うのは「キリストの受肉」です。これは「ヨハネ福音書」の「降誕物語」なのです。当箇所が「受肉/incarnatio」という用語の論拠です。よく誤解されるのですが、聖書は「肉体」「身体」を大切にしているのです。他の命を犠牲にしなければ、自らの命を維持できないことを常に意識していたはずです。何しろ、復活の後にも「霊の体」があるとされているくらいです。「宿る」は貧しい仮小屋の暮らしを言っていますが、それ以上に重要なのが「私たちの間に、私たちの只中に」です。最近では、他の人の痛みを感じない人、庶民の悩みを知らない人も増えて来ました。しかし、イエスさまは、私たちの喜びも悲しみも、身をもって知って居られるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:45 | 毎週の講壇から