2015年10月12日

望めばかなえられる【ヨハネ 15:1〜10】

聖句「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)

1.《願い事》 「望めば叶えられる」「望めば与えられる」と仰っていますが、何か空約束のように思われます。ヘロデ王がサロメに言うように「この私が与えてやろう」と言って保証してくれていません。与えて下さるのは父なる神、しかも未来形なのです。「叶えられる」と訳されているのは「成就する、実現する」です。しかも「あなたがたに」ですから、個人的な願い事には不向きです。

2.《貧乏神》 有名な「求めよ、さらば与えられん」の「与える」は「手渡す」ですから、具体性がありますが、所詮、カピカピのパンに魚の干物です。何となく貧乏臭いのです。物欲的な願いに関しては、イエスさまに頼みにくい雰囲気が漂っています。但し、イエスさまは「貧乏神」ではありません。確かに豊かではなく、地位も権力もなく、大教団を組織することもありませんでした。「石をパンに変えて」貧しい人を養うのではなく、貧しい献げ物を皆で分け合って、満腹させる奇跡でした。御自らは貧しくなられて、周りの人を富ませられたのです。

3.《十字架》 キリスト教の「清貧」とは、世捨て人の暮らしや修道生活のことではなく、他の人のために自分が貧しくされることを厭わない生き方です。ラテン語の「清貧/paupertas」は「奪い取る/paupero」から来ています。上着を奪おうとする者に、下着をも与えるのです。実際、十字架の際に、主はローマの兵士たちから衣を剥ぎ取られました。私たちが思わぬ災難や苦難に遭うことは、この十字架と繋がっている、そのように認識した時が「清貧」なのです。人生は喪失の連続です。生きることは、奪い取られていくことですが、十字架に繋がる時、清くされるのです。私たちの願いは失われたもの、奪われたものを取り戻すことです。そして、それを成就できるのは神さまだけです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:46 | 毎週の講壇から