2015年10月25日

「秋のちいさなコンサート」のお知らせ

2015年11月8日(日)に当教会にてコンサートが開催されます。

ご案内のパンフレットです。

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posted by 行人坂教会 at 20:49 | 教会からのお知らせ

教会暦を身につけよう

1.三つの出来事

キリスト者の信仰にとって、大きな出来事は3つあります。言うまでもありません。イエス・キリストの「降誕」と「復活」、そして「聖霊降臨」の出来事です。その3つは、キリスト教の「教会暦/〔羅〕Annus ecclesiasticus/〔英〕Ecclesiastical calendar」の中で、それぞれ三大祝日に該当します。即ち「クリスマス/降誕日」「イースター/復活日」「ペンテコステ/聖霊降臨日」です。

12月25日の「クリスマス」は誰でも御存知でしょう。「春分」に当たる「イースター」は(西方教会では)3月22日から4月25日までの35日の間を移動する「移動祭日」です。これも最近では、ディズニーランドの「ハッピーイースター」その他、西欧の風俗が移入される中で認知度が高まりつつあります。

その点、教会に通う信徒だけが守っているのが「ペンテコステ」です。これもまた「イースター」の50日後と決まっているため(「ペンテコステ」とは「50日目」という意味です)、5月10日から6月13日の間を、必然的に移動します。天に召されたキリストが聖霊と成って、弟子たちの上に降り注ぎ、力強く証を始めた日とされています。それで「聖霊降臨日」と言います。米国では、この日に洗礼を受ける者たちが「白い衣」を着ていたことから「ホイットサンデー/Whitsunday」と呼ばれています。

教会生活をする者は誰でも、最低限この3つの祝日を守っています。イエスさまの御降誕に与るだけではなく、その十字架の死と復活の命にも与りたいし、聖霊の導きと力にも与りたいからです。

2.三位一体の力

キリスト教では「父と子と聖霊の御名によって」と、牧師の「祝祷/Benediction」が唱えられます。礼拝の最初と最後を飾る「頌栄/Doxologia」も「三位一体の神に栄光を帰し、その御名を頌め讃える」歌です(「ドクサ」とは、ギリシア語の「栄光」です)。「主の祈り」の結びに「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」の「御国・御力・御栄え」と言われているのも、それに対応しています。

それと同じように、実は、私たちの暮らしの1年間もまた、「教会暦」では3つに分かれているのです。それが「クリスマス/降誕節」「イースター/復活節」「ペンテコステ/聖霊降臨節」なのです。クリスマスと言っても、その日1日を言うのではなく、その祝日を前後する期間を言います。よく知られているのは、クリスマスの4週前の日曜日に始まる「アドベント/待降節」です。

しかし、近年では「アドベント」を含めて9回の日曜日を「降誕前節」として守るように成りました。12月25日の「降誕日」から本来の「降誕節」が始まります。クリスマスを中心に据えた前後の期間を一括して、これら全てを「降誕」をテーマに生活する期間(秋から冬)と定めるのです。同じように、イースターを中心にして、その前後を「復活前節」「復活節」の期間(冬から春)として守るのです。「レント/受難節」を復活の準備期間、「復活前節」として捉え直すのです。すると、イエスさまの受難と十字架の死の出来事が、復活の命を招来する秘儀であることが自然に受け止められるのです。そして最後に。ペンテコステから始まる「聖霊降臨節」(春から秋)です。

このように1年の「教会暦」を3つに分け、3つの救済の出来事として、暮らしの中で味わうようにしては如何でしょうか。

神秘主義の世界では、「三位一体」の起源が太陽の現われに関係があるとされてます。「光」の象徴である球体は、日の出、真昼、日没の3つの段階を持っていて、万物が成長、成熟、崩壊する様子を体現します。しかも、太陽は夜毎、死にますが、朝と共に蘇えるのです。この永続する運動を、自身のバイオリズム(生体運動)の中にも組み込んで行くことが大切なのです。人間が太陽と共に生活して来たのは、それなりの理由があるのです。

そして、太陽は「日周運動」を行なっているだけではなく、「年周運動」をも行なっています。占星術の世界では、太陽は天の十二の家(黄道十二宮)に30日ずつ滞在しながら、次々と通過して行き、72年に1度の割合で退行するとされています。日本基督教団の採用している聖書日課「日毎の糧」が「4年サイクル」に成っていることは、太陽の「年周運動」を考えた上で作られているのです。勿論「72」や「12」は「4」の倍数であるのみならず、「3」の倍数でもあります。

3.継続が力なり

キリスト教の中でも、プロテスタント教会には、特別な「修行」「修道」は存在しません。その意味で、プロテンタントは「世俗化したキリスト教」と言えるでしょう。ローマカトリックが神秘めかして保持して来た聖性を、何もかも取っ払ってしまったからです。聖人もいなければ、聖遺物も聖水も聖餅もなく、聖地すらもありません。聖餐式に頂くのも食パンと葡萄ジュースに過ぎません。

但し、余りにも世俗化の度が過ぎたと言うべきでしょうか、洗礼を受けた信徒の中でも、礼拝を重んじず、聖書を読まず、奉仕に参与しない人が増えて来ました。大変に残念なことです。何より残念なのは、特別な修行などしなくても、ただ、教会に通うだけで自然に身に付くはずの信仰が無残に打ち捨てられているということです。

イエス・キリストの降誕も、受難も十字架も、復活の命も、聖霊降臨も三位一体も、教会暦の中で自然に養われるものなのです。特別な勉強をしなくても、ただ、真面目に礼拝生活を続けるだけで、自分のものにすることが出来るのです。

牧師 朝日研一朗

【2015年11月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など

キリスト教こんにゃく問答]Z「死に至る病」

1.病は気から?

ベタニア村のマルタとマリアの姉妹が使者を遣わし、イエスさまに「兄弟ラザロが重い病気を患っている」と知らせました。ところが、イエスさまは「この病気は死で終わるものではない」と応えて、その地に尚、2日間も滞在し続けるのです。その後、イエスさまがベタニアに到着した時には、ラザロは既に死んでいて「墓に葬られて既に4日も経っていた」と書いてあります。その後、イエスさまはラザロを墓から呼び戻します。

余談になりますが、ラザロこそは「元祖ゾンビ」です。19世紀ロシアの幻想文学者、レオニード・アンドレーエフは、『ラザルス』という短編小説で、復活させられたラザロが辿る怖ろしい運命を描いています。これについては『半七捕物帳』の岡本綺堂による名訳(但し、英訳からの重訳)があります。

それはともかく、イエスさまの有名な台詞「この病気は死で終わるものではない」(「文語訳」では「この病は死に至らず」)から、19世紀デンマークの哲学者、セーレン・キェルケゴールは『死に至る病』という本を書きました。「この病は死に至らず」の主の宣言が、復活の希望であるのに対して、「死に至る病」とは絶望のことです。人間にとっては、絶望こそが本当の「死に至る病」だと言うのです。

何気なく、ラテン語訳「ウルガタ聖書」を読んでいたら、「この病は死に至らず」は「インフィルミタース・ハェク・ノン・エスト・アド・モルテム/infirmitas haec non est ad mortem」と書いてありました。「病」は「インフィルミタース/infirmitas/無気力、怠惰」という語が使われていて、通常の「モルブス/morbus/病気、病状」という語ではありませんでした。これでは、まさに「病は気から」という話に成ってしまいます。ビックリ仰天しました。

そこで、ギリシア語原典を確認すると、「アステネイア」という語が使われています。その語の第一義は「無力、弱さ」、「病気」は第二義だったのです。ここでも、一般的な「病気/ノソス」という語を使っていないのです。つまり、「ウルガタ」はギリシア語原典に忠実だったのです。

2.病は神罰か?

旧約聖書では「病」に「ホーリイ」というヘブル語が使われています。「ハーラー/弱くなる、病気になる、患う」という動詞から来た語です。即ち、「病」とは、神によって「弱められること」だったのです。旧約の世界では、良い事も悪い事も全て、唯一の神に由来すると考えられていました。健康や繁栄も「神からの賜物」であると受け止められましたが、その反面、病気に罹った場合も、その人と神との関係の中に、何か良からぬ問題があったと考えられたのです。所謂「神罰」です。

具体的に律法を破ったり、犯罪まで至らずとも、道徳的な罪を犯したり、そんな場合に、神に打たれて、その人は病気に罹ると考えられていたのです。その典型とされたのが「らい病」です。

念のため申し上げますが、現在の「ハンセン病」と同一視するべきではありません。「新共同訳」では、1996年の「らい予防法」廃止に伴い、「らい病」は、差別用語として一切の使用を取り止め、以後「重い皮膚病」と訳しています(訳語変更は1997年版から)。この曖昧な語が「ハンセン病」と混同されて、患者が被った差別や迫害の歴史に配慮してのことです。

「らい病」は「ツァーラース」「メツォーラー」と言いますが、いずれも「打つ/ツァーラー」から来ていて、「打たれた者」を意味します。「神に打たれた病気」だったのです。「民数記」12章では、モーセの独裁指導体制に逆らったミリアムが罹患します。更に「ヨブ記」において、義人ヨブを絶望の淵に追い詰めるのも、「あなたが罪を犯したからこそ、災難と病気が襲って来たのではないか」という、友人たちの問いかけでした。

ともかく、神との霊的関係が破れたために病気になったと考えられたのですから、癒されるための第一条件は「悔い改め」によって、神との正しい関係を回復することでした。「悔い改めて癒される」(「イザヤ書」6章10節)のです。事実、ヒゼキヤ王は、悔い改めることで、神に赦され、「死の病」から「寿命を15年」延長されるのです(「列王記下」20章、「イザヤ書」38章)。

それに対して、どんなに友人たちがヨブに「悔い改め」を迫っても、ヨブ自身が「悔い改め」を拒み続け、神に対する異議申し立てを止めようとしなかった、そのことも忘れてはいけません。「病は神罰」説に対して、真っ向から対決しているのです。

新約聖書を信じる私たちにとっても、この問題は大切です。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか?」という弟子たちの問いに対して、イエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と断言されました。「神の業がこの人の上に現われるためである」(「ヨハネによる福音書」9章1〜4節)と。

3.癒される理由

「病は神罰」という因果論は意外と根深いのです。日本社会の通念は言うまでもありません。伝統的な日本の宗教風土の中には、呪いや祟りの信仰が強く残っています。病気や身体障碍、精神障碍、災難や不幸も全て、それによって説明されていきます。「ちゃんと先祖を祀っていない」「墓が荒れている」「何代前の先祖の殺傷因縁が今に祟っている」等と、無責任なことを言います。その口上が実証されることはありません。

そこまでではありませんが、因果論は現代のキリスト教信仰やキリスト教会の中にも、未だ根を張っています。そこには「神癒/ヒーリング」との関係があるのです。良い事も悪い事も唯一の神に由来するという立場(唯一神信仰)からすると、癒されるのも神ならば、病によって「打たれた」のも神と成るからです。

「共観福音書」では、イエスさまが「あなたの罪は赦された」と宣言して、病者や障碍者を癒していかれる御姿が描かれています。勿論、イエスさまに「神の権威」があるということを言いたいのですが、その病気や障碍は神に打たれた結果であるという、当時の人たちの信仰を反映してもいるのです。

実際、「神癒」の信仰を強調しつつ、神を善なる御方と言い続けると、多神教的傾向が生まれてしまいます。神と同等か、少し劣る程度に強力な悪魔、悪霊の勢力を設定せざるを得なくなるのです。「神癒」を行なっている教会が、同時に「悪霊祓い」も盛んになるのは、自然の摂理です。多神教的傾向が必ず出て来てしまうのです。

私が「イエスさまの御言葉は凄い!」と思うのは、むしろ、イエスさまが、あらゆる因果律(如何にも人間が説明するような)を超越しておられるからです。私たち自身を振り返ってみれば、何か不幸や災難に遭ったり、病気に罹ったり、障碍を負ったりすると、必ず「どうして、こんなことに成ったのか?」と原因を探します。勿論、現実世界の原因究明は大切ですが、その追及は一旦、社会性を失うと、単なる「犯人捜し」になり、家族の誰かを(あるいは、自分自身を)責め続けることにもなり兼ねません。

しかし、イエスさまは「神の業がこの人の上に現われるため」と言われるのです。ラザロの物語でも同じことを言われています。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。何が原因なのか、誰が悪いのか、そのようなことは一切、捨象されているのです。本人が悔い改めるかどうか、それすらも問われていないのです。

私自身、神の癒しを求める一人の弱い人間に過ぎません。ヨブと違って義人ではなく、罪人として、繰り返し悔い改めなければならない人間です。しかし、私が信じているのは、条件付きの取り引きをする神仏ではなく、全ての因果律を超越するキリストだけです。


【会報「行人坂」No.251 2015年10月発行より】

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彼岸と此岸

今年の6月、父の二十五回忌法要のために、久しぶりに実家に帰りました。キリスト教の牧師が主日礼拝を休んで、仏事(臨済宗)に参加するのですから、余り気持ちの良いものではありません。けれども、亡き父のことを念じながら、「般若心経」や「白隠禅師座禅和讃」を唱えたのでした。素直な気持ちで、改めて「和讃」を詠んでみると、私たちの信仰にも相通じるものがあります。

「衆生本来仏なり/水と氷の如くにて/水を離れて氷なく/衆生の外に仏なし」という出だしは、禅宗と無縁な人でも聞いたことがあると思います。「私たちは本来仏です/それは水と氷の関係のようなもので/水がなければ氷が出来ないように/私たち以外に仏はあり得ないのです」。「わたしたちは、すでに神の子なのである」(協会訳:「ヨハネの第一の手紙」3章1節)、「神の国は…『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(協会訳:「ルカによる福音書」17章20〜21節)、そんな御言葉を思い出させるのです。

春分と秋分に墓参りに行く「お彼岸」は「彼岸会」の略です。本来の「彼岸/パーラ」とは、単に「あの世」のことではなく、理想の「涅槃/ニルヴァーナ」の世界のことです。私たちが生きたり死んだりしている「人の世界」である「此岸」に対して、「仏の世界」を言うのです。ところが、「白隠禅師座禅和讃」は、それを逆転させて「仏の世界」は「人の世界」の中にこそあると説いているのです。この逆説のロジックが、見事なくらいに、イエスさまの御言葉と同じなのです。

「神の国」や「涅槃」はともかく、確かに「水」のイメージには、一種の彼岸性があります。日本でも「水底の国」は「あの世」「黄泉」です。旧約聖書でも「陰府」を「淵」「大水」と言います。しかも、それは水面として「この世」にも接しています。フランスの詩人、ジャン・コクトーが映画『オルフェ』で描いた「鏡」もまた、「水」のヴァリエーションです。「この世」と「あの世」との境界性という点に着目すれば、「水」の持つ大きな意味が分かるはずです。そして思い返せば、教会の「洗礼」こそは、キリストの死に与ることで、古い自分を葬り去り、「新しい命」に生きるための儀式でした。

洗礼を経ることによって、私たちは既に「キリストの命」を宿しているのです。但し、私たちの「ただ中にある」ことを、繰り返し告白し確認していかなくてはなりません。そうしなければ、折角の「キリストの命」も全く発動しないのです。それこそが、私たちが毎週、礼拝を守っている意味です。謂わば、礼拝は「スイッチオン」なのです。つまり、私たちが共に、イエスの御名によって祈る時、賛美の歌声を上げる時、聖書に聴き従う時、身と魂とを献げる時、信仰の共同体であることを告白する時、「キリストの命」が発動し、ダムの放流水のように、私たちの人格と人生の中に流れ込んで、大きなエネルギーと成るのです。

【会報「行人坂」No.251 2015年10月発行より】

posted by 行人坂教会 at 04:00 | ┣会報巻頭言など