2015年11月02日

人の生涯は草のように【詩編103:14〜16】

聖句「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる。」(103:15,16)

1.《雑草の名前》 昭和天皇の侍従を半世紀以上も務めた入江相政は、『宮中侍従物語』という本の中で、昭和天皇から「雑草という名前の草はない」と叱られた逸話を紹介しています。御所の庭が草茫々になっていたので、侍従たちが草刈をした時、「雑草にも名前と役割があるから粗末に扱うな」と戒められたそうです。天皇の「お優しいお人柄」として語られることが多い逸話ですが、純粋に生物学者、分類学者としての発言だったのではないでしょうか。

2.《名前を呼ぶ》 昭和天皇が、せめて自分の専門であるキノコやポリプ、庭の雑草ほどに民草の暮らしに思いを向けていたら、沖縄戦も大空襲も、原爆もソ連参戦も回避できたと思います。他方、摩文仁の「平和の礎」には、沖縄戦の犠牲者が敵味方の区別なく刻み続けられています。死者を決して忘れないという思いを表現しています。私たちの記念礼拝で「天上の友」の名前を読み上げるのも、覚えるためです。そして、たとえ私たちが忘れてしまっても、神さまがお忘れにはなりません。私たちも互いに消息を尋ね、覚え合いたいものです。

3.《神の眼差し》 聖書は分類学に無関心ですから、「名もなき草」として大雑把に「草」と言っています。但し、湿潤温暖な日本ではありませんから、「草」に寄せる思いは違います。緑の草原も5月のシロッコ、6月の乾季の始まりと共に、無残に消え失せてしまうのです。殊「草」に関する限り、聖書の方が「もののあはれ」を心得ています。たとえ「名もなき草」であっても「雑草」と蔑んだりしないのです。これが神の眼差しです。造り主ですから、塵芥に過ぎない者にも御心を留めて居られるのです。自らの「灰」であることに思いを向け、主の愛に触れましょう。その時こそ、私たちの命の光は輝くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:48 | 毎週の講壇から