説 教 光あれ。。 =@

聖 書 創世記 1章1〜5節(p.1)
賛 美 歌 27、172、490、211、205、78、88
交読詩編 36編6〜10節(p42)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(15:7)
1.《動物たちの礼拝》 ボリビア出身の仏語作家、シュペルヴィエルの『まぶねの牡牛とロバ』では、御降誕の証人である牡牛とロバの仲介で、世界中から様々な動物や鳥や虫たちがお祝いに駈け付けます。さながら巡礼のようです。米国の詩人、ノーマ・ファーバーの絵本『どうぶつたちのクリスマス』では、北国の冬眠中だった動物たちが馬屋を訪れますし、『飼い葉桶の母親たち』では、家畜小屋に居合わせた牝牛や雌鳥たちがマリアの初産を手伝うのです。
2.《降誕日の求心力》 降誕を描く絵画でも人形セットでも、段々と出演者が増えて豪華に成って行きます。人間だけではなく、羊から駱駝や驢馬、山羊から牛馬へと広がり、もはや飼い葉桶の傍らに何がいても変ではない程です。「我も我も」と、人も動物たちも増えて行く。それが「クリスマスの魔力」です。
3.《共に生きる社会》 書家の金澤翔子は「共に生きる」を自らのテーマとしています。京都の建仁寺で「論語」の1節「恕乎」という彼女の屏風が展示されていました。「恕」とは、単なる「思い遣り」ではなく「自分と異なる者をあるがままに受け入れる」の意です。彼女は誰が教えたのでもないのに節分には「福は内、鬼も内」と言って豆撒きをするそうです。世間が無自覚なままに「排除の論理」で動くことに対する彼女なりの抵抗です。
4.《異教徒の救い主》 イスラエルは自らを「選民」と考え、救いを特権的に捉えて、「異邦人」を見下していました。ところが、宗教改革期に各国語に翻訳された聖書では「異邦人」が「異教徒」と訳されるのです。これは意訳ですが、却ってクリスマスの精神、神さまの御心をよく伝えているのではないでしょうか。私たちが信仰を告白している神は、異教徒をも救う御方です。
朝日研一朗牧師
聖句「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(2:6,7)
1.《厩戸皇子》 『日本書紀』によると、聖徳太子もまた、馬小屋の戸口(厩戸)で母親が産気付いて産み落とされたとされています。9世紀初頭の『上宮聖徳太子伝補闕記』には「受胎告知」まで披露されます。これは、7世紀から3百年に渡って行なわれた遣唐使の余波ではないか。同時期に唐の都、長安で流行した景教(ネストリウス派)のトピックスを、空海をはじめとする留学生が持ち帰ったのではないかと想像したのが、歴史家の久米邦武です。
2.《家畜小屋》 ところが、残念ながらイエスさまは「馬小屋」で生まれていません。「家畜小屋」ですらありません。讃美歌にも「馬槽」と歌われていますが、「飼い葉桶」は馬用ではありませんでした。ユダヤには家畜として馬を飼う習慣はなく、「飼い葉桶」という語の原義からすると、牛を肥やすのが目的でした。家畜は小屋で飼育されていたのではなく、洞窟を利用して家畜を収容していたらしいのです。「飼い葉桶」は木製ではなく、長方形の石灰岩に飼い葉を入れる穴を穿った代物でした。異文化へ移植する中で生じた変質なのです。
3.《洞窟の宿》 イエスさまは「洞窟おじさん」ならぬ「洞窟赤ちゃん」だったのです。思い返せば、その生涯の終わりも、アリマタヤのヨセフによって遺体を引き取られて洞窟に納められるのです。同じヨセフの名を持つ人物が、その生涯の初めと終わりに、迷い悩みながらも勇敢な行動をして、彼を守る点も共通しています。プレゼピオ(降誕人形セット)の創始者とされるアッシジのフランチェスコも、当初は、洞窟の岩棚に藁を敷いて、等身大の蝋人形の幼子を置いて、街の人たちが羊飼いや博士を追体験できるようにしたそうです。私たちが心掛けたいのは「最初のクリスマス」のように迎えることです。
朝日研一朗牧師
聖句「エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこに留まっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(2:13)
1.《ターミネーター》 1984年のSF映画『ターミネーター』では、救世主出現を阻止するため、未来から送り込まれた殺人アンドロイドが、その母親を殺そうと付け狙います。「LAに住むサラ・コナー」という情報しか無いため、アンドロイドは片っ端から同姓同名の女性を殺害していきます。この設定はクリスマス物語です。未来の救世主、ジョン・コナーのイニシャルは「JC」、母親サラの名前は「受胎告知」の元祖、アンドロイドはヘロデの兵士です。
2.《大いなる叫びが》 当時のベツレヘムの人口は1〜2千人、乳幼児の数は百人弱でしょう。人数の多い少ないではありませんが、百人近くの赤ん坊が一斉に殺害されたことを想像すると戦慄を感じないではいられません。ヘロデは「片っ端から殺させた」のです。「ヘロデの嬰児虐殺」のモデルは「出エジプト記」1章のファラオだと言われます。しかし、私が共通性を感じるのは、同じ「出エジプト記」でも、むしろ12章「初子の死」です。「死人の出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」のでした。
3.《暴力に囲まれて》 私たちは誰でも、赤ちゃんや乳幼児を見ると、自然に心が和みます。自分の子や孫でなくても、微笑んでいたりします。赤ん坊を真ん中に置く所から、平和が生まれるのです。2千年前のベツレヘムで、イエスさまの降誕は暴力に囲まれていました。ローマ帝国の支配、臨月の身での長旅、宿無し、ヘロデの殺害命令、夜逃げ…。しかし、両親は、イエスさまを命懸けで守ろうとしました。羊飼いたちは羊毛を贈り、「家」に招き入れてくれた人もあり、学者たちの贈り物は難民生活の支援になったことでしょう。赤ん坊を中心にした時、小さな輪が出来て、平和が世界に拡がって行ったのです。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたは、布に包まって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(2:12)
1.《違いが分かる?》 その昔「違いが分かる男の…」というインスタントコーヒーのテレビCMが人気を博しました。幼心に私も「違いが分かる男」に成りたいと思って鋭意努力して参りましたが、中々違いが分かりません。世の中には、茶の味を飲み分けるを競う「闘茶」、ワインや日本酒の「試飲会」もあり、鮮魚の「目利き」もいます。大したものだと思います。私には「人を見る目」さえもありませんから、詐欺紛いの金の無心に騙される事しばしばです。
2.《似て非なるもの》 「いずれがアヤメかカキツバタ」と言うように「似て非なるもの」が数多くあります。単なる種類の違いではなく、真偽、真贋の違いもあります。本物があれば、当然それを真似る偽物が出て来ます。新約聖書に「偽メシア」「偽預言者」「偽使徒」「偽兄弟」「偽教師」等の語が頻出している所を見ると、騙された人も多かったのでしょう。「偽使徒」に注意を促すパウロ自身も、「偽兄弟」の被害に遭っていますから、笑うに笑えません。「私は騙されない」等と高を括るのではなく、少しは被害を受けて免疫を付ける必要があります。
3.《おむつのメシア》 イエスさま降誕の時代、ユダヤの民は救い主の到来を心待ちにしていました。当然それに呼応して、自称メシア、他称メシアが数多く現われました。熱心党の創始者、ガリラヤのユダ、テウダ、ユダヤ戦争の指導者、メナヘム、バル・コクバ等です。彼らは民衆のメシアニズムを鼓舞して反乱を指導しましたが、ローマ軍に鎮圧され滅ぼされてしまいました。どうして福音書にクリスマスの物語が加えられたのでしょうか。どうして、私たちのキリストは「おむつの赤ん坊」として登場するのか。それは、私たちが抱く軍事的指導者としてのメシアに対する反論では無かったでしょうか。
朝日研一朗牧師