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標語 『この土の器に宝が』
わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
(コリントの信徒への手紙U4章7節)
1.契約更新
私が行人坂教会に赴任して10年の歳月が過ぎようとしています。新年度(4月)から11年目を迎えることになります。尤も、「解任要求」や「退任要望」も出ず、留任について総会の承認を得られればの話ですが…(笑)。
札幌の前任教会では「5年契約」を更新して、10年目を迎えた後、次の再更新は、財政的な観点からも教会形成の方針からも、難しいということでした。役員会では「先生御自身のステップアップのためにも、新しい任地を探されては如何ですか?」と、やんわりと仄めかして頂いたものです。
ところが、当教会においては「任期」や「契約更新」の話などは、ただの一言も出て来ませんでした。そのことを確認することも忘れて、私自身、何も考えずに、来年度の「牧会方針案」や「行事活動計画案」を役員会に提出してしまいました。どうも、来年も再来年も留任するのが当たり前のように思われているようです。そこまで信頼して頂いているなら、こんなに光栄なことはありません。先程の北海教区の「契約」観念からすると、東京の教会では、牧師と信徒とがお互い何も言葉にしなくても、了解し合っているかのようです。鷹揚と言えば鷹揚と言えましょう。
しかし、牧師と信徒との関係が悪化した場合には、どうするのでしょうか。例えば、牧師がカルト化したり、スピリチュアル・アビューズ(「信仰」を振り翳した虐待と横暴)を始めた場合には、どのようにして対処するのでしょうか。牧師が自分の立場を悪用して私利私欲に走ったり、教会運営と教会財産を私物化したりした時など、信徒は毅然と対処できるのでしょうか。老婆心ながら心配に成って来ます。実際、近隣の教会にも、そのような事例が幾つかあるのです。私自身は、定期総会を「契約更新」の時として受け止めています。
2.生きもの
それにしても、10年と言えば、確かに一時代ではある訳です。「十年一昔」と言うくらいです。それは子どもたちの成長を見れば一目瞭然です。この教会に赴任した後、長男は小学校の2年生に成りました。二男は幼稚園の年中組に入りました。それが来年度は、それぞれに高校3年生と中学3年生に進級します。
毎日、顔を合わせているせいでしょうか、自分の子を見ていても、よく分かりませんが、他家の子を見ていると、時間の流れが実感できます。10年前「教会学校こどもの礼拝」に出席していた子たちが、就職したり結婚したという消息を耳にするにつけ、「十年一昔」の現実がリアルに迫って来るのです。
この10年の間に、28名の会員が天に召されています。諸般の事情から、当教会が葬儀に関わったのは、その内19名に過ぎません。約3分の2です。キリスト教の信徒の場合、本人の遺志よりも、遺族の希望や家の宗教が優先されて、仏式の葬儀にされてしまうことも少なくないのです。また、最近では「家族葬」と為さることも多いのです。
それはともかくとして、思えば、実に大勢の人たちが旅立ってしまわれたものです。その中には、10年前にはお元気で、毎週の礼拝や聖書研究会を御一緒した方も多く、「十年一昔」の思いと共に、改めて「今、私たちが日曜毎に御一緒できることは、実は、とっても貴重な時間なのだな」と思われるのです。
勿論、寂しい悲しいばかりではありません。10年前には全く知らなかった人が、今ではお仲間に成って、御一緒に礼拝を守っているということもあるのです。この10年の間に、受洗や転入を経て、役員を務めて頂いた信徒の方も大勢あります。重要な奉仕を担っている方たちも沢山います。
このようにして考えると、やはり「教会は生きものだな」と思います。新陳代謝を繰り返しているのです。勿論、牧師の交代も新陳代謝機能の1つですが、それだけではなくて、天に召される者があり、新たに神さまが教会へ召される人もあるのです。肥え太るばかりが成長ではありません。生きものならば、皮下脂肪が落ちてスリムに成る時もあります。冬籠りを終えた直後の熊などは痩せ細っています。
3.新陳代謝
因みに「新陳代謝」は英語で「metabolism/メタボリズム」と言います。「新陳代謝させる」が「メタボライズ/metabolize」です。ラテン語で「メタボレー/metabole」と言えば音楽用語で「変調、音調変化」、修辞学の「語句転換」、要するに「倒置法」です。例えば、ユーミン(荒井由美)の「翳りゆく部屋」のサビの歌詞「どんな運命が愛を遠ざけたの/輝きはもどらない/わたしが今死んでも」とか、初音ミクの「うそつきでもすき」のサビ「君はつく/そんな嘘を/君は重ねる/そんな嘘を」とか…。
ですから、英語の「メタボリズム/metabolism」も本来は「物質交代」という意味です。生命の維持のために生物の体内で行なわれる化学変化のことです。吸収された栄養がエネルギーに変換されたりすることです。太ったお腹を指して「メタボ」「メタボ」等と言って蔑むのは、語の使用法において、大いに間違っているのです。
世に言う「メタボ」とは「メタボリック・シンドローム/代謝症候群」という語の略称ですが、むしろ問題視されているのは「代謝機能の低下」の方であって、「メタボリズム/新陳代謝」そのものは、生命維持に必要なことなのです。
因みに、語源はギリシア語の「メタボレー」です。「メタ/真ん中に、間に」+「ボレー/投げる」で「取り引き、売買、変化、変更、転換」です。やはり「十年一日の如く」ではありません。変化、代謝を続けているから、私たちは生きているのです。教会も同じです。
牧師 朝日研一朗
【2016年2月の月報より】
聖句「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(1:5〜7)
1.《七味唐辛子》 江戸時代前期に漢方薬研究家の中島徳右衛門が開発したミックススパイス(混合調味料)です。生唐辛子、焼き唐辛子、芥子の実、麻の実、黒胡麻、粉山椒、陳皮が、中島が開発した当時の「七味」でした。世には「一味唐辛子」もありますが、これは乾燥唐辛子を粉末しただけの物です。「七味に一味を加え」ても唐辛子の分量が増えるだけです。
2.《七つの美徳》 聖書にも「七味/seven-flavor」が出て来ます。7つの徳が挙げられていますが、これを「徳目表/virtue list」と言います。冒頭の「信仰」は「入信」、信仰生活の始まりです。「徳」は「善行」へと一歩踏み出す勇気です。「知識」は神の御心を尋ねる「祈り」の心、「自制」は「貪欲」に対して、浪費を戒めます。「信心」は「敬虔」、神さまと共に歩む人生です。「兄弟愛」は「友愛」です。但し、これらは「ステージ/段階」ではありません。進級試験もありません。「七つの部屋」「七つの味わい」なのです。
3.《一手間の心》 この「七つの美徳」に終わりません。これらに「愛を加えなさい」と言われています。これらの徳目はいずれもイエスさまの十字架の愛に通じているのです。しかも「加える/エピコレーゴー」は「自分の費用で催す」という意味です。アマチュアの劇団や合唱団が自腹を切ってコンサートをするのと同じなのです。借り物ではなく、自前で、自分から積極的に関わって行くものなのです。料理などで「もう一手間を加える」「一手間掛ける」ことがあります。その時、別の味わいが生まれるのです。「手抜き」が罷り通る世の中ですが、その中にあって「手間を惜しまず」「手間暇を掛ける」行き方を目指しましょう。多少「手間取って」時代の波に乗り遅れても構いません。
朝日研一朗牧師
聖句「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」(20:35)
1.《ロックフェラー》 世界一の大金持ちになったロックフェラーが、医師から余命1年を宣告された時、「受くるより与ふるが幸いなり」の聖句に出会い、慈善事業を成して、自身の病も癒され長寿を全うしたという話があります。熱心な信徒であった母親が勧めた「3つの掟」を守った御蔭で、ビジネスで大成功を収めたという話もあります。成功を餌に福音を語るのは如何なものでしょうか。
2.《三途の川の船賃》 NHKスペシャル「新・映像の世紀」では、ロックフェラーがモルガンと共に「資本主義の悪魔」として描かれていました。大恐慌まで利用して自己資産を倍増させ、その遺産は20兆円にも達したそうです。彼の「友よ、天国で会おう」との挨拶に、臨終の床を見舞った盟友、フォードは「君が天国に行けたらね」と答えたそうです。「駱駝が針の穴を通る」よりも難しいことです。日本には「三途の川の渡し賃」として「六文銭」を棺桶に入れる習慣がありますが、あの世には一銭も持って行くことが出来ません。
3.《どんでん返し!》 ロックフェラーの心を動かした聖句ですが、福音書の中には出て来ません。パウロの訣別説教の中に引用されるばかりです。イエスさまが「幸いなり」と宣言される祝福と言えば、「マタイによる福音書」5章「八福の教え/真福八端」が有名です。しかし、「使徒言行録」の前編「ルカによる福音書」6章では「貧しい人々」「今飢えている人々」が幸いとされています。金持ちや現世の幸せを享受している人に対する呪いの言葉すらあります。要するに、全てが御破算になる「価値の転倒」を、イエスさまは訴えているのです。そこから改めて「人間にとって、本当の幸せとは何か?」と問い直し、尋ね続けていくのが、私たちに相応しい人生の歩みなのかも知れません。
朝日研一朗牧師
聖句「誰も、新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしない。…新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(2:22)
1.《技術革新》 「ツール・ド・フランス」でも知られる、米国の自転車メーカー「スペシャライズド」の社是は「Innovate or Die/革新を、さもなくば死を」です。日本のメーカーの社是に比べると過激ですが、モノ作りに関わる人が仰ぐ信条としては決して間違ってはいません。「社是」に近い英語は「経営信条/Company Creed」でしょうか。すると、私たちの「信条」にも通じます。そもそもカンパニーもプロテスタント教会の組織運営が起源です。
2.《耐える力》 経営学者ドラッカーの一族は、16世紀の聖書印刷業者にまで遡ることが出来るそうです。「宗教改革は、ルターではなくグーテンベルクの力」と言われるように、技術革新が世の中を変えたのです。しかし「イノベーション」の語源は「農地開墾」や「挿し木、苗、若木」「新しい葡萄を植える」に通じます。19世紀に欧州の葡萄が、北米から来た害虫によって壊滅した時、北米産の野葡萄を台木として接ぎ木したことで耐性が出来たことも思い出されます。
3.《伸縮自在》 「新しい葡萄酒」も「新しい革袋」も、同じ「新しい」ですが、原語では「ネオス」と「カイノス」と使い分けられています。ほぼ同じ意味なので、どの翻訳も頓着していませんが、「new」と「fresh」とに訳し分けた英訳聖書がありました。「おニューのワインは、フレッシュな入れ物に」です。フレッシュとは弾力性、柔軟性、伸縮性、融通が利くです。何が何でも「前向き」ではなく、時には「尻込み、退却する」こともあるのです。世の中と異なる鷹揚さ、見守り育てる涵養さこそ、現代社会では、むしろフレッシュです。キリスト教会の「強み」(ドラッカーの言う)は、テクノロジーではありません。キリストの愛を信じて生きる人たちの共同体であることなのです。
朝日研一朗牧師