2016年03月14日

暗い夜がふけるのは【マルコ15:33〜41】

聖句「そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(15:39)

1.《十字架の七言》 ローマカトリック教会では「十字架上の七つの言葉」を採り上げて「聖週間」の瞑想の歩みとすることがあります。7つの御言葉を通して、1日ずつ、主の十字架を偲ぶのですが、一度に読んでみると、困ったことに、イエスさまが何度も息絶えて、息を吹き返しているかのような印象を受けてしまいます。「ヨハネによる福音書」から3言、「ルカによる福音書」から3言、「マタイによる福音書」から1言が採られています。

2.《エロイとエリ》 十字架の言葉の中でも、最も胸に迫るのが「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という絶叫です。「マルコによる福音書」では「エロイ、エロイ」とアラム語ですが、「マタイによる福音書」では「エリ、エリ」とヘブル語の呼びかけにされています。イエスさまが日常的に喋っていたのはアラム語ですが、直後の「預言者エリヤに助けを求めているのだ」という見物人の反応からすると、「エリ」でなくては筋が通りません。こんなこともあって「七言」には「マタイ」が採用されています。「マルコ」は「マタイ」の抜粋みたいな半端な福音書という不当な扱いを受け続けて来たのです。

3.《山麓の菜の花》 近代になって「マルコ」の再評価が始まりました。「マタイ」も「ルカ」も「マルコ」を下敷きに書かれたのです。問題は、百人隊長の信仰告白です。「マタイ」では地震とゾンビを恐れたのですし、「ルカ」ではイエスさまを「礼儀正しい人」と評価しています。しかし「マルコ」では、彼は真っ直ぐに死に行く人を見詰めているだけです。ユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼルは、アウシュヴィッツ強制収容所で絞首刑に処せられた人を前にして、神の御声を聴きました。河野進牧師は「暗い夜がふけるのは/明るい朝が近づくため」という詩を書いています。そういうことなのかも知れません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:57 | 毎週の講壇から