2016年03月27日

未来の不確かなる希望

「未来の不確かなる希望/spes incerta futuri」というラテン語の成句があります。古代ローマの詩人、ウェルギリウスの『アエネーイス』第八巻に出て来る言葉だそうです。「お先真っ暗」なのは世の常。未来は定まらず、先が見えません。しかし、そうであればこそ、そこに希望もあるというものです。

放射性物質、化学物質による地球規模の環境汚染、地球温暖化によって引き起こされていると思しき、異常気象と巨大災害も頻発しています。その過程で、多様な動植物の種が日々刻々と死滅しています。外来種の侵入によって、その地方固有の在来種は駆逐されてもいる訳ですが、それは何も自然界だけの話ではありません。

経済のグローバル化によって、色々な意味で「境界」が急激に崩れ去りつつあります。民族固有の生活文化や言語、宗教や伝統風俗も、均一化の大波に晒されています。報道される戦争やテロ、難民や経済小国の財政破綻のニュースは、それらが表面化した結果です。ここでもまた、多様性が奪われているのです。

多様性を失った生態系が死滅するように、多様性を奪われた人間界の仕組みも滅亡が近付いているように思います。人類が滅びるのではないかも知れませんが(その可能性も多分にあるものの)、これからは、家庭消滅、地域集落消失、社会崩壊、国家破綻などの出来事が、あちらこちらで散発的に続いて行くように思います。

このようにして現在から未来に目を向けるならば、正直、誰でも暗澹たる気持ちになることでしょう。逸早く敏感に、そのような未来図を透視した人たちがいます。その結果、子どもを産まない決断をした女性を、私は何人か知っています。その内の一人は「子どもたちに安心して渡せるような未来を、到底、望めないから」と言っていました。もう三十年ほど前の話です。環境問題に取り組んでいる人でした。

彼女ほどに意識的な人は、今でも少数派だと思います。それでも、出生率は低下する一方です。子どもが生まれなくなっている社会的な要因は、マスコミで言われている通り、幾つも挙げることが出来ます。他方、不妊症に悩んでいる夫婦も多くあります。子孫を残すという生物としての営みが失われているのを見るにつけ、種としての人類は急速に衰退しつつあると思います。これこそは、地球環境と社会環境の激変に対応してのことでしょう。いや、逆に、対応し切れなくてのことかも知れません。

そう言えば、ウェルギリウスには「羊の群れの希望/spes gregis」という成句もありました。『牧歌』の一節だそうですが、その意味は「一人の大切な子」です。幼子のイエスさまが私たち人類の「希望」と成られたことを思い出します。そして、未来を慮って憂いに沈むよりも、今、私たちの目の前にいる「一人の子」を大切にしよう、そう思うのです。もし、未だ神さまが私たちを見捨てず、私たちに希望を置いておられるとしたら、その心でしょう。


【会報「行人坂」No.252 2016年3月発行より】

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キリスト教こんにゃく問答][「人の子」

1.ウイラード

子どもの頃、私は観た映画をすぐに真似する癖がありました。ある時には、ネズミを飼育して増やそうとしたものです。それは『ウイラード』(1971年)というアメリカ映画を観たせいでした。

主人公のウイラードは、ネズミをペットにする気の弱い青年でした。けれども、叔父が亡き父の会社を乗っ取ったのを機に、自宅の地下室でネズミを養殖して、数千匹の大群にします。そして遂に叔父を襲わせ、喰い殺させるのでした。以後、邪魔者を次々とネズミに襲わせます。ネズミの大群がウイラードに従っていたのは、知能の高いリーダー格のネズミ、ベンがいたからですが、やがて、そのベンがウイラードに反抗するようになり、哀れ彼もまたネズミの餌食になってしまうのでした。

早速、私は「ネズミ捕獲作戦」に取り掛かり、ネズミの飼育を始めました。愚かにもネズミに餌付けをすれば、何でも命令に従うと思い込んでいたのです。ネズミの大群を使って、小学校を襲撃させる、考えただけでワクワクしたものです。ところが、ネズミは少しも命令に従いません。それどころか、やっと捕獲した二匹のネズミは、父親に見つかり、無残にも水死させられたのです。

こうして、私の最初の襲撃計画は脆くも未遂に終わったのですが、『ウイラード』には『ベン』(1973年)という続編映画があったのです。しかも、今度は子ども向けの映画に変わってしまっていました。恐らく、私のような悪い計画を立てる子が出ないようにと配慮してのことでしょう。前作で、ウイラードを殺して下水道に逃げ込んだネズミの大群は、リーダーのベンに率いられ、スーパーマーケットを襲ったりして、街をパニックに陥れます。ところが、ある時、ベンは心臓病を患っている少年と仲良しになり…という、結局は「お涙頂戴」の物語です。

映画の主題歌「ベンのテーマ」を、少年時代(「ジャクソン5」時代)のマイケル・ジャクソンが歌っていました。当時、買ったドーナツ盤を今でも私は持っています。子ども時代の私は、きっと、それなりに気に入っていたのでしょう。

2.ベニヤミン

これら二本の「ネズミ映画」によって、私の幼心に「ベン」という名前は深く刻み込まれたのでした。「ベン」が「ベンジャミン」の愛称だということは、すぐに知りました。それよりも、むしろ私が驚いたのは、ズッと後で、それが聖書の「ベニヤミン」という名前から来ていると知った時でした。更に「ビネヤーミン」とは「ヤーミン/右手、幸福、南」の「ベーン/子」という意味であることも知ったのです。

聖書には、それこそ雨の後のキノコや竹の子のように、大勢「誰某の子」と称する人が登場します。「サウルの子ヨナタン/ヨーナーターン・ベン・シャーウール」とか「エッサイの子ダビデ/ダーヴィード・ベン・イシャーイ」とか「ダビデの子ソロモン/シェロモーン・ベン・ダーヴィード」と書いてあります。このように父名を添えて、その血筋と人物を特定することは、何もユダヤだけの伝統ではありません。「アルカイダ」の指導者、ウサーマ・ビン・ラーディンの「ビン・ラーディン」も「ラーディンの子」という意味です。

「子/ベーン」は「民」を言う場合にも使います。「イスラエルの人々」と訳されているのは「イスラエルの子ら/ベネー・イシェラーエール」です。同じ職業の人たちを総称する場合にも使います。「詠唱者たち」は「歌手の子ら/ベネー・ハムショーレリーム」と成ります。「人の子ら/ベネー・アーダーム」と言われているのは「アダムの子孫」ですから、勿論「人類」の事です。単数で「人の子/ベン・アーダーム」と言えば、個人としての「人」と成ります。これは、現代ヘブル語でも同じです。

3.人の中の人

やがて、アッシリア帝国、新バビロニア帝国、ペルシア帝国、マケドニア帝国、ローマ帝国と、次々に興亡を繰り返す「世界帝国」の搾取や支配を受ける中で、ユダヤでは、この「人の子」が「メシア/救い主」を表わす暗号名のようにして使われ始めるのです。旧約聖書の「ダニエル書」、旧約偽典の「第一エノク書」「第二エノク書」「バルクの黙示録」「第四エズラ記/エスドラの黙示録」等の黙示文学の中に、メシア「人の子」が登場するように成ります。「偽典」と言っても「紛い物」という意味ではありません。匿名の作者が「エノク」「エズラ」「バルク」等に名を借りて書いたという意味です。

圧倒的な軍事力と経済力を背景にした大帝国に、祖国の独立を奪われ、一方的に制度や文化や公用語を押し付けられて、ユダヤは信仰まで奪われそうに成っていたのです。今で言う「グローバリゼーション」「ワールドスタンダード」です。その中で「人の子/人間」という呼び名に仮託して、救い主の到来を待ち望んだのです。

それにしても、何と逆説的な語であることかと溜め息が出ます。「神の子」が「人の子」という名前で呼ばれたのです。「神の子」を言い表わすために、実際には「人間」と発話したのです。そして、新約聖書の「福音書」では、イエスさまが神から託された使命について語る時、自らを「人の子」と仰るのです。

しかしながら、もしかしたら、「真のメシア」とは「真の人」として生きられる御方のことを言うのではないでしょうか。「人の子」と聞くと、私は「いよ!男の中のオトコ!」という激励の合いの手を思い浮かべるのです。その物言いを借りると「人の中の人」として生き、「人の中の人」として死んでいかれたのが、イエスさまです。飼い葉桶に生まれ、悲しむ人と共に泣き、苦しむ人と共に悩みながら、十字架の死に至るまで、祈りの生涯を全うされました。十字架を見上げて、ローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と呟くのは、「人の子」として生きた彼こそは、真の「神の子」だったという信仰告白なのです。

「貧しきうれい、生くるなやみ/つぶさになめし」(「讃美歌21」280番「馬槽のなかに」)イエスさまこそが「まことの神、まことの人よ、救い主よ」(「讃美歌21」248番「エッサイの根より」)と讃えられるのに相応しいのです。


【会報「行人坂」No.252 2016年3月発行より】

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わたしが命のパン

1.ホットクロスバンズ

基本的に「ご飯は米が食べたい」私です。それでも、ごく稀にですが、妻の負担を軽減しようと思い立ち、帰宅時にパン屋を訪れることがあります。かつて足しげく通ったのは、目黒新橋の近所にあった「丸栄」でした。「丸栄」無き後は、白金教会の向かいにある「HOBS/ホーブス」です。こちらは夕方には閉まってしまいます。そこで仕方なく行くのが「アトレ目黒店」の「神戸屋キッチンエクスプレス」なのです。どうして「仕方なく」かと言えば、チェーン店の大量生産のくせに、異常に値段が高いからです。やはり、パン屋はレジの奥に、パン焼きの工房があるような店でなくてはいけません。

それはさて置き、「棕梠の主日」の前夜、取り敢えず、翌日の朝食用に家族のパンを買いに入ったのですが、棚を見てビックリ仰天、十字の飾りの入った丸いパン、「ホットクロスバンズ/hot cross buns」を売っているではありませんか。「幸運のイースターバンズ」と銘打ってあります。値段は「1個180円」と成っていました。他の陳列に目をやると、「うさぎのチェリーパイ」や「イースターエッグサンド」と銘打った商品もあり、イースターにあやかって新作パンを製作販売したようです(「うさぎ」ではなく「うなぎのパイ」なら、私も買ったかも知れません)。

2.信じる事と食べる事

その後、「神戸屋」のHPで調べてみると、「幸運を呼ぶ!イースターには欠かせないイギリス伝統のパンです。シナモンを加えたしっとりと柔らかい生地にレーズン・クランベリーを練り込みました。後を引く美味しさです」と宣伝文句が並んでいました。それにしても「ホットクロスバン」が「1個180円」は高いのでは無いでしょうか。

英国の童謡に「ホットクロスバンの歌」(マザーグース)があり、そこでは、このように歌われているようです。「焼き立て、ほかほかのホットクロスバンだよ/1つでも、いや、2つでも、たったの1ペニー」。現在1ポンドが133円だそうですから、その百分の1として、1ペンス1円です。つまり、ホットクロスバンズは2個で1円なのです。

勿論、「神戸屋」に、ホットクロスバンズを「2個1円で売れ!」等と言うのは、全くの冗談です。私が常日頃の鬱憤をブツけているだけ。かなり滅茶苦茶な要求です。いや、実際「神戸屋」のパンにしては安いのです。そして、私は全く知りませんでしたが、「神戸屋」は何年も前から、コンビニやスーパーに卸す菓子パンとして「クロスバンズ」を売っていたのです。こちらの価格は88円でした。

イースターの前の金曜日、私たちは「受難日」と呼び、英語では「Good Friday/聖金曜日」と言いますが、クロスバンズは元々、この日に焼いて食べる習慣だったようです。レント(受難節)の始まる「灰の水曜日」の前日「懺悔の火曜日/Shrove Tuesday」が、いつの間にか「パンケーキの日/Pancake Tuesday」「パンケーキを焼く日」に成ってしまったのと同じような感じです。一見、不謹慎のような気もしますが、どこか大らかです。信仰生活が食生活に直結していて、庶民の暮らしに息づいているように思います。これを「信仰の土着化」と言うのでしょうか。その点については、日本のキリスト教の牧師としては、少しだけ羨ましくも感じるのです。

テレビ等のメディアは勿論の事、作家やエッセイスト、素人のHPやブログまで競って、西欧の食品や食文化を盛んに紹介しています。一昔前には誰も知らなかった「ホットクロスバンズ」の他、西欧各国のイースター料理なども逐一レポートされるようになり、新しがり屋の中には早速、現地に行って食べてみる人、自宅で作ってみる人も増えています。しかし、余りにも表面的では無いでしょうか。

私たちは日本人のクリスチャンとして、むしろ、日本の伝統食材、日常の食材を使った、自らの「レント料理」「イースター料理」、そして「クリスマス料理」を創作するべきではありませんか。今は亡き料理研究家の小林カツ代さん(日本基督教団ひばりが丘教会の会員でした)には、是非とも、そういうアプローチをして欲しかったのですが…。

3.共に食べて信じる者

イエスさまは「わたしが命のパンである」(ヨハネによる福音書6章35節)と宣言されました。「主の晩餐」では「取りなさい。これは私の体である」と言って、パンを裂いて弟子たちに与えられました(マルコによる福音書14章22節)。

いや、よく考えてみたら、パンだけではありません。「神の小羊」(ヨハネ1章39節)等という表現を聞いても、私たちは、英国アードマンアニメの「ひつじのショーン」「こひつじのティミー」、ディズニーの「こひつじのダニー」、サンリオの「ピアノちゃん」、ベネッセの「しまじろう」の「らむりん」と、可愛い羊キャラしか連想できません。しかし、羊肉を日常的に食べている中東の人たちにとっては、「小羊」もまた「食べ物」としてイメージされたのでは無いでしょうか。つまり、生きることは食べることと、食べることは信ずることと一直線に繋がっているのです。

そう言えば、聖餐用のパン(ローマカトリック教会では「御聖体」と言う)を、イタリア語では「il pane degli angeli/天使たちのパン(糧)」と呼ぶことがあります。キリスト信者は「天上の食糧」のお裾分けに与っているという訳です。斯くして、キリスト教は「食べて信じる宗教だったのだなあ」と、改めて思わされるのです。

どうして、わざわざ、イエスさまは復活の後、弟子たちと一緒にパンや魚をお食べになったのでしょうか。言うまでもありません。「命のパン」に与ることで天と地とが、共に食べることで兄弟姉妹が結ばれる、信仰の紐帯、それが「キリストの体なる教会」だからです。

牧師 朝日研一朗

【2016年4月の月報より】

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