2016年05月29日

東京YMCA山手学舎

1.山手学舎

私は月に1回、高田馬場に通っています。東京YMCA山手学舎に行き、その舎生さんたちと聖書研究会をしているのです。昨年秋に留学生が1名途中入舎しました。この春6名が退舎して、3名が新入舎しました。それで差し引き現在、舎生は12名です。ここで、ザッと12人の紹介をして置きましょう。

早稲田大学商学部4年生のM君(宮崎市出身)、さすが、彼の作った「チキン南蛮」は絶品でした。東京大学法学部4年生のS君(桐生市出身)は頭脳明晰な人ですが、ここに来て、実存的な悩みを抱えています。立教大学経済学部3年生のF君(北海道八雲町出身)は、元高校球児のスポーツマンです。東京大学文学部3年生のK君(豊島区出身)は官僚を目指していますが、時折り見せるズッコケぶりが憎めません。東京農業大学国際食糧情報学部2年生のF君(志木市出身)はバスケットボール選手、『黒子のバスケ』の「敵キャラ」に出て来そうな体格の持ち主です。東京理科大学理学部2年生のI君(新潟市出身)は、数学科なのに、小説を書くのが趣味の文学青年です。駒澤大学経済学部2年生のN君(苫小牧市出身)は、アニメ『銀魂』のファンで、不思議な個性の持ち主です。早稲田大学法学部1年生(日大を退学して入り直した)のK君(長野市出身)は、政治家の事務所でバイトをしていて、将来、自分も政界に関わりを持ちたいと思っています。

昨年秋に入舎したのが、早稲田大学大学院創造理工学研究科1年生のY君(四川省出身)です。十把一絡げに「中国人は…」等と言ってはダメです。非常に奥床しい性格の人です。そして春に、早稲田大学文学部3年生のM君(下関市出身)、早稲田大学基礎理工学部1年生のK君(三島市出身)とY君(和歌山市出身)が加わりました。

2.聖書研究

改めて確認してみると、私が山手学舎の聖書研究を担当するようになったのは2011年度からでした。月1回(と言っても、夏休みや年度替りがあって、実際には年に9回程度ですが)の聖書研究に通い、加えて、入舎式と退舎式の礼拝説教を担当させて頂いています。当教会のKさんから依頼されてのことでした。Kさん自身も山手学舎の出身であり、現在「山手学舎OB会・後援会」の中心メンバーです。

依頼を受けたのは丁度、二男が肢体不自由児と成って間も無くの頃でした。当時、私自身の気分としては、夜に外出するのも億劫だったのです。ところが、妻が「外に出て、若い人たちと接した方が良いよ!」と背中を押してくれたのです。こうして仕方なく始めた務めでしたが、少しずつ学舎に行くのが楽しみに成って来ました。

1つには、高田馬場という街の魅力もあります。早稲田界隈には、今でも古書店が並んでいます。例えば、ある日のコース。タレントの郷ひろしさんが店主を務める、中古レコード屋「レコーズ・ハリー」で、60〜90年代の歌謡曲やポップスの盤を漁りながらお喋りをし、もう1軒の中古レコード店「タイム」にも立ち寄ります(残念ながら、この春に閉店)。「早稲田松竹」の2本立て興行のポスターを眺めながら、「元祖仲屋むげん堂」でインド&ネパール雑貨を物色、時間調整のために日本茶専門喫茶「茶々工房」で「ほうじチャイ」を飲みます。忽ち気分は学生時代にタイムリープです。

このような趣味的なモチベーションもありますが、勿論、それだけではありません。地方から上京して来て、経済的にも厳しい中で、学業とアルバイトに精を出している学生たちに対して、次第に、私は強いシンパシーを抱くようになりました。

親元を離れて都会で暮らす心細さ、仕送りやバイト料で繋ぐ綱渡りのような生活、将来への夢と希望、不安と迷い…。自分もまた、かつて同じだったからです。そんな学生たちに寄宿舎(安心して暮らせる場)を提供しているのが、東京YMCA山手学舎なのです。それと同じように、聖書研究の場も「精神的な宿り木」に成れたらと思っています。聖書には「生きるためのヒント」や「隠れスイッチ」が色々あるからです。聖書が思い込みや社会通念、固定観念を突き崩してくれたり、価値の逆転や発想の転換を促してくれたり、大切な何かに気付かせてくれたり、そんなことが一杯あるのです。

3.反時代的

何しろ、イマドキ2人1部屋です。「日直」の務めや「舎懇」というミーティングもあり、その上、「聖研」もあるのです。舎生の多くは夏休みに成ると、強制ではありませんが、石巻にボランティアに行ったり、YMCAキャンプのリーダーとして奉仕したりしています。山手センターのバザーでは、カレーを調理販売しています。

奉仕活動が日常的にあるのです。これは、全くイマドキではありません。

イマドキの学生さんは、自宅から通うかワンルームマンションに暮らしています。個室の中で、社会や他人と関わりを持たないで、孤立していることが、暮らしの前提に成っています。しかし、これは「暮らし」とは言えません。ペットショップのケージに入っている子犬や子猫と同じ眺めです。ところが、学舎では、同室者が話し掛けてくるし、お互いに気遣いも必要だし、夜には、鬱陶しい同室者の鼾や寝言や歯軋りが聞こえて来たりもするのです。でも、ここから「共に生きる」事が始まるのです。

当番ならば、他人のゴミも一緒に出したり、共用スペースである食堂やトイレや風呂を掃除したりしなければなりません。しかし、それが「暮らし」なのです。この「暮らし」の経験がその後の人生の原点に成って行くのです。山手学舎のOBたちが数十年の時を経ても、交流を続けていることを見れば、それは明白です。「時代」は「暮らし」の実感を喪失させ、人との関わりを断ち切る方向へと進んでいます。従って「反時代的」は最大の賛辞です。

牧師 朝日研一朗

【2016年6月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など