説 教 天使の立っている家=@

聖 書 使徒言行録 11章1〜18節(p.234)
讃 美 歌 27、115、490、344、342、74、29
交読詩編 詩編68編1〜11節(p.75)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいた時に作ってくれた数々の下着や上着を見せた。」(9:39)
1.《未亡人殉死》 「未亡人」の語には、諸侯の夫が死んだ時、妻も殉じて自刃するという古代中国の習慣の名残があります。インドには古来、夫を焼く荼毘の中に未亡人が飛び込んで自殺する「サティー」という習慣が、つい近年まで残っていました。未亡人になるのは、自身の前世の因業に原因があるとされ、夫亡き後に親族から悲惨な扱いを受けるため、名誉ある死を選ぶそうです。
2.《寡婦クラブ》 「後家」の用法も実に不愉快なものです。それに比べると、「寡婦」の「寡」は「頼り少ない、心細い」ですし、「やもめ」の「やも」は「悩んで夜も寝られない様子」です。ヘブル語「アルマーナー」も「痛みを感じる」、ギリシア語「ケーラ」も「見捨てられて孤独」の意味です。お目出度くはありませんが、悲しみに寄り添う語です。古代のキリスト教会では、登録制度を作って、本当に身寄りのない寡婦を皆で扶養していました。タビタ(ドルカス)を慕う婦人たちも、英米の「寡婦クラブ」のような互助団体、共同生活をしながら裁縫や手織りを習得する職業訓練所や工房だったのかも知れません。
3.《復活の希望》 「共観福音書」の、イエスさまが会堂長ヤイロの娘を生き返らせる話、更に遡れば、「列王記上」17章の、預言者エリヤが寡婦の息子を生き返らせる話に辿り着きます。福音書には、他にもイエスさまが葬列からナインの寡婦の息子を生き返らせる話、墓からラザロを生き返らせる話があり、「使徒言行録」には、パウロが青年エウティコを生き返らせる話があります。「神癒」を売りにしている教会でも、蘇生はありません。また、たとえ蘇生したとしても、また死ぬのであれば、単なる延命に過ぎません。イエスさまの復活と永遠の命を信じなければ、これらの蘇生に何の意味もありません。
朝日研一朗牧師
聖句「すると、霊≠ェフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」(8:29)
1.《エチオピア》 エチオピアと言っても、私たちには縁遠い国です。神田小川町のカレー屋、珈琲豆アラビカ種の原産地、日本の演歌が人気、陸上競技選手を輩出くらいのイメージです。しかし、エチオピアはアフリカ唯一のキリスト教国で、古代のアクスム王国も、20世紀まで続いたソロモン朝という王家も「ソロモンとシェバの女王の血統」を主張していました。
2.《ぎこちなさ》 翻訳は「エチオピア人の高官」に成っていますが、実際にはメロエ王朝の「クシュ人」(現代のスーダン)と思われます。見知らぬ人という意味では、フィリポにとっても事情は変わりません。初対面の外国人(色の黒い人)です。しかも、一方はクシュ王国の財務担当官、他方はエルサレム教会の役員です。全く違う世界に生きて来た二人でした。初対面の相手と接する時、私たちもぎこちない挨拶しか出来ません。頓珍漢な対応に終始することもあります。しかし、声も掛けずにスルーするのは無礼ですし、御心に背くことです。失敗という犠牲を払うことで、私たちは自らの殻を破り成長するのです。
3.《旅は道連れ》 私の後輩のI牧師は教戒師をしている時、集団教誨の場で、「今、洗礼を受けたい」と申し出た受刑者に「また、個人教誨でご相談に乗ります」と応えてしまった失敗を自らの心に刻んでいます。フィリポから聖書の解き明かしを受けた高官は「洗礼を受けるのに何の妨げがありますか?」と尋ねました。理由を付けて妨げるのは私たち自身です。私たちは余りにも「伝道、宣教、布教」を目的化し、「受洗」を目標に掲げるために、却って求道を妨げているのです。聖霊が命じたのは、単にある期間「一緒に行く」ことだけだったのです。「人生は荒れ野」だから「道連れになる」、それが大切なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」(12:24)
1.《トリクソ》 札幌に住んでいた時代、雪融けの季節に、足元に注意を払いながら歩いていると、頭の上にカラスの糞の直撃を受けました。非常に屈辱的でしたが、占いの世界では、鳥は「霊界からの使者」、糞は「金」の象徴なので、鳥糞の直撃は金運の上昇を意味するそうです。宝くじで1億5千万円を当てた人もいるそうです。因みに、鳥糞の白いのはアンモニア、おしっこです。
2.《烏の養い》 カラスは生ゴミを散らかすので、街の嫌われ者ですが、本当は人間が悪いのです。むしろ、聖書では最初に登場する鳥です(ノアの箱舟)。アハブ王の迫害を逃れて、預言者エリヤはケリト川に身を潜めますが、そのエリヤのために、毎朝毎夕、パンと肉とを運んで来たのも数羽のカラスでした。後世の砂漠の隠修士の伝説や聖人伝説の中にも、カラスに養われる話が数々あります。生態学的な観点から、ハシブトガラスではなく、ニシコクマルガラスと推測されます。ニシコクマルガラスには、仲間のために食べ物を譲ったり、食べ物を分け合う習性があるのです。こうしてカラスに養われた人もいるのです。
3.《アネモネ》 古くは「野の百合は如何にして育つかを思へ」と訳されていました。ラテン語訳聖書や英訳聖書も「百合」に成っていますが、ギリシア語「カイノン」は「花」に過ぎません。ヘブル語に変換すれば「シューシャン」「ショーシャンナー」(スーザン、スザンナという名前の語源)です。現代では、この花は「アネモネ」と特定されています。その昔、パレスチナ地方には、白と青のアネモネしか無かったそうですが、キリストの十字架の血潮を受けて以来、赤いアネモネが自生するようになったと言われます。私たちの人生にも、自分の名前や色を変えてしまう程の大きな出会いがあるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「この方こそ『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。他の誰によっても、救いは得られません。」(4:11,12)
1.《捨て石発言》 NHK「週刊ニュース深読み」での小野文惠アナの「捨て石発言」が話題になりました。「不妊治療」に取材した番組で「保険の適用を希望する」当事者からの声に対して、「生まれない子どもに税金使うな」という心無い言葉が寄せられて、それに対するコメントでした。しかも、番組ディレクターが彼女に言った言葉「私たちは良い捨て石になろう」の引用で、自身も受け止め切れなくて、番組の出演者に投げ掛ける展開だったのです。
2.《愛の無い事》 テレビ番組ですから、互いに共感を寄せ合うよりも意見の対立を煽って喧嘩させた方が視聴率が上がるという、冷酷非情な計算が働いていたと思います。しかし、如何にも愛の無いことだと思いました。ゆとり、寛容さ、想像力の欠如がもたらす「辛さ」を感じるのです。市川森一脚本の『淋しいのはお前だけじゃない』というドラマがありましたが、それぞれの辛さや淋しさを抱えて生きているのです。その度合いを比べ合って誇るのも、自己絶対化するのも、他者の不幸を見て甘く感じるのも、破滅への道でしかありません。
3.《捨てられて》 日本語の「捨て石」は、庭に配置された石や囲碁の戦術上の布石のように、当面は無駄と思われても、後で役立つものです。しかし、聖書に言われる「捨てられた石」は本当に忌み嫌われ、拒絶され軽蔑され、打ち捨てられているのです。それが十字架のイエスさまなのです。しかも、彼を捨て去ったのは「家を建てる者」、徳を行ない信仰を擁護する立場の宗教者、世界を発展させる立場の為政者です。「親石」とは「礎石」ではなく、石造りのアーチの頂上に打ち込んで完成させる「楔石」です。この世界から捨てられた存在が、実は、世界を完成させる「要石」だったのです。そのことに気付いたのは、同じように捨てられる体験と思いを味わった人たちだったのです。
朝日研一朗牧師