2016年06月28日

7月第1主日礼拝

       7月 3日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 天使の立っている家=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  使徒言行録 11章1〜18節(p.234)
讃 美 歌  27、115、490、344、342、74、29
交読詩編  詩編68編1〜11節(p.75)

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2016年06月27日

やもめたちの涙【使徒言行録9:36〜43】

聖句「やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいた時に作ってくれた数々の下着や上着を見せた。」(9:39)

1.《未亡人殉死》 「未亡人」の語には、諸侯の夫が死んだ時、妻も殉じて自刃するという古代中国の習慣の名残があります。インドには古来、夫を焼く荼毘の中に未亡人が飛び込んで自殺する「サティー」という習慣が、つい近年まで残っていました。未亡人になるのは、自身の前世の因業に原因があるとされ、夫亡き後に親族から悲惨な扱いを受けるため、名誉ある死を選ぶそうです。

2.《寡婦クラブ》 「後家」の用法も実に不愉快なものです。それに比べると、「寡婦」の「寡」は「頼り少ない、心細い」ですし、「やもめ」の「やも」は「悩んで夜も寝られない様子」です。ヘブル語「アルマーナー」も「痛みを感じる」、ギリシア語「ケーラ」も「見捨てられて孤独」の意味です。お目出度くはありませんが、悲しみに寄り添う語です。古代のキリスト教会では、登録制度を作って、本当に身寄りのない寡婦を皆で扶養していました。タビタ(ドルカス)を慕う婦人たちも、英米の「寡婦クラブ」のような互助団体、共同生活をしながら裁縫や手織りを習得する職業訓練所や工房だったのかも知れません。

3.《復活の希望》 「共観福音書」の、イエスさまが会堂長ヤイロの娘を生き返らせる話、更に遡れば、「列王記上」17章の、預言者エリヤが寡婦の息子を生き返らせる話に辿り着きます。福音書には、他にもイエスさまが葬列からナインの寡婦の息子を生き返らせる話、墓からラザロを生き返らせる話があり、「使徒言行録」には、パウロが青年エウティコを生き返らせる話があります。「神癒」を売りにしている教会でも、蘇生はありません。また、たとえ蘇生したとしても、また死ぬのであれば、単なる延命に過ぎません。イエスさまの復活と永遠の命を信じなければ、これらの蘇生に何の意味もありません。

朝日研一朗牧師

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2016年06月26日

貧者の書籍 Biblia Pauperum

1.早稲田の古書店

早稲田界隈を歩いていて、最近、気付いたのは、古書店の閉店時間が早過ぎることです。午後7時を回ると、申し合わせたように、店主たちがシャッターを閉め始めるのです。以前は、もう少し遅くまで営業してくれていたように思うのですが、私の錯覚でしょうか。先日も、山手学舎の聖書研究会の前に、何軒か古書店を覗こうと足を伸ばしてみたら、悉く閉まっていました。

学生たち(多分、早稲田の)は、未だ通りをウジャウジャ歩いています。何しろ最近の大学と来たら、夜間部(二部)を廃止した結果でしょうか、講義は夜の9時頃までやっているのです。学生が歩いているのに、古書店が軒並みシャッターを下ろしている。このギャップに気付いて、私は衝撃を受けました。それ程までに、昨今の学生さんは本を読まないし買わないのかも知れません。

古本と言えば神保町ですが、転売業者である「せどり」の手を経て、店頭に並ぶので、神保町の値段は「吹っ掛け」です。資源ゴミ同然にして仕入れた書籍を、1万2万で売っていたりするのです。神保町に比べると、学生街ということもあって、早稲田界隈の古書店は適切な値段で販売してくれていて、好感が持てます。神保町は「古書の街」として有名で、まるで観光地のようにして(少なくとも表向きは)賑わっています。けれども、各地の街の古書店の灯火が消えかかっていることに、寂しさを禁じ得ません。

早稲田界隈で、我が一番のお気に入りの古書店は「古書現世」です。向井透史という人が営む、狭いけれども内容の濃い古書店です。この向井さんには『早稲田古本屋街』(未來社)という著書もあります。ここも夜の7時には閉まるのですが、黄昏時に行くと、すぐ近くの「源兵衛子育地蔵尊」が赤い灯明に照らされていて、まるで、つげ義春のマンガの中に入ってしまったような錯覚に陥ります。

2.京都の変な書店

私が学生時代を過ごした京都にも、その当時、数多くの有名な書店がありました。吉本隆明が京都に来ると、必ず立ち寄っていたという「三月書房」は、古書店ではありませんが、店主の思索が垣間見える、凝りまくった品揃えと絶妙の並び方でした。ここで私は、深夜叢書社創立20周年記念レコード『灰とダイヤモンド』7インチEP盤(一柳慧+森田利明+辰己弦楽四重奏団)を買いました。私の宝物の1つです。

河原町三条の「アスタルテ書房」は幻想文学専門でした。靴を脱いでスリッパに履き換えて上がると、応接間と言うか、好事家のための一種のサロンでした。永井荷風、泉鏡花、三島由紀夫、澁澤龍彦、サド、バタイユ、コクトーなどの奇覯本、四谷シモンの人形や金子國義の絵、そして、なぜかフランス製の木馬まで置いてあったりしました。昨年、店主の佐々木一彌さんが亡くなって、今は閉店したと聞きます。私は、牧神社関係の書籍を皆ここで購入したと記憶します。

京都大学のある百万遍には「オデッサ書房」という極左の書店がありました。ここには、一般の書籍は全く無く、極左党派のブックレットが所狭しと並んでいました。そこで私が買い求めたのは、桐山襲の小説『パルチザン伝説』でした。昭和天皇暗殺計画を描いた暗鬱なテロリズム小説ですが、第19回文藝賞候補になり、雑誌「文藝」(河出書房新社)にも掲載されたにも拘わらず、単行本化が中止され、当時は地下出版でしか入手できなかったのです。1度しか行っていないのに忘れ難いお店です。

何年か前に、友人の本郷燎くん(彫刻家の本郷新の孫、俳優の本郷淳と柳川慶子の息子)が遊びに来た時に、『街を変える小さな店』(京阪神エルマガジン)という本を手土産に持って来ました。それは、京都の一乗寺にある「恵文社」という本屋の店長による、書店の存在理由を問い直す刺激的な内容でした。実に一乗寺には「京一会館」という3本立ての名画座があり、毎週そこに通っていた私は、映画を観終わると、「恵文社」でコミックスを買い漁っていたのです。驚いたことに、そこでは、漫画家のサイン本(但し、ガロ系、COM系ばかり)が普通に売られていたりしたのです。

3.書籍の手触りを

修学旅行は別として、私が初めて自分の意志で東京に来たのは1985年のことです。修士論文のために国会図書館で資料収集するというのは表向きで、実際のところは、古本と古レコードを漁りに来ていたのです。友だちのアパートに転がり込んで宿泊所を確保するや、朝から晩まで、お店回りをしていました。

神保町を行ったり来たり、繰り返し往復しました。忘れ難いのが、今は無き「日清堂書店」です。学術洋書の専門店でした。京都にも大谷大学の近くに「至誠堂」という店がありましたが、さすがは東京、質量共に圧倒されたものです。勿論、今は跡形もありません。「北沢書店」は英語書籍専門店ですが、今や絵本児童書専門に成ってしまった1階にも、かつて美術書の洋書が無造作に積み上げられていたのです。映画関係の書籍を安く購入したものです。そう言えば、最近「教文館洋書部」も縮小されて、「キリスト教書籍」のフロアの片隅に間借りするような状態になりました。

洋書は「アマゾン」とかでネット注文する方が遥かに安く手に入るのです。インターネット販売全盛の時代、わざわざ高価な代理料を支払って注文する必要は無いのです。長男の携帯電話で頼めば、『グリモワール』『ソロモンの鍵』等の魔道書も簡単に購入できるのです。それでも、やはり、自分の手に取って、自分の掌で書籍の感触を確かめてから買いたいのです。私などは差し詰め「本の精霊」にでも取り憑かれているのでしょう。

牧師 朝日研一朗

【2016年7月の月報より】

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2016年06月21日

6月第4主日礼拝

       6月26日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 やもめたちの涙=@音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  使徒言行録 9章36〜43節(p.231)
讃 美 歌  27、22、477、449、28
交読詩編   16編1〜11節(p20)

・讃美歌練習(7月の月歌:115番)  礼拝後     礼拝堂

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2016年06月20日

寂しい道はご一緒に【使徒言行録8:26〜40】

聖句「すると、霊≠ェフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」(8:29)

1.《エチオピア》 エチオピアと言っても、私たちには縁遠い国です。神田小川町のカレー屋、珈琲豆アラビカ種の原産地、日本の演歌が人気、陸上競技選手を輩出くらいのイメージです。しかし、エチオピアはアフリカ唯一のキリスト教国で、古代のアクスム王国も、20世紀まで続いたソロモン朝という王家も「ソロモンとシェバの女王の血統」を主張していました。

2.《ぎこちなさ》 翻訳は「エチオピア人の高官」に成っていますが、実際にはメロエ王朝の「クシュ人」(現代のスーダン)と思われます。見知らぬ人という意味では、フィリポにとっても事情は変わりません。初対面の外国人(色の黒い人)です。しかも、一方はクシュ王国の財務担当官、他方はエルサレム教会の役員です。全く違う世界に生きて来た二人でした。初対面の相手と接する時、私たちもぎこちない挨拶しか出来ません。頓珍漢な対応に終始することもあります。しかし、声も掛けずにスルーするのは無礼ですし、御心に背くことです。失敗という犠牲を払うことで、私たちは自らの殻を破り成長するのです。

3.《旅は道連れ》 私の後輩のI牧師は教戒師をしている時、集団教誨の場で、「今、洗礼を受けたい」と申し出た受刑者に「また、個人教誨でご相談に乗ります」と応えてしまった失敗を自らの心に刻んでいます。フィリポから聖書の解き明かしを受けた高官は「洗礼を受けるのに何の妨げがありますか?」と尋ねました。理由を付けて妨げるのは私たち自身です。私たちは余りにも「伝道、宣教、布教」を目的化し、「受洗」を目標に掲げるために、却って求道を妨げているのです。聖霊が命じたのは、単にある期間「一緒に行く」ことだけだったのです。「人生は荒れ野」だから「道連れになる」、それが大切なのです。

朝日研一朗牧師

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2016年06月19日

子どもの日・花の日

6月12日(日)は子どもの日花の日礼拝でした。

子どもの日・花の日その1

教会学校のこどもたちはプリンカップにお花をアレンジして、ご近所の交番に届けました。神さまにたくさんのお花を献げた礼拝では、こどもたちが司式や聖書朗読をしました。

子どもの日・花の日その2

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2016年06月14日

6月第3主日礼拝

       6月19日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 寂しい道はご一緒に=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書 使徒言行録 8章26〜40節(p.228)
讃 美 歌  27、22、490、120、17、28
交読詩編   16編1〜11節(p20)

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2016年06月13日

カラスとお花【ルカ12:22〜34】

聖句「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」(12:24)

1.《トリクソ》 札幌に住んでいた時代、雪融けの季節に、足元に注意を払いながら歩いていると、頭の上にカラスの糞の直撃を受けました。非常に屈辱的でしたが、占いの世界では、鳥は「霊界からの使者」、糞は「金」の象徴なので、鳥糞の直撃は金運の上昇を意味するそうです。宝くじで1億5千万円を当てた人もいるそうです。因みに、鳥糞の白いのはアンモニア、おしっこです。

2.《烏の養い》 カラスは生ゴミを散らかすので、街の嫌われ者ですが、本当は人間が悪いのです。むしろ、聖書では最初に登場する鳥です(ノアの箱舟)。アハブ王の迫害を逃れて、預言者エリヤはケリト川に身を潜めますが、そのエリヤのために、毎朝毎夕、パンと肉とを運んで来たのも数羽のカラスでした。後世の砂漠の隠修士の伝説や聖人伝説の中にも、カラスに養われる話が数々あります。生態学的な観点から、ハシブトガラスではなく、ニシコクマルガラスと推測されます。ニシコクマルガラスには、仲間のために食べ物を譲ったり、食べ物を分け合う習性があるのです。こうしてカラスに養われた人もいるのです。

3.《アネモネ》 古くは「野の百合は如何にして育つかを思へ」と訳されていました。ラテン語訳聖書や英訳聖書も「百合」に成っていますが、ギリシア語「カイノン」は「花」に過ぎません。ヘブル語に変換すれば「シューシャン」「ショーシャンナー」(スーザン、スザンナという名前の語源)です。現代では、この花は「アネモネ」と特定されています。その昔、パレスチナ地方には、白と青のアネモネしか無かったそうですが、キリストの十字架の血潮を受けて以来、赤いアネモネが自生するようになったと言われます。私たちの人生にも、自分の名前や色を変えてしまう程の大きな出会いがあるのです。

朝日研一朗牧師

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2016年06月07日

6月第2主日礼拝(子どもの日・花の日)

       6月12日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 カラスとお花=@音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 12章22〜34節(p.132)
讃 美 歌  27、22、62、「丘を彩る野ゆりを見よ」、199、28
交読詩編  「人生のあゆみ」(アビラのテレサの祈り)


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2016年06月06日

捨て石が親石になる【使徒言行録4:5〜22】

聖句「この方こそ『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。他の誰によっても、救いは得られません。」(4:11,12)

1.《捨て石発言》 NHK「週刊ニュース深読み」での小野文惠アナの「捨て石発言」が話題になりました。「不妊治療」に取材した番組で「保険の適用を希望する」当事者からの声に対して、「生まれない子どもに税金使うな」という心無い言葉が寄せられて、それに対するコメントでした。しかも、番組ディレクターが彼女に言った言葉「私たちは良い捨て石になろう」の引用で、自身も受け止め切れなくて、番組の出演者に投げ掛ける展開だったのです。

2.《愛の無い事》 テレビ番組ですから、互いに共感を寄せ合うよりも意見の対立を煽って喧嘩させた方が視聴率が上がるという、冷酷非情な計算が働いていたと思います。しかし、如何にも愛の無いことだと思いました。ゆとり、寛容さ、想像力の欠如がもたらす「辛さ」を感じるのです。市川森一脚本の『淋しいのはお前だけじゃない』というドラマがありましたが、それぞれの辛さや淋しさを抱えて生きているのです。その度合いを比べ合って誇るのも、自己絶対化するのも、他者の不幸を見て甘く感じるのも、破滅への道でしかありません。

3.《捨てられて》 日本語の「捨て石」は、庭に配置された石や囲碁の戦術上の布石のように、当面は無駄と思われても、後で役立つものです。しかし、聖書に言われる「捨てられた石」は本当に忌み嫌われ、拒絶され軽蔑され、打ち捨てられているのです。それが十字架のイエスさまなのです。しかも、彼を捨て去ったのは「家を建てる者」、徳を行ない信仰を擁護する立場の宗教者、世界を発展させる立場の為政者です。「親石」とは「礎石」ではなく、石造りのアーチの頂上に打ち込んで完成させる「楔石」です。この世界から捨てられた存在が、実は、世界を完成させる「要石」だったのです。そのことに気付いたのは、同じように捨てられる体験と思いを味わった人たちだったのです。

朝日研一朗牧師

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