2016年06月20日

寂しい道はご一緒に【使徒言行録8:26〜40】

聖句「すると、霊≠ェフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」(8:29)

1.《エチオピア》 エチオピアと言っても、私たちには縁遠い国です。神田小川町のカレー屋、珈琲豆アラビカ種の原産地、日本の演歌が人気、陸上競技選手を輩出くらいのイメージです。しかし、エチオピアはアフリカ唯一のキリスト教国で、古代のアクスム王国も、20世紀まで続いたソロモン朝という王家も「ソロモンとシェバの女王の血統」を主張していました。

2.《ぎこちなさ》 翻訳は「エチオピア人の高官」に成っていますが、実際にはメロエ王朝の「クシュ人」(現代のスーダン)と思われます。見知らぬ人という意味では、フィリポにとっても事情は変わりません。初対面の外国人(色の黒い人)です。しかも、一方はクシュ王国の財務担当官、他方はエルサレム教会の役員です。全く違う世界に生きて来た二人でした。初対面の相手と接する時、私たちもぎこちない挨拶しか出来ません。頓珍漢な対応に終始することもあります。しかし、声も掛けずにスルーするのは無礼ですし、御心に背くことです。失敗という犠牲を払うことで、私たちは自らの殻を破り成長するのです。

3.《旅は道連れ》 私の後輩のI牧師は教戒師をしている時、集団教誨の場で、「今、洗礼を受けたい」と申し出た受刑者に「また、個人教誨でご相談に乗ります」と応えてしまった失敗を自らの心に刻んでいます。フィリポから聖書の解き明かしを受けた高官は「洗礼を受けるのに何の妨げがありますか?」と尋ねました。理由を付けて妨げるのは私たち自身です。私たちは余りにも「伝道、宣教、布教」を目的化し、「受洗」を目標に掲げるために、却って求道を妨げているのです。聖霊が命じたのは、単にある期間「一緒に行く」ことだけだったのです。「人生は荒れ野」だから「道連れになる」、それが大切なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:16 | 毎週の講壇から