説 教 マムシにご用心!=@

聖 書 マタイによる福音書 12章33〜37節(p.23)
讃 美 歌 27、115、490、195、91、29
交読詩編 詩編68編1〜11節(p.75)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1:10)
1.《編み物》 編み物が趣味の人、習慣的に編む人、片手間に編む人、認知症予防に編む人、誰かのために徹夜で編む人もいるでしょう。吉田聡の『湘南爆走族』の主人公は暴走族の総長でありながら、高校の手芸部の部長でもあるミスマッチな個性が味わいでした。学校に手芸部があるように、英米には「Knitting Club/編み物会」があり、同好の人たちが集まって編み物をします。
2.《クラブ》 米国の『金曜日の編み物クラブ』という小説は「編み物会」の人間模様が描かれています。雑多で我儘な人たちが時と場を同じくすることで、やがて固い絆で結ばれて行くのです。日本は「編み物教室」です。「クラス」と「クラブ」では大違いです。プロテスタント教会も近世に生まれ、近代に日本に入って来たために専ら「教室モデル」に成っていますが、「クラブ」要素も大切にしなくてはいけません。「クラブ」は「塊、棍棒」という語です。しかし、一塊に成ってクラブ、グループが出来ると、一致団結して見えますが、互いに「勝手なことを言い、仲たがいする」ように成るのが世の常です。
3.《クラス》 パウロの勧告は校長先生の朝礼の訓話みたいに鬱陶しく感じられます。そうでなくても日本社会は「同調圧力」の強い風土です。「一致の勧め」も多様性の切り捨て、少数意見の排除、全体主義に成り兼ねません。しかし「一つの、同じ」と訳された「アウトス」は「オートマチック」の「オート/自動的」の語源です。「自発的、自分から」なのです。「固く結び合いなさい」を「一緒に編み物しなさい」と訳した英訳がありました。確かに「ニット」には「強い絆で結ぶ」の意味もあります。私たち自身の綻びや破れを、神の御前に晒け出し、縫い繕い、皆で編み上げて行くのが教会形成なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」(24:15)
1.《フェリクス》 ディズニーの「ミッキーマウス」(1928年)と田河水泡の「のらくろ」(1931年)は、墺系米人のメスマーとサリヴァンが作った「黒猫フィリックス」(1919年)が源流です。ここには、同じ「フェリクス」という名前の総督が登場します。ピラトから数えて7人目、他の総督たちが腰掛け任期なのに比べると、ピラトの10年、フェリクスの8年は立派です。
2.《分派と異端》 パウロが、エルサレム滞在中にキリストを証したために騒動が起こりました。ローマの市民権を持つパウロは、総督フェリクスの所に護送されて来たのです。キリスト教信仰は「この道」と呼ばれています。未だ名前が無かったとは言え、まるで口に出すのも憚られる「忌み名」のようです。「分派」とも言われています。「協会訳」「新改訳」では「異端」とも訳されていますが、「分派/ハイレシス」に「異端」の含みが加わるのは紀元2世紀以降です。ともかく、他の人から何と言われようと、何と思われようと構いません。一番大切なのは、自分が何を信じているか、信仰と信条です。
3.《復活の希望》 パウロは総督の前で自らの信仰を弁明しますが、自分たちの信仰は「旧約聖書に基づく」と主張すると共に、「復活の希望を抱く信仰」だと表明しています。キリスト教の核は復活信仰なのです。但し、パウロは「正しい者も正しくない者も」と付け加えています。ファリサイ派も復活信仰を持っていましたが、善行と徳を積んだ信仰者のみが復活すると考えていました。しかし、パウロは自分の敵である彼らも、自分を暗殺しようと狙っている者たちも、御心ならば救われると言います。それ故に、ここでの「希望/エルピス」は「絶対用法」なのです。普遍的な、究極の希望とされているのです。
朝日研一朗牧師
聖句「このアンティオキアで、弟子たちは初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」(11:26)
1.《不良少女》 1984年に『不良少女とよばれて』という大映ドラマがありました。母親の一言に傷付いた少女が非行に非行を重ね、少年院送りとなるのですが、指導に来た青年との出会いから民間舞楽の第一人者に成る物語です。これは原笙子の自叙伝のドラマ化です。本人が「不良少女とよばれて」いたのは1950年前後です。いつの時代にも不良少年少女は存在しているのです。
2.《ツッパリ》 「不良少年」と「非行少年」は違います。不良は自らを「不良」と称しますが「非行」とは言いません。「非行」とは飽く迄も大人目線の語です。これは「自らを何者とするか」というアイデンティティの問題として重要です。大学時代にクエーカー教徒の女性から「本当は、自分たちはフレンドと言う」と教えられて目から鱗でした。元々「クエーカー/震える人」の名称は、迫害した側が投げ付けた蔑称だったのです。「メソジスト」もまた「方法を重んじる几帳面な奴」という蔑称です。嘲笑われても「然り」と認めて、そのように呼ばれることを恥としなかったのです。これぞ信仰者のツッパリです。
3.《喧嘩上等》 そもそも「プロテスタント/抗議する人」の名称も、彼らの信仰の自由と良心の権利を踏み躙ったローマ教会側が名付けたものです。ローマ教会が自らを「カトリコス/普遍的な教会」と僭称し続けているのと比べると、興味深いことです。弾圧する側、権力者側や体制側からレッテルを貼り付けられても、売られた喧嘩を買うのです。「キリスト者、クリスチャン」も同様です。当初、信者たち自身は、そう呼ばれることを良しとしなかったのです。しかし、紀元2世紀初めには、その名前の故に苦難を受けても惨めとは思わなくなったのです。まさに「喧嘩上等!」、キリスト者のツッパリです。
朝日研一朗牧師
聖句「彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。」(11:13)
1.《庭の天使》 自宅の庭や玄関に飾り物を置いている人は珍しくありません。信楽焼きの狸、シーサー、白象、花壇に七人の小人やピーター・ラビット等です。ホームセンターに行くと「エンジェル」「アンジェロ」と称して、クピド風の天使像も販売されています。宗教像専門ショップに行けば、キリスト像や聖母像、聖母子像も手に入ります。しかし、信徒は飾ったりはしません。
2.《使者たち》 サラリーマンやOLが教会の軒下で雨宿りや日除けをしていることがあり、出会い頭に私も驚き、相手も驚かせてしまいます。別に「天使」でなくとも、見知らぬ人が立っていたら驚くのです。ところが、聖書では、天使が出て来ても特別に驚く人はありません。むしろ、百人隊長がペトロに使者を遣わしたことが驚きです。それに即応したペトロも周囲に驚きを与えました。しかし、彼は事前に「神が清めた物を、清くない等と言ってはならない」という主の啓示を受けていたのです。これは異邦人伝道のテーゼです。この一言が無ければ、イエスさまの福音は私たちの所には届かなかったことでしょう。
3.《パシリ道》 「清い」は「聖」です。聖なる神の御前にあって「義」とされること、救われる者です。旧来のユダヤ教徒は、割礼を受けて律法を守る者こそが「清い」と考えました。しかし、割礼も律法遵守も人間の手の業に過ぎません。新約聖書では、聖霊によって清められると主張するのです。昔から「使徒行伝」は「聖霊行伝」と言われます。使徒の言行は、聖霊の働きだからです。そもそも「使徒」も「天使」も「使い」の意味です。若い子たちは「使い走り」を「パシリ」と呼んで蔑みますが、キリスト教信仰は「パシリ道」です。但し、人間ではなく、神さまの「パシリ」に徹するのが私たちです。
朝日研一朗牧師