説 教 天使のパン=@

聖 書 詩編 78編23〜29節(p.914)
賛 美 歌 27、123、490、376、467、77、89
交読詩篇 詩編130編1〜8節(p.149)
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「…パウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。」(27:35,36)
1.《最後の航海》 パウロは十二使徒以外で唯一「使徒」と呼ばれる人物ですが、それは彼が「異邦人の使徒」と成ったからです。国外の異邦人にキリストの教えを伝え、3回の伝道旅行で移動した距離は8千数百キロに及びます。その後、ユダヤ教徒からの告訴を受けたパウロは、皇帝に上訴してローマに移送されることになりました。その行程表が詳しく記述してあります。
2.《アドリア海》 9月末の地中海は荒れるので、古代人は航海を中止したものです。しかし、パウロの乗せられた船は、船主や船長、ローマ軍との利害が絡んでいたのか、無理な出航をした挙句に漂流してしまいます。クレタ島を出た後、暴風に遭い、リビア沖に流され、更に14日目にはアドリア海に流されていたということです。アドリア海は『紅の豚』の舞台ですが、その直後にマルタ島に漂着するところを見ると、どうやら当時はイオニア海も含めて「アドリア海」と言っていたようです。乗客の安全を無視した危険な航海、乗客を置き去りにして逃げ出す船員の描写など、現代の海難事故を髣髴とさせます。
3.《元気を出す》 不安と船酔いのため2週間も何も食べていなかった乗客乗員に向かって、パウロは「朝の食事をしましょう」と促します。カポーティの『ティファニーで朝食を』のホリーは「たとえティファニーで朝御飯を食べる金持ちに成ったとしても、私は私のままでいたい」と自らの生活信条を語りました。朝食には、私たちの生活信条、自身の生き方、家庭の在り方(崩れ方)がどうしようもなく表われてしまいます。遭難者たちが共に朝食を食べる場面は「聖餐」と重ねられています。彼らは「元気づく」のです。今日も神さまから頂いた1日、賜った命です。神の御守りを信じて祈りましょう。
朝日研一朗牧師
1.ロングレイン
先日、テレビの天気予報を見ていたら、アナウンサーが「梅雨前線は…」と口走ってしまいました。咄嗟に私は「それを言うなら、秋雨前線でしょう」と、テレビに向かって反論しましたが、当然、向こうは聞いてくれていない訳で、そのまま天気予報のコーナーは終了しました。しかも、この失言にスタジオでは誰も気付かず、視聴者からの反応も無かったようで、訂正されることはありませんでした。
その後、雨音を聞く度に、私は「そうかあ、梅雨前線なんだ」と独りごちています。そう言われたら、そんな気がして来るのでした。事実、今年の秋は梅雨と見紛うばかりに雨の日が続いているのでした。この文章を書いている今は、所謂「シルバーウィーク」ですが、週日ズッと「雨のち曇り」「曇りのち雨」という予報です。
残念ながら、湿気嫌いな私にとって「雨音はショパンの調べ」ではありません。ただ鬱陶しいだけです。そんな雨音を聞きながら塞ぎ込んでいると、昔読んだレイ・ブラッドベリの短編に「長雨」(Long Rain)という恐ろしい小説があったことを思い出しました。彼の短編集『ウは宇宙船のウ』(R Is for Rocket)の中の一編です。
2.雨降りやまず
宇宙船が不時着した惑星はジャングルに覆われていて、引っ切り無しに雨が降り続いています。生き残った4人の宇宙飛行士たちは、植民者の作った「太陽ドーム」(人工太陽が設置されている)を目指して、ジャングルの中を歩き続けているのです。疲労と雨のせいで、彼らの顔は真っ白になり、制服はカビが生えて緑かがっています。
「太陽ドーム」に着いたかと思えば、それは自分たちの宇宙船でした。ジャングルの中を歩き回った挙句、戻って来てしまったのです。死んだ乗組員の口からはキノコが生えて、胞子を飛ばしています。食糧も尽き掛けています。漸く辿り着いた「太陽ドーム」は異星人の攻撃を受けて廃墟と化していました。やがて「電気嵐」に襲われて1人が焼死、絶望の余り乱心した1人が立ったまま(!)溺死、1人がピストル自殺します。
実は、1962年に出版された短編なので、舞台は「金星」という設定に成っているのです。現代の天文学からすれば、金星が「雨の降り止んだことのない」惑星だなんて、全くのデタラメです。その後、二酸化硫黄の雲から硫酸の雨が降っている惑星として、金星を描くSFも随分とありましたが、その硫酸の雨でさえも地上には届いていないことが、現代では明らかに成っています。実際の金星は二酸化炭素の濃度が異常に高く、その温室効果のため、地表の温度は4〜5百度もあるそうです。
そう考えると、ブラッドベリの「雨の降り止んだことのない」惑星という設定は、SF的奇想であり、怖いながらも、どこかしらロマンチックな趣きすら感じさせるのです。そう言えば、瀬川瑛子の演歌にも「雨降りやまず」というのがありました。渡哲也にも同名別曲がありました。
「金星では雨の降りやんだことなんてありませんよ。ただもう、いつまでもいつまでも降り続いているんです。金星にきて10年になりますが、1分、いや1秒でも、雨がざあざあ降っていないのを見たことがありませんね」(大西尹明訳、創元推理文庫)
3.俄かでない雨
聖書の舞台、パレスチナ地方では「雨は冬」と相場が決まっています。地中海式気候のパレスチナの1年は、夏の「乾季」と冬の「雨季」とに分かれています。乾季には一滴の雨も降りません。雨季は11月初めから3月までだそうで、湿った西風が雨を運んで来るそうです。しかも、雨季の降雨だけが大地を潤してくれる水分ですから、農民にとっては、それこそ「天の恵み」であって、これが少ないようだと旱魃と成って、飢饉の原因にも成り兼ねません。ですから、秋の収穫祭である「仮庵祭」(秋分の日に近い満月から1週間行なわれる)の最終日には、雨乞いの祈りが厳かに奉げられたそうです。
雨季の雨も3つに分類されています。
「申命記」11章13〜14節「もし私が今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、私は、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しい葡萄酒、オリーブ油の収穫がある」。
本来、聖書の世界には「春秋」という季節の観念は存在しません。「秋の雨」と意訳されているのが「イオーレー/前の雨」、10月末から11月に掛けて、乾季の終了と共に降り始め、土地を潤して耕作可能な土地に戻してくれる雨です。「春の雨」と意訳されているのが「マレコーシュ/後の雨」、3〜4月に降り、夏の作物を成長させて、穀物を実らせるので「祝福の雨」とされています。
この2つの間に「冬の雨」があります。「私たちは主を知ろう/切に主を知ることを求めよう/主は明日の光のように必ず現われ出で/冬の雨のように、私たちに臨み/春の雨のように地を潤される」(日本聖書協会訳)。「冬の雨」は、12月中旬から2月末に降る長雨です。大量に降ることで井戸や水槽の水が満たされるのです。地元住民は雨樋を設置して、この雨水を水槽に貯えて置くそうです。
この「冬の雨/ゲシェム」は、ただ単に「雨」という意味なのです。俄かでは無い、本降りの「雨」を言うのです。「新共同訳」では「降り注ぐ雨のように」と訳していますが、これが直訳の感覚に近いかも知れません。「ゲシェム・ショーテープ/続けざまの雨」と言えば「豪雨」、「ヤーラド・ゲシェム」と言えば「雨が降る」と成ります。
牧師 朝日研一朗
【2016年10月の月報より】
聖句「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、…訪れの日に神をあがめるようになります。」(2:12)
1.《カルトの子》 村上春樹の小説『1Q84』には、カルト教団の中で成長したヒロインたちが登場します。「エホバの証人」や「ヤマギシ会」がモデルに成っています。親が入信することで、その子たちも否応無くカルトの世界に引き込まれ、少なからぬ影響を受けてしまうのです。長じてからも、そのトラウマに苦しめられている人たちが大勢いるのです。
2.《コミューン》 元来「カルト」とは「祭儀」で、悪い意味はありませんが、現在では、当人の人格や家庭、社会生活を破壊する団体の意味で使われています。同じく「コミューン」も「共同」の意味で、カトリックの「教区」を基にした地方自治の最小単位だったのです。やがて、社会主義者たちの集団農場を指して用いられ、現在では、カルト信者が社会から隔絶して、自分たちだけの「楽園」を形成する場合に使われます。プロテスタント教会の中にも、多少「コミューン」的要素は残っていますが、むしろ、聖書は信者の社会生活を優先して「異邦人の間で立派に生活しなさい」と勧めています。
3.《異教徒の間》 これまで「異邦人」という訳語を「異教徒」と変えたことは、日本社会に暮らす私たちにとって大きな意味があります。家族の中ですら「異教徒の間」にあるのです。当時の信徒は「悪者呼ばわり」されて、偏見や中傷を受けていましたが、だからこそ「立派な(美しく魅力的な)行ない」を見て貰いなさいと言うのです。しかも「周囲の見る目が変わる」等と安請け合いはしません。たとえ異教徒であっても、全ての人を敬っているので、他者を変えることは、神さまにお委ねしているのです。私たちは、社会や家庭を投げ出したりしないで、「異教徒と共に生きる」信仰の闘いを続けて参りましょう。
朝日研一朗牧師
聖句「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(5:4)
1.《運動靴会社》 オリンピックやワールドカップは、スポーツシューズのブランドにとっても、絶好のPRチャンスです。映画『炎のランナー』で知られるエイブラハムズとリデルが、パリ五輪で使用したのはリーボックでした。近年、著しく知名度を上げたのがナイキです。元々はオニツカタイガーの米国販売代理店だったのですが、今や世界的なブランドを確立しました。
2.《勝利の女神》 ナイキはギリシア神話のニーケーです。スポーツ中継などで「勝利の女神が微笑んだ」と言われるのはニーケーのことです。ゼウスやアテナの命に従って、一方に肩入れして、勝利をもたらすのですが、神々が決め兼ねる時には、中空を飛びながら様子を伺っていると言います。ローマ神話ではウィクトーリア、ラテン語の「勝利」です。同じくニーケーもギリシア語の「勝利」です。「初めに言葉があった」のです。「勝利」の語が擬人化されて、美女の姿で描かれるようになったのです。4〜5節には、ニーケーが4回も登場します。「世に打ち勝つ勝利」等は同語反復の典型です。
《打ち勝つ愛》 私たちが生きている社会は競争原理が支配しています。競争が向上を促す場合もありますが、凡そ道を外れた競争も多いのです。国威発揚合戦や軍拡競争など愚の骨頂です。省みれば、私たち自身も下らないことを自慢し合っています。教会までが競い合っているのです。「世に打ち勝つ」のではなくて「世に順応して成功する」ことを求めているのです。「神の掟」、聖書の「言い付け」は「あなたがたは競い合うのではなく、愛し合いなさい」です。「イエスこそ我が救い」と告白した者は、辱め合ったり貶め合ったりするのではなく、神を愛し、人を愛するのです。それが「世に打ち勝つ勝利」です。
朝日研一朗牧師