説 教 暗いこの世の光として=@

聖 書 ヨハネによる福音書 12章44〜50節(p.193)
讃 美 歌 27、273、490、573、252、79、26
交読詩編 詩編24編1〜10節(p.29)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(8:9)
1.《貧富の差》 数年前『リッチマン、プアウーマン』というドラマがOLや女子学生の間で話題でしたが、その題名は、米国の劇作家アーウィン・ショーの大河小説『富めるもの貧しきもの/Rich Man,Poor Man』のモジリです。ドイツ移民の家庭に育った3人の子たちが各々、激動の時代を生きる中で、貧富の差に関係なく、人間としての苦悩と喜びを経験していくのです。
2.《出会い系》 「箴言」22章2節に「富める者と貧しい者とは共に世に居る/全てこれらを造られたのは主である」とあります。この聖句は、イエスさまの「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」にまで反響しています。しかし「経済格差も主の御心」とばかりに、現状追認主義的に受け止められ兼ねません。新共同訳は「金持ちと貧乏な人が出会う/主はそのどちらも造られた」と訳しました。両者の「出会い」の中に、神の創造の御業が顕われるのです。主の御心は「出会い系」なのです。富める者と貧しい者とが出会い、そこで人は「互いに生きる者」と成るのです。そのことを、神は望んで居られるのです。
3.《降誕の夜》 世間では、クリスマスは楽しく豊かなイベントと捉えられていますが、聖書の描くクリスマスは貧困状況です。イエスさまは泊まる場所も無く、寒々しい家畜小屋か洞窟にお生まれになったのです。幼稚園の聖劇なら、意地悪な宿屋の主人か女将さんの出番です。家畜小屋を提供する比較的優しい宿屋も描かれるでしょう。ところが、聖書には、そのようなコミュニケーションが一切欠落しています。全く「出会い」が存在しないのです。目に見えにくい現代の貧困問題との共通性を感じます。しかし、弁解は禁物です。私たち自身が見ようとしていないのです。クリスマスに出会うのに、貧富の差は関係ありません。豊かさは貧しさに、貧しさは豊かさへと変えられるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:37,38)
1.《かき集める》 英語の「収穫/harvest」は「秋」の意味でもありますが、古英語の「かき集める」の意味から来ているそうです。荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』には「ハーヴェスト」という「スタンド」が登場します。「スタンド使い」が命じると、虫のような姿の5百体ほどの分身(スタンド)が、一斉に町中から落し物の小銭やクーポン券を「かき集めて」来るのです。
2.《死神の収穫》 「収穫」はギリシア語で「テリスモス」と言います。麦の穂や牧草を「刈り取る」という意味です。モンゴメリーの『赤毛のアン』の最後から2番目の章は、マシュー小父さんが突然死する話です。その題名は「死という命の刈入れ人/The Reaper Whose Name Is Death」と言います。古来、西洋では、死神は大鎌(サイス)を手にした姿で描かれていて、「神に仕える農夫」という呼び名もあるのです。米英軍が使用している軍用無人航空機「MQ-9」は、オペレーターは国内の作戦室で珈琲を飲みながら、イラクやシリアを攻撃する恐るべき兵器ですが、これも「リーパー」と呼ばれています。
3.《働き手たち》 一口に「収穫」と言っても色々です。イエスさまは何を収穫して居られたのでしょうか。主は病気や患いを負う人たちを癒し続けられます。「飼い主のいない羊の群れのように弱り果て、打ち拉がれているのを見て」御自身も痛み苦しまれています。イエスさまは、この世の悲しみと苦しみ、痛みと悩みを取り除こうとして、そのために働く人を求めて居られたのです。「収穫」と言うと、自分の利益に成ること、自分が豊かに、偉く賢く成ること、自己目標が達成されることばかりを考えます(教会も例外ではありません)。主の仰る「働き手」は苦しんでいる人と共に生きる人です。無力でも構いません。人を愛して、その苦しみを思って、涙を流す心、それさえあれば良いのです。
朝日研一朗牧師
子どもたちも、司式や聖書朗読、献金のお祈りをしました。
礼拝後、収穫感謝日パーティーがありました。持ち寄った食材で作った豚汁、果物、海の幸の鉄板焼きをいただきました。
餅つきをしたり、教会の庭の杏の木の実から作った3年ものの杏酒もいただきました。(杏酒はとてもおいしかったです。)
来週のアドベントの準備もしました。子どもたちとクリスマスツリーを飾りました。
聖句「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(2:18)
1.《進化と展開》 2000年のモザンビーク大洪水の折、独力で樹上出産をした女性がいました。普通ではない出来事だから話題に成ったのです。類人猿は樹上や茂みで独りで出産しますが、人間は誰かの助けを必要とします。「進化」とは「独りで出来るようになる」ことではありません。ラテン語の本来の意味から言えば「展開」と訳すべき語かと思います。「意外な展開を見せる」ものなのです。
2.《無縁と有縁》 人間は脳が発達して、二足歩行を始め、骨盤の形状が変わり、産道が折れ曲がって、頭の大きい赤ん坊を産むために激痛を経験する結果と成ったのです。出産に苦労しているのは人間の女性だけです。人間は猿よりも確実に弱くなっているのです。しかし、弱くなった代わりに、私たちは家族や社会を手に入れることが出来たのです。「無縁社会」という語が流行しましたが、無縁であれば、もはや「社会」とは言えません。「関係ないね」と言うのは「社会性の欠如」です。「関係あるね」と言えるのが「社会」なのです。昔は「袖触れ合うも多少の縁」と言いましたが、今や「無い袖は触れもしない」のでしょうか。
3.《良しと悪し》 むしろ「助けて」と言い合えることが、人間であることの証です。神は「人」に「助ける者」を造られました。「ヘルパー/助け手」であり「パートナー/相棒、伴侶」「コンパニオン/仲間」です。神さまは、私たちが互いに助け合って生きるように、家族や社会を与えて下さったのです。人間をお造りになる以前の「天地創造」の過程では、繰り返し「これを見て、良し(トーブ)とされて」いた神が初めて、「人が独りでいる」のを見て「良くない/ロー・トーブ」「悪し」と仰ったのです。現在、日本社会に蔓延している「自己責任」という物言いは、本当に「良くない」のです。そんな時代であればこそ、私たちは互いに「助ける者」として生きることが求められているのです。
朝日研一朗牧師