2016年11月29日

12月第1主日礼拝(アドベント第2主日)

      12月 4日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 暗いこの世の光として=@音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 12章44〜50節(p.193)
讃 美 歌  27、273、490、573、252、79、26
交読詩編  詩編24編1〜10節(p.29)

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2016年11月28日

富める者、貧しき者【Uコリント8:8〜15】

聖句「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(8:9)

1.《貧富の差》 数年前『リッチマン、プアウーマン』というドラマがOLや女子学生の間で話題でしたが、その題名は、米国の劇作家アーウィン・ショーの大河小説『富めるもの貧しきもの/Rich Man,Poor Man』のモジリです。ドイツ移民の家庭に育った3人の子たちが各々、激動の時代を生きる中で、貧富の差に関係なく、人間としての苦悩と喜びを経験していくのです。

2.《出会い系》 「箴言」22章2節に「富める者と貧しい者とは共に世に居る/全てこれらを造られたのは主である」とあります。この聖句は、イエスさまの「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」にまで反響しています。しかし「経済格差も主の御心」とばかりに、現状追認主義的に受け止められ兼ねません。新共同訳は「金持ちと貧乏な人が出会う/主はそのどちらも造られた」と訳しました。両者の「出会い」の中に、神の創造の御業が顕われるのです。主の御心は「出会い系」なのです。富める者と貧しい者とが出会い、そこで人は「互いに生きる者」と成るのです。そのことを、神は望んで居られるのです。

3.《降誕の夜》 世間では、クリスマスは楽しく豊かなイベントと捉えられていますが、聖書の描くクリスマスは貧困状況です。イエスさまは泊まる場所も無く、寒々しい家畜小屋か洞窟にお生まれになったのです。幼稚園の聖劇なら、意地悪な宿屋の主人か女将さんの出番です。家畜小屋を提供する比較的優しい宿屋も描かれるでしょう。ところが、聖書には、そのようなコミュニケーションが一切欠落しています。全く「出会い」が存在しないのです。目に見えにくい現代の貧困問題との共通性を感じます。しかし、弁解は禁物です。私たち自身が見ようとしていないのです。クリスマスに出会うのに、貧富の差は関係ありません。豊かさは貧しさに、貧しさは豊かさへと変えられるのです。

朝日研一朗牧師

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2016年11月27日

通い続ける意味

1.信楽焼きの狸

私が小さい頃、しばしば、家族の会話の中に「カヨイ」という語が聞かれたものです。子供心に「カヨイ」とは何なのか気に成っていましたが、結局、改めて親に尋ねることも無いままに、いつか、記憶の底に沈んでしまっていました。

それが「通い帳」の略であること、「通い帳」とは、主に「銀行預金通帳」のことを言っていたのだと閃いたのは、ごく最近のことです。このように何十年も放置していた語の音が、ある日突然、記憶の底から浮かび上がって来て、年齢を経てから了解することがあるのです。それにしても、「通帳」が死語化した時代に突入してから、漸く「カヨイ」の正体に思い至るとは、皮肉な話です。実際、クレジットカード全盛の昨今では「通帳」そのものが死語に成りつつあります。未だ辛うじて「通帳」は存在していますが、それを持ち歩く人は少ないと思います。

「カヨイ」と言えば、もう1つ、信楽焼きの狸を思い出されるのではないでしょうか。あの狸は、編み笠を被り、右手に「徳利」を、左手に「通い帳」、もしくは「御通」と書かれた台帳を持っています。商売繁盛の置き物ですから、「タヌキ」は「他を抜く」に、「徳利」は「利徳、儲け」に通じます。「通い帳」は「売り掛け帳」です。通常は信用売買(ツケ)をしている取引先も、大晦日には支払いをしなければなりません。それで、あの狸は「カヨイ」を手にしているのです。この季節(師走)にピッタリの置き物と言えましょう。

2.いつも一緒に

キリスト教会もまた、アドベント(待降節)、クリスマス(降誕節)を迎えようとしています。昔から、教会には「クリスマス信者」というカテゴリーがあり、クリスマスにだけ来る会員(クリスマスにしか来ない会員)がいるのです。クリスマスは、日頃、礼拝から遠ざかっていた人たちが帰って来る季節なのです。

「信楽の狸」で言えば、主日礼拝に通わないで、溜まりに溜まったツケの支払いが回って来るということかと、そんなイヤミなことを考えてしまいます。

しかし、この「クリスマス信者」にしても、見方を変えることで、こちらの心持ちが全く違って参ります。「たとえ、クリスマスだけでも来てくれるから嬉しい」と感謝して歓迎するか、「クリスマスにしか来ない『恵み泥棒』」等と陰口を叩くか、その心持ち1つで、私たち自身の信仰の在り方までが左右されてしまうのです。

この「恵み泥棒」というのは、昔の牧師たちが多用していた語です。礼拝出席も奉仕も献金もせず、教会を支える義務も果たさずに、神さまの御恵みにだけ与ろうとしている姿勢を揶揄した表現なのです。

「『恵み泥棒』に成ってはいけません!」等と戒めて、真面目な信徒たちを養成するために、牧師が編み出した用語と思います。しかし、その佇まいたるや、どこかしら「放蕩息子の譬え話」(ルカによる福音書15章11〜32節)に登場する、狭量な兄の風情を思い出させるのです。真面目な兄は、畑仕事から帰って来て、祝宴が開かれているのを見ると、拗ねてしまいます。「この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言い付けに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友だちと宴会をするために、子山羊1匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。

拗ねてしまった兄に対して、父親は何と言って答えていたでしょうか。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」。

「いつも一緒にいる」と、その有り難味は見えなくなり、取り立てて喜びや感謝を感じなく成るものです(家族、仕事や日課、日常生活、健康、空気や水)。失ってみて初めて、その有り難さに気付くのが、私たちの常です。教会生活、神さまの恵みも同じです。その中にいると、それが当たり前に成って、殊更に意識しなくなるのです。

しかし「いつも一緒にいる」は、それこそ、アドベントのメッセージそのものです。「この名は、『神は我々と共に居られる』という意味である」(マタイによる福音書1章23節)。そして、もう1つのアドベント、再臨へと向かう希望でもあります。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(同28章20節)。

3.信仰を貯える

「いつも一緒にいる」というのは「暮らし」のことです。主日礼拝が日常生活の中心に成っている場合に、そのように言うことが出来ます。1年に日曜日が52回として、45回以上の回転数があって、シングルな(一人前の)会員なのです。

但し、そのような幸いは長くは続きません。中には、何十年も、そのような教会生活を続けることの出来た人もあります。しかし、病気や怪我その他の患いによって、礼拝に通えなくなったり、高齢に成ると共に、礼拝へ行く回数を減らさざるを得なくなったりします。誰もが遂には、全く通えなくなるのです。

私たちは、主日礼拝に通える間に、出来るだけ通って置かなくてはなりません。やがて通いたくても通えなくなるからです。「クリスマス信者」等と言わずに、久しぶりに会えた人を喜んで迎えなくてはなりません。やがて会いたくても会えなくなるからです。

「教会暦」を何度も巡って、教会の歳時記が肌身に付いて、礼拝生活をするのが当たり前に成ったら、その時こそは(たとえ有り難味を感じなくなっていたとしても)、神さまが「あなたといつも一緒にいる」暮らしなのです。この暮らしの実感を、しっかりと貯えて置くことが、信仰のエネルギーなのです。

牧師 朝日研一朗

【2016年12月の月報より】

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2016年11月26日

明日からアドベント

玄関にリースを飾りました

2016アドベントリース
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2016年11月22日

11月第4主日礼拝(アドベント第1主日)

      11月27日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 富める者、貧しき者=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  コリントの信徒への手紙U 8章8〜15節(p.334)
讃 美 歌  27、136、490、232、256、25
交読詩編  詩編105編1〜11節(p.119)

讃美歌練習(12月の月歌:273番) 礼拝後    礼拝堂


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2016年11月21日

悲しみの収穫【マタイ9:35〜38】

聖句「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:37,38)

1.《かき集める》 英語の「収穫/harvest」は「秋」の意味でもありますが、古英語の「かき集める」の意味から来ているそうです。荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』には「ハーヴェスト」という「スタンド」が登場します。「スタンド使い」が命じると、虫のような姿の5百体ほどの分身(スタンド)が、一斉に町中から落し物の小銭やクーポン券を「かき集めて」来るのです。

2.《死神の収穫》 「収穫」はギリシア語で「テリスモス」と言います。麦の穂や牧草を「刈り取る」という意味です。モンゴメリーの『赤毛のアン』の最後から2番目の章は、マシュー小父さんが突然死する話です。その題名は「死という命の刈入れ人/The Reaper Whose Name Is Death」と言います。古来、西洋では、死神は大鎌(サイス)を手にした姿で描かれていて、「神に仕える農夫」という呼び名もあるのです。米英軍が使用している軍用無人航空機「MQ-9」は、オペレーターは国内の作戦室で珈琲を飲みながら、イラクやシリアを攻撃する恐るべき兵器ですが、これも「リーパー」と呼ばれています。

3.《働き手たち》 一口に「収穫」と言っても色々です。イエスさまは何を収穫して居られたのでしょうか。主は病気や患いを負う人たちを癒し続けられます。「飼い主のいない羊の群れのように弱り果て、打ち拉がれているのを見て」御自身も痛み苦しまれています。イエスさまは、この世の悲しみと苦しみ、痛みと悩みを取り除こうとして、そのために働く人を求めて居られたのです。「収穫」と言うと、自分の利益に成ること、自分が豊かに、偉く賢く成ること、自己目標が達成されることばかりを考えます(教会も例外ではありません)。主の仰る「働き手」は苦しんでいる人と共に生きる人です。無力でも構いません。人を愛して、その苦しみを思って、涙を流す心、それさえあれば良いのです。

朝日研一朗牧師

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2016年11月20日

2016収穫感謝合同礼拝

子どもたちも、司式や聖書朗読、献金のお祈りをしました。

2016収穫感謝合同礼拝

礼拝後、収穫感謝日パーティーがありました。持ち寄った食材で作った豚汁、果物、海の幸の鉄板焼きをいただきました。

2016収穫感謝日記念パーティー

餅つきをしたり、教会の庭の杏の木の実から作った3年ものの杏酒もいただきました。(杏酒はとてもおいしかったです。)

2016収穫感謝日記念パーティー2

来週のアドベントの準備もしました。子どもたちとクリスマスツリーを飾りました。

2016アドベントの準備
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2016クリスマスイヴ賛美礼拝のお知らせ

次のご案内を出しております。

2016行人坂教会クリスマスイヴ賛美礼拝
posted by 行人坂教会 at 09:53 | 教会からのお知らせ

2016年11月15日

11月第3主日礼拝(収穫感謝日)

      11月20日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 悲しみの収穫=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 9章35〜38節(p.17)
讃 美 歌  27、62、136、平和と愛で心ひとつに、553、25
交 読 文  「魂の家」(アウグスティヌス)

・収穫感謝日パーティー   礼拝後〜午後2時     階下ホール
 豚汁&ご飯、鉄板焼き、餅つき。カンパ&持ち寄り大歓迎。

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2016年11月14日

ヘルパーさん募集中【創世記2:18〜25】

聖句「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(2:18)

1.《進化と展開》 2000年のモザンビーク大洪水の折、独力で樹上出産をした女性がいました。普通ではない出来事だから話題に成ったのです。類人猿は樹上や茂みで独りで出産しますが、人間は誰かの助けを必要とします。「進化」とは「独りで出来るようになる」ことではありません。ラテン語の本来の意味から言えば「展開」と訳すべき語かと思います。「意外な展開を見せる」ものなのです。

2.《無縁と有縁》 人間は脳が発達して、二足歩行を始め、骨盤の形状が変わり、産道が折れ曲がって、頭の大きい赤ん坊を産むために激痛を経験する結果と成ったのです。出産に苦労しているのは人間の女性だけです。人間は猿よりも確実に弱くなっているのです。しかし、弱くなった代わりに、私たちは家族や社会を手に入れることが出来たのです。「無縁社会」という語が流行しましたが、無縁であれば、もはや「社会」とは言えません。「関係ないね」と言うのは「社会性の欠如」です。「関係あるね」と言えるのが「社会」なのです。昔は「袖触れ合うも多少の縁」と言いましたが、今や「無い袖は触れもしない」のでしょうか。

3.《良しと悪し》 むしろ「助けて」と言い合えることが、人間であることの証です。神は「人」に「助ける者」を造られました。「ヘルパー/助け手」であり「パートナー/相棒、伴侶」「コンパニオン/仲間」です。神さまは、私たちが互いに助け合って生きるように、家族や社会を与えて下さったのです。人間をお造りになる以前の「天地創造」の過程では、繰り返し「これを見て、良し(トーブ)とされて」いた神が初めて、「人が独りでいる」のを見て「良くない/ロー・トーブ」「悪し」と仰ったのです。現在、日本社会に蔓延している「自己責任」という物言いは、本当に「良くない」のです。そんな時代であればこそ、私たちは互いに「助ける者」として生きることが求められているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:16 | 毎週の講壇から