説 教 幸せな生き方をしよう

聖 書 マタイによる福音書 13章10〜17節(p.24)
讃 美 歌 27、145、490、367、278、81、28
交読詩編 96編1〜13節(p.110)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(2:8)
1.《深夜食堂》 安倍夜郎のマンガ『深夜食堂』は、新宿花園界隈が舞台です。深夜0時に開店すると、客の注文に応えて「できるもんなら何でも作るよ」とマスターが言うお店です。暖簾には「めしや」と書いてあります。マスターは顔に傷痕のある男、やって来るお客も深夜だけに何か「ワケアリ」の人たち。でも、私たちも皆「ワケアリ」です。それぞれの事情を抱えて生きているのですから。
2.《聖なる夜》 「深夜食堂」は「真夜中のめしや」、イエスさまも「真夜中のメシヤ」でした。「マタイによる福音書」でも「ルカによる福音書」でも、クリスマスは「夜の出来事」として描かれています。ヨセフは夜の夢に天使の告知を聴きますし、占星術の学者たちも星に導かれてメシアを訪ねます。昼間に見えていたものが夜には見えなくなりますが、昼間に見えていなかったものが夜に見えるようになることもあるのです。月や星がそうです。街や家々の灯かりも夜に際立ちます。家があり、家族がいて、各人の暮らしがあり、喜びと悲しみがあります。家々の灯かりという形を取って、私たちにも見えるようになるのです。
3.《離れた所》 真夜中に働いている人たちの姿も見えて来ます。この羊飼いたちは雇い人で、羊の群れを預かっていたのかも知れません。少なくとも「その地方で」(「離れた所」を表わします)という語句から、自分の所有地を持たぬ者たちであることだけは確かです。2千年昔にも、王宮や神殿には夜勤をしていた衛兵や夜警がいたようです。羊飼いたちがクリスマスの御告げを受けたのは、むしろ彼らが都市の雑踏から離れた所にいたからです。多くの人々から離れて、外にあるからこそ見えて来るもの、聴こえて来る音もあるのです。私たちも少しだけ他の人たちと同じではない、離れた所に立ってみましょう。
朝日研一朗牧師
聖句「ヘロデは…ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」(2:16)
1.《デグエジョ》 メキシコには「皆殺しの歌/Degüello」と呼ばれる挽歌の伝統があります。総攻撃の前夜に、トランペットを奏でて、敵軍に殲滅を予告するのです。映画『アラモ』や『リオ・ブラボー』にも流れますし、『荒野の用心棒』や『夕陽のガンマン』の決闘に際して流れるのも、そのヴァリエーションです。その哀愁に満ちた曲調は、敵軍への弔いの歌であると共に、自軍兵士に対しても「死を思え」と訴えているのかも知れません。
2.《小羊の屠殺》 「デグエジョ」は「首切り」の意味です。その関連語に「聖なる幼子の虐殺/degollación de los santos inocentes」があります。ヘロデ王の虐殺の犠牲になった幼子たちを記念する祝日で、ローマカトリック諸国では12月28日に守られています。「創世記」22章の「イサクの燔祭」や「出エジプト記」12章の「過越祭の規定」を改めて読み直すと、ベツレヘムの子どもたちが犠牲の小羊として奉げられたのだと思われます。この虐殺事件は史実ではありませんが、福音書の終わりに、イエス御自身が「神の小羊」として十字架に付けられて、私たちの罪の贖いとされることと繋がっているのです。
3.《残酷な世界》 クリスマスは祝いの時、祭りの日です。却って教会が最も地味に見えるくらい、街も施設も商店も華やかに飾り立てられています。勿論、教会としても、主の来臨を心から喜びたいと思いますが、聖書に描かれたクリスマスには、暗闇や貧困、不幸や災難、苦悩や不安、圧政に苦しむ庶民の姿などがちりばめられています。そして「私たちの暮らすこの世界は、子どもを貪り食っている」のです(クレール・ブリセ著『子どもを貪り食う世界』)。この世界は残酷なのです。誰かが犠牲を強いられているのです。クリスマスは全ての人の祭りであるべきです。不幸せな人のためにも、孤独な人、愛する我が子を失った人のためにも、殺された子たちのためにもあるべきです。
朝日研一朗牧師
聖句「見よ、わたしは戸口に立って叩いている。誰かわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし…」(3:20)
1.《お客様》 三波春夫の決め文句は「お客様は神様です」でした。お笑いのネタに使われて、今ではクレーマーの常套句にすら成ってしまいましたが、本来は三波の芸人としての矜持を語る言葉だったのです。芸人たる者、歌う時には、観客を神と見立てて、神前で祈る時のように、澄み切った敬虔な心に成って、最高の芸を披露するべし、それが三波春夫の信条だったのです。
2.《訪問者》 「お客様は神様です」は比喩に過ぎませんが、本当に「お客様が神様」だったら、どうしましょうか。キリスト教の歴史には、そんな物語や伝承が数多くあります。トルストイの『靴屋のマルチン』(正しくは『愛あるところに神あり』)の創作は有名です。芥川龍之介の『きりしとほろ上人伝』は「聖クリストフォロス」の、フローベールの『聖ジュリアン伝』は「聖ユリアヌス」の伝承の翻案で、いずれも「黄金伝説」から採られたものです。見ず知らずの旅人を迎え入れ、背負って川を渡したら、あるいは、その冷え切った体を必死に温めたら、それがキリスト御自身であったという展開です。
3.《戸口に》 人生も「客を迎える」ことに似ています。大勢の人たちが私たちの人生を訪ねて来ます。客は人間だけではありません。私たちの人生には、苦難と死という訪問者がいます。しかし、苦難と死を経て初めて、私たちは神に近付くことが出来るのです。苦難と死を乗り越えられるようにと、キリストが私たちの客と成って下さるのです。W・ホフマン・ハントの絵画「世の光」には、カンテラを手にして、閉ざされた扉を叩くキリストが描かれています。扉には取っ手が無く、内側からしか開けられません。時刻は信仰と希望と愛も眠ってしまった真夜中、扉には蔦が絡んでいます。主を迎え入れ、愛する者、信じて希望を抱く者として、主と共に生きていこうではありませんか。
朝日研一朗牧師