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聖 書 エフェソの信徒への手紙 4章7〜16節(p.356)
讃 美 歌 27、159、490、99、396、82、29
交読詩編 詩編46編1〜12節(p.55)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(21:28)
1.《世界終末時計》 先日、米国の科学雑誌「原子力科学者会報」の「世界終末時計/Doomsday clock」が「人類滅亡まで2分半」という残り時間を発表して、人類に危機を警告しました。しかし「ドゥームズデイ/運命の日」を予告することで不安を煽り、それに付け込むカルトも数多く存在します。また、世界の滅亡を願う「黒い心の人々」(大江健三郎『個人的な体験』)もいるのです。
2.《世を見下げる》 果たして「黒い心」を持っていない人など存在するでしょうか。「世の終わりが来て、人類は滅亡する」「救われるためには…しなければならない」という信仰はキリスト教会の中にもあります。「救われるためには?」の問いに、普通「悔い改めて福音を信じなさい」と勧めます。その心は「私たちには何も出来ない、救いは神の一方的な恩寵」なのです。しかし、教会生活をしていると、「救われた者として相応しく…しなさい」との要求が重なると、逆回転して、それが救われるための条件となります。そして遂には、条件を満たしていない周囲の人たちを裁き、見下し始めるようになるのです。
3.《天を見上げる》 もしもキリスト者が世を見下すならば、「神は世を愛された」「その独り子をお与えになったほどに」という神の御心、福音の本質に反することです。むしろ「黒い心」を宿した存在なればこそ、ひたすら天を仰ぎ、滅びの時には「共に滅ぼされても仕方がない」と覚悟する謙遜さを持ちたい。世の終わりが近付くと、天変地異が起こって、誰もがパニックに成ると言います。私たちも同じです。しかし、その時こそ「解放の時」、自由になる時だと、主は仰るのです。「体を起こす」「頭を上げる」とは「希望のしるし」です。溺れるのではなく、主を見上げましょう。そこに、私たちの希望があります。
朝日研一朗牧師
聖句「『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と言い、また、『主はその民を裁かれる』と言われた方を、わたしたちは知っています。」(10:30)
1.《アヴェンジャー》 米国を代表するコミック雑誌「マーヴェル」には「アヴェンジャーズ」というチームが登場します。個別のマンガのヒーローとヒロインが一同に結集して巨悪と戦うのです。「リヴェンジ」が私怨による復讐を意味するのに対して、「アヴェンジ」は正義の立場から悪を罰するのです。米英軍には「アヴェンジャー」と銘打った艦船や航空機、兵器が多々あります。
2.《復讐は私の仕事》 神の御言葉「復讐は私のすること」云々は「申命記」32章35節から引用されています。「モーセの歌」ですから、復讐すべき敵はアマレク人でしょうか。カナンの農耕生活が描かれているので、3百年後のペリシテ人とも言えます。編集されたのが「捕囚期」と考えれば、更に5百年後のバビロニア人かも知れません。新バビロニア帝国とすれば、勝ち目がないどころか、既に祖国は滅ぼされて、自分たちは抑留されて奴隷生活を強いられているのですから、復讐など出来ません。自分で復讐したくても出来ない悔しい状況の中で、神に報復を託して行くしか無かったのでしょう。
3.《復讐を超えた先》 本来「復讐は私の仕事」の表現は、神ではなく人間が近親者としての義務を語る言葉だったのです。借金のために「嗣業の土地」を取られ、債務奴隷に成った身内を贖うことを意味しました。また、身内が殺された時には「血の復讐」を遂げることが親族の義務だったのです。しかし、イエスさまの言葉と聖霊を受け、その十字架と復活を知ったキリスト者たちは、復讐の思いを超えた先に「もっと素晴らしい、いつまでも残るもの」があることに気付いたのです。だから、数多くの迫害を受けながらも、怨みや辛み、呪いや悔しさから解き放たれて「永遠の命」を希望することが出来たのです。
朝日研一朗牧師
聖句「相応しい人は誰かをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとに留まりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」(10:11,12)
1.《挨拶禁止規約》 昨年、神戸のマンションの住民総会で「互いに挨拶は止めよう」との提案が出て、規約として明文化されたことが話題になりました。何とも寂しい時代に成ったものです。挨拶禁止を提案したり、反対に挨拶運動を強引に推進したりするのは、私たち自身が「顔見知り」への信頼感、延いては、他者を吟味して見極める判断能力を失ってしまっているからです。
2.《判断停止状態》 人間関係に限らず、聖書でも教会でも、信仰でも宗教でも鵜呑みにするのは正しい歩み方ではありません。疑い、吟味した上で、勇気をもって踏み出すのです。「信ずべきものは信ずる」のです。勿論、誤りもありますが、失敗は次に進むステップです。現代人は、そのプロセスを避けて、マスコミ報道やネット情報、世論調査などに判断を委ねています。しかし、判断停止状態に陥っている方が、操作誘導され易いのです。「振り込め詐欺」が流行する世相と軌を一にしています。子どもたちも「顔見知り」に挨拶せず、血の通わない怪しげな「ネット住人」だけを相手にして成長しているのです。
3.《平和の挨拶を》 イエスさまは12人の使徒に「権能」を与えて「医療伝道」に派遣しています。無一物での旅でしたが、町や村に入ったら、衣食住を与えてくれる「相応しい人/相応の値打ちのある人」の厄介になるように勧めているのです。しかし「相応しい人」「相応しい家」かを見極めるのは大変だったと思います。時には、無礼な応対を受けることもあったはずです。パウロの手紙には「使徒」「兄弟」と偽って詐欺紛いを繰り返す者もいたようです。そんな旅人を受け入れる側でも、各々に相応しい対応が求められます。誰に対しても「平和があるように」という祝福の挨拶を交わし、祈る者でありましょう。
朝日研一朗牧師
聖句「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(13:8)
1.《借り暮らし》 2010年のアニメ映画『借りぐらしのアリエッティ』は、英国の児童文学者、メアリー・ノートンの『床下の小人たち』が原作です。所謂「小人の冒険シリーズ」の1編ですが、原作者は「拝借人/Borrowers」という表現を大切にしています。何でもお金で買って所有し、声高に所有権を主張するのではなく、借り物を工夫して再利用していくのです。
2.《所有と排除》 私たちも「自分の家」「自分の土地」「自分の家族」「自分の人生」と言っていますが、神さまから「与えられたもの」、つまり「授かりもの」「預かりもの」なのです。しばらく借りていて、やがてお返しするものなのです。「借りがある」と訳されている「オフェイロー」には、借金のみならず「負い目、罪」の含みがあります。現代ギリシア語の「借りる/エノイキオ」は「エンオイケオー/その中に住む」と関係があるかも知れません。何十年か昔は、隣近所でお醤油やお砂糖の貸し借りをしていました。お裾分けもしました。私たちは、今や互いに「外に住んでいる」のかも知れません。
3.《愛し合って》 どうしても「借り」と言うと「借金」のイメージが先行してしまいます。米国の結婚式で、新郎新婦への勧告として読まれることが多かったそうですが、新婚家庭に借金の危険を警告していたのかも知れません。しかし、パウロが言いたいのは「誰にも借りや負い目を作るな」ではなくて、愛し合うことの大切さです。愛には「借りがあっても良い」のです。借りがあれば、期間内に返済するのが、私たちの社会の約束事であり秩序です。しかし、愛には負債があってもよいし、返済期限もありません。貸すばかりで損する人がいても、借りるばかりで、返さない人がいても良いのです。
朝日研一朗牧師
聖句「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがの耳は聞いているから幸いだ。」(13:16)
1.《メタファー》 今年は酉年ですが、本来「酉」は「鳥」ではなく「酒熟して気の漏れる」様を言います。従って「水鳥」と言ったら「酒」の隠語ですが、十二支に動物を当てたのは、庶民に分かり易く説明しようとした先人の知恵です。イエスさまの譬え話も、目に見えないものを、目に見える物や経験で表現することで、誰もが得心できるようにしているのです。
2.《譬えの意味》 神の愛など私たちには想像できませんが、「放蕩息子」の帰りを待ち侘びる父親の心情は想像に難くありません。赦しの御心など分かりませんが、迷子の小羊を発見した飼い主の喜びは分かります。それこそ、イエスさまが「譬えを用いて話す理由」に他なりません。劇作家の井上ひさしの「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」のモットーにも通じます。キリスト教の教義(ドグマ)を理解したり、教理問答(カテキズム)を勉強するよりも大切なことがあるのです。お百姓さんは「神の国」のことは分からないのですが、「種蒔き」なら体験として誰よりも知っているのです。
3.《幸いなる哉》 この聖書箇所では、群集には「天の国の秘密を悟ることが許されていないから」、彼らが理解できないように「譬えを用いて話すのだ」とイエスさまが言われます。むしろ、これは「マタイ」のメッセージです。「天の国の秘密」と言われている内容も驚く程のことではありません。イエスさまの福音に今出会った人たちに「幸いなるかな」と祝福しているのです。アインシュタインは「人生には2つの生き方しかない。奇跡など何一つないとして生きる生き方か、全てが奇跡であるとして生きる生き方か」と言いました。全てに奇跡を見聞きすることが出来れば、感謝と賛美に満たされるはずです。
朝日研一朗牧師