説 教 イエスの死を身にまとって=@

聖 書 コリントの信徒への手紙U 4章7〜15節(p.329)
讃 美 歌 27、526、490、311、107、71、88
交読詩編 詩編103編14〜22節(p.116)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もそのとおりである。」(3:8)
1.《風に吹かれて》 ボブ・ディランの「風に吹かれて/Blowin’ in the Wind」の歌詞は「どれだけ何々すれば、何々なのか?」という反語法で綴られています。最も単純な用法では「こんな事が許されて良いのか?」−「許されない!」という応答になりますから、結果的に60〜70年代には、プロテストソング(政治的抗議の歌)と受け止められていました。
2.《助けてくれる》 「その答えは風の中にある」とリフレイン、あるいは「折角、地上に降りて来ても、殆どの人は見ようとも知ろうともしない」との本人のコメントから、「聖霊」を暗示していると思います。「ヨハネによる福音書」では「聖霊」は「パラクレートス」と言われています。「新共同訳」では「弁護者」、「協会訳」や「新改訳」では「助け主」、正教会では「慰むる者」と言います。「弁護者」は「弁護士」みたい、「ヌシヌシ」と言うのも「牢名主」みたいです。「助けてくれる人、慰めてくれる人、励ましてくれる人」は、教会にも私たちの身の周りにも大勢います。それが「聖霊の働き」なのです。
3.《聖霊を信じる》 ニコデモはファリサイ派の教師であり、最高法院の議員でありながら、イエスさまを神の遣わした教師として慕い続けた人物です。夜に訪ねて来る場面設定は「奥義の伝授」のためです。弟子たちに先立って「聖霊の秘密」を教わるのです。聖霊は目に見えず、私たちの思いを超えた存在なので、ニコデモにも理解できません。しかし、理解する必要など無いのです。産まれた時に、私たちが「どこから来て、どこへ行くかを知らない」のと同じです。けれども、分からないなりに「霊から生まれた者」は、神さまを信じるのです。丁度 赤ん坊がお母さんを信じているのと同じです。
朝日研一朗牧師
聖句「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(15:27)
1.《絵文字》 先日、上野の国立科学博物館で開催された「世界遺産ラスコー展」を見に行きました。約2万年前にクロマニヨン人が洞窟に描いた絵と絵文字が再現されて展示されていました。絵文字もまた文字だとすれば…。
2.《あなたの義務》 文字と言葉には、さまざまな意味が込められています。弟子たちは、追いすがるカナンの女性を追い払うために「願いを聞いてください」とイエスに願います。「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスの拒否の弁。それでも彼女は助けを求めます。この「助ける」は「助けを求める人の所に駆けつける」という意味があります。すると、「助けてください」には「主ならば家に来て娘を診てくださることは当然です」を意味することになります。「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と、イエスは「パン」を分離のために用いますが、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と彼女。ユダヤ人に居住地を奪われた子孫のカナン人の女性は、加害者の側に立つイエスに、娘のために「扉を開けて欲しい」と、彼の前に立ちふさがった。イエスは彼女の信仰をたたえ、娘は癒されます。
3.《人を生かすパン》 「イエスは全ての人の主である」という、この女性の信頼は、福音は全ての人に開かれ、人を生かすパンは全ての人をつなぐものであることを示しています。上野の京成電車の看板の下に、金色のアヒルが羽ばたこうとする像があります。台座に「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」と刻まれています。この女性の信仰に励まされ、「信仰ある身のいいわけほどは我イエスに向かい飛ばん」と願います。
外谷悦夫牧師(市川三本松教会)
聖句「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。」(17:18,19)
1.《遣わされた者》 ドラマ『べっぴんさん』に出演中の「林遣都」は本名で、両親が「都に出て大事を成し遂げるように」と命名したそうです。思えば「遣わす」という文字は、日本語訳と中国語訳だけの表現です。英訳その他、ラテン語やギリシア語原典に至るまで「送る」です。しかし、単に「品物を送り付ける」のと「人を遣わす」のとでは違うという信念が感じられる語です。
2.《差出人の確認》 ギリシア語の「アポステルロー/送る」は「アポスル/使徒」という聖書独特の用語を生みました。こういう特殊な語に立ち止まりながら読んで行くのが、聖書を学ぶ醍醐味です。何が何でも速く読了すれば良いというような「通読」至上主義には疑問を覚えます。「アポステルロー」の「アポ」は「分離、出発、起源」を表わす接頭辞です。「ステルロー」だけでも「送る」という意味はあるのに、更に「アポ」が付いているのです。要するに「誰からか」ということが大切なのです。家に届いた宅急便の送り主も見ないまま開ける人はいないでしょう。お遣わしになった御方が証されているのです。
3.《遺された者ら》 イエスさまの「訣別説教」です。「共観福音書」の「ゲツセマネの祈り」に比すべき場面です。主は御自身が不在になった後の弟子たちの行く末を心配して、神の御守りを何度も祈って居られるのです。ローマカトリックの信者の永井隆が、長崎で被爆して病床に臥しながら、自身の死後の娘の姿に思いを馳せる『この子を残して』の一節が心に浮かびました。誰かが「遣わされる」時、そこに「遺されて」しまう人も出て来るのです。「アポ」には「遠く離れて、遥か彼方」の含みもありました。「世に遺された者」は「世に遣わされる者」です。しかし、キリストの愛が彼らを守っているのです。
朝日研一朗牧師
聖句「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(2:22)
1.《マイホーム》 1975年に「家を作るなら」という建売住宅のCMソングが流行りました。都心に住む庶民の憧れが「団地」から「庭付き一戸建て」に変化した潮目だったのです。世に言う「マイホーム」です。しかし、どうして「アワ/私たちの」ではなく「マイ/私の」なのでしょうか。持ち家を手に入れた喜びの表現なのでしょうが、一抹の孤独と空虚さが感じられます。
2.《使途不明金》 教会形成も「家を建てる事」に喩えられます。イエスさまもペトロに「この岩の上に私の教会を建てる」と仰いました。その聖句を縁起として、バチカンの総本山「サン・ピエトロ大聖堂」はペトロの墓の上に建てられているようです。千三百年に渡って(324〜1626年)建て増しを続けました。遂には建立費用捻出のために「免償/免罪符」を乱発し、その結果、ルターが反対声明を出して、「宗教改革」が始まります。完成は、その更に110年後です。確かに稀有壮大ではありますが、イエスさまは何と言われるでしょう。ペトロなら使徒だけに「使途不明金!」と批判するに違いありません。
3.《建てられる》 イエスさまの仰る「教会」は建物のことではありません。「教会」と訳されている「エクレーシア」は「集会」と訳すべきです。「土台、要石、建物全体、神殿、住まい」と言われていますが、飽く迄も比喩なのです。「箱物」ではなく、主に呼び集められた人たちが「聖なる神殿」「神の住まい」に「成る」のです。私たちの力や業によってではなく、三位一体の神の力によって作り出される奇跡なのです。その基本は「食卓紐帯」にあります。血の繋がった家族ではありませんが、共に聖餐に与り、共に愛餐する「仲間」です。その時、私たちは「組み合わされて成長し」「共に建てられる」のです。
朝日研一朗牧師