2017年02月26日

刻印を押された人

1.スタンプラリー

去る1月30日、JR東日本が開催している「そうさ今こそ!DRAGON BALLスタンプラリー」のために、1日乗車券を使って山手線を一周して来ました。アニメ『ドラゴンボール』のファンである二男のたっての頼みです(彼も体が不自由でなければ、自分で回っていたことでしょう)。是非もありません。

方法は簡単。各駅の改札を出た所、もしくは「みどりの窓口」の中に、『ドラゴンボール』のキャラクターのスタンプ台が設置してあり、各駅のスタンプを「専用スタンプ帳」に押して行くのです。スタンプを数多く集めると、オリジナルの賞品が貰えるというイベントです。「7駅制覇」「30駅制覇」「全駅制覇」で、それぞれ賞品が貰えるのです。「全駅制覇」と言っても全65駅もあります。東は取手(とりで)、西は西荻窪、南は羽田空港第1ビル、北は赤羽まで拡がっているのです。取手に至っては、柏や我孫子の更に向こうです。さすがに行けそうにもありません。しかし、せめて心意気だけでも示そうと思い、息子のためなら「えんやこら」と山手線一周だけはすることにしたのです。

取り敢えず目黒駅から「内回り」で出発しました。各駅の改札を出て、スタンプを押してから、再び電車に乗って次の駅へと繰り返して行きました。

2.四国八十八箇所

その駅とキャラクターとの間に、何となく関連を感じさせる所もあります。例えば、「高田馬場」は「占いババ」とか、「日暮里」「西日暮里」が「人造人間17号」「人造人間18号」(双子の姉弟なのです)とか、「蒲田」が「餃子(チャオズ)」とか…。でも、殆どはテキトーな組み合わせに成っているみたいで、実は全く何も考えないところが、如何にも『ドラゴンボール』です(何しろ、その主題歌で♪「頭カラッポの方が/夢詰め込める」と歌っていたくらいですから)。

さて、山手線一周、実際にやってみると、思いの他、大変なのです。失敗も何度かありました。例えば、鶯谷で降りてみたら、そこは参加していない駅でした。駒込、巣鴨あたりに達すると、脱水症状を起こしました。目白では、スタンプを押してプラットホームに出るや丁度、列車が到着、慌てて乗ったら、池袋に戻ってしまいました。既にスタンプ押印済みの新宿に降りて、スタンプ台の前で愕然としました。

しかし、こんな馬鹿げたことでも、やり続けていると、奇妙な充足感に囚われるから不思議です。そもそも「30駅制覇」「全駅制覇」等は、最初から目指していません、つまり、賞品目的で行なっているのではありません。私の場合、純粋な動機でしています。こう成ると「四国八十八箇所」の霊場を廻る「お遍路さん」と同じような心境です。「同行二人」です。たとえ、途中で行き倒れても、仏さま…じゃなかった、イエスさまが私を天国に連れて行って下さるのです。

3.御朱印ガールズ

「四国八十八箇所」で思い出されたのが「御朱印ガール」です。最近は、若い女の子たちの間で、寺社仏閣を訪ねて、愛用の「御朱印帳」に御朱印を押して貰うのが流行しているという話です。「四国八十八箇所」に限らず、多くの寺社仏閣では、参拝した人に朱印を押してくれるのです(有料の場合が多い)。最近では、朱印や朱印帳がネットオークションでプレミアムが付いて転売される程にブームなのです。

それで、私は冗談半分に「各教会でも御朱印を作ったら、どうか?」とか「教団の諸教会7つの礼拝に出席して、朱印を押して貰ったら、オリジナルグッズが貰える」とか、しばらく、そんなアイデアを練っていたのです。

ある日、「真宗大谷派東本願寺」のHPを開けてみたら、御朱印ブーム批判が書いてありました。曰く「…回ったお寺の数だけ朱印が増えていくことは楽しみでありましょう。また、八十八箇所とか三十三所というように決められた場所をすべて回ったときには、何らかの達成感があることもわかります。でも、ちょっと待ってください。お寺とは朱印を集めるためにお参りするところなのでしょうか。それならば、一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはないでしょう。大事なのはお参りしたことがあるかどうかではなくて、お参りして教えに出遇(であ)ったかどうかです。また、どんな教えに出遇(であ)ったかということであるはずです。…」

文字通りに「釈迦に説教」されたような気分でした。「お前は、それでもイエスの弟子なのか?」「キリスト教の牧師なのか?」と。

4.十字架のしるし

「ヨハネの黙示録」7章4節に「刻印を押された人々」14万4千人が出て来ます。「救われる人たち」には天使、もしくは聖霊によって、特別な印が付けられていると言うのです。因みに「14万4千人」とは実数ではなく「12×12000」という「象徴数」「完全数」です。大切なのは数字の解釈ではありません。救われる人たちは「刻印を押されている」というメッセージの方が重要なのです。

恐らく家畜に焼き印を押して、誰の所有かを明らかにするイメージから来ているのでしょう。「神のもの」「神の民」であるという確証です。私たちが洗礼を受け、聖餐に与り、信仰を告白し、礼拝において共に賛美して祈り、献身のしるしを奉げる、それらは全て、その「刻印」を明らかにする行為だったのです。そして、言うまでも無く、私たちにとっての刻印とは、キリスト・イエスの十字架に他なりません。それ以外にあり得ません。

牧師 朝日研一朗

【2017年3月の月報より】

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