説 教 蛇のように、鳩のように=@

聖 書 マタイによる福音書 10章16〜23節(p.18)
讃 美 歌 27、576、490、559、509、72、89
交読詩編 詩編150編1〜6節(p.167)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「…タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」(3:18,19)
1.《ジュード》 ビートルズの「ヘイ・ジュード」は、失意の友を励ます名曲ですが、クビショヴァにカバーされて「プラハの春」と「チェコ事件」を象徴する歌ともなりました。「ジュード」とは、英語の「ジューダス/ユダ」の愛称です。但し、英語圏では「裏切り者のユダ」を「ジューダス」、「ユダの手紙」の著者「主の兄弟ユダ」や十二使徒のユダを「ジュード」と使い分けています。
2.《他のユダ》 「ルカによる福音書」は十二使徒に別のユダ「ヤコブの子ユダ」を数えていますし、「ヨハネによる福音書」には「イスカリオテでない方のユダ」が出て来ます。彼は「タダイ」と同一視され「ユダ・タダイ」と呼ばれることもあります。余り印象のない弟子ですが、新約外典「アブガルスとイエスの往復書簡」によれば、主の復活後に、このユダがシリアのエデッサで最初の主教となるのです。同じユダでも「裏切り者のユダ」と「聖ユダ」とでは大違いです。聖書には、同じ名前の人物が数多く登場して、混乱を招く原因になっていますが、一緒にされて一番迷惑だったのは本人であったはずです。
3.《引き渡す》 同名の人が多かったので「このユダが…」と書いてあるのです。「イスカリオテのユダ」だけが、世の終わりまで「裏切り者の名を受けて」蔑まれる結果となってしまいました。他のユダたちと、何が違っていたのでしょう。「裏切る/パラディドーミ」の第一義は「引き渡す」です。「売り渡す、差し出す、放棄する」の意味もあります。私たちも自らの欲望に目が眩んだり、弱みを握られて脅されたり、誰かの歓心を買おうとして、大切な何かを引き渡してしまうことがあるのです。しかし、ユダは主の十字架しか知らず絶望しましたが、私たちは主の復活を知っているのです。そこに希望があります。
朝日研一朗牧師
聖句「群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」(6:19)
1.《安産祈願》 難産に苦しむ妊婦に麻酔が初めて処方されたのは、1847年のスコットランドです。古代中世には、聖母マリアに祈るばかりでした。ローマ教会には「聖母マリアの無原罪の御宿り」という信仰があり、神の特別な恵みにより、マリアは原罪無く母の胎に宿ったとされているのです。それ故に、イエスさま出産の際にも痛みから解放されていたと言うのです。
2.《視点変換》 もし母マリアが「無痛分娩」だったとしたら、カトリック信者は、却って聖母に祈り甲斐がありません。私たちと同じ痛みを知っている御方だから執り成しを祈るのではないでしょうか。私たちが主イエスの御名を通して祈るのは、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ」、私たちの痛みを知っていて下さるからです。ドイツロマン派の詩人、ノヴァーリスは「キリストも、その御母が限りなく悩み給うのを見なくてはならなかった。愛する者たちが悩んでいるのを見たら、どんな気持ちがするかを、キリストは知っていて下さる」と述べています。「聖母哀歌」とは異なる別の風景が立ち現われます。
3.《脱力感覚》 「平地の説教」の導入句に過ぎませんが、救いを求める民衆の余りに夥しい数に、イエスさまもお疲れになったろうと思うのです。勿論「イエスは全能の神の御子だからお疲れに等ならない」という意見もあるかも知れませんが、「力が出て行った」という句から、無感覚ではなかったと思うのです。私たちも脱力感や虚脱感に悩みます。主も同じように悩まれたはずです。十字架の責め苦が「痛くも痒くもない」はずはありません。同じく疲労困憊なさったはずです。私たちの疲れ果てた心と体と魂を、イエスさまは誰よりも御存知です。私たちを癒して下さるのも、主を措いて他にありません。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」(16:6,7)
1.《被災者統計》 警察庁が発表する「東日本大震災」の死者行方不明者数も変動があります。震災直後は2万7千人でしたが、最新の発表では1万8千人に減っているのです。しかし、被害が少なくなった訳ではありません。犠牲者の一人一人に家族があり、家庭があったことを思うべきです。私たちは具体的に、自分の家族に置き換えて、その悲しみと衝撃と絶望を想像するべきなのです。
2.《関心喪失点》 数量が大きくなり過ぎても小さくなり過ぎても、人間は無感動になって関心を失ってしまうのです。何か「大き過ぎる数字」が出て来たら、意識して自分の生活感に置き換えて「初期化」することをお勧めします。福島県浜通りの復興帰還事業を見ていると、震災と原発事故によって引き裂かれた人たちが、更に引き裂かれているように感じます。「福音書」にも、十字架によって引き裂かれた人たちの証言が綴られています。「ヨハネによる福音書」のクライマックスは、14〜16章の「訣別説教」、17章の「訣別の祈り」です。イエスさまが去り行き、代わりに「弁護者」なる聖霊が弟子たちに来ると言うのです。
3.《聖霊の働き》 別離に当たって「あなたがたのためになる」と言うのが、千昌夫の「星影のワルツ」を思わせます。「…のためになる、益になる、に好都合」と訳されている「シュムフェロー/持ち寄る」は、自動詞になると「助ける、役に立つ」の意味です。心が悲しみで一杯だと言うのに、どうして弟子たちの役に立つ良いことがあるでしょうか。しかし、この悲しみの別離を体験することで、「弁護者、聖霊/パラクレートス」が与えられるのです。喪失の苦しみ悩みを知る者に「慰めるもの」が降って来るのです。この分断され、引き裂かれた苦しみに呻く世界を、結び合わせるのが「聖霊の働き」なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)
1.《聖書アプリ》 アプリケーション・ソフトウェア、所謂「アプリ」とは「応用ソフト」です。便利なアプリが様々流通していますが、「聖書アプリ」は41ヶ国113種類の言語の翻訳で聖書を閲覧することが出来ます。米国では、日曜礼拝の時間に「聖書アプリ」の使用頻度が高まるので、牧師の説教を聞きながら、会衆は手持ちのスマホやタブレット端末で見ているのでしょう。
2.《聖書讃美歌》 昔の信徒は皆、自分の聖書讃美歌を携えて、礼拝に集ったものです。1970年代の後半に成ると、教会が「置き聖書、置き讃美歌」を認めるようになりました。近年は「マイ聖書、マイ讃美歌」への思いも薄れ、専ら教会備え付けの聖書讃美歌を使用しています。教会に手ぶらで来る便利な時代に成ったのです。しかし、昔の信徒たちが「マイ聖書、マイ讃美歌」にお手製のブックカバーを被せて大切に使っていたこと、大切なカードを栞に使っていたこと、その折々の書き込みがあったことを思い出します。まさしく、その人自身の教会生活、人生そのものが染み付いた愛用の品物だったのです。
3.《肌身離さず》 「イエスの死を身に負う」と訳すと「苦役」の印象があり、「身に帯びて」と訳すと「名誉」の印象があります。それに比べると「身にまとって」は軽やかです。さすがは「バブル時代」の翻訳です。原典の「ペリフェロー」は「持って回る」です。「身に負う」は気負い過ぎ、「使命を帯びて」来られるとウザったい印象があります。そう考えると「身にまとう」も悪くはありません。但し、持って回るのは「イエスの死」です。観念としての「死/サナトス」ではなく、「死に行く様、殺害/ネクローシス」です。パウロは自身が死に直面する度に、イエスさまとの間に苦難の共同体を見出したのです。
朝日研一朗牧師