2017年04月22日

日本キリスト教団市川三本松教会に行きました。

2月19日東京同信伝道会礼拝交流がありました。
日本キリスト教団市川三本松教会で朝日牧師が主日説教をされました。
市川三本松教会会報「三本松」に掲載されました。


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posted by 行人坂教会 at 23:44 | 教会からのお知らせ

2017年04月18日

4月第4主日礼拝

       4月23日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 あなたの塩加減=@音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 9章42〜50節(p.80)
讃 美 歌  27、576、490、503、522、511、89
交読詩編  詩編150編1〜6節(p.167)
※ 新役員任職式

・讃美歌練習(5月の月歌:166番)  礼拝後     礼拝堂

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年04月17日

大きな魚と小さな魚【ヨハネ 21:1〜19】

聖句「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(21:9)

1.《魚アンケート》 最近の子どもは魚料理を嫌う印象を受けますが、回転寿司は大好きです。但し、彼らの好むネタはエビ、マグロの赤身、イクラ、サーモン、トロ、ツナ等で、煮つけや焼き魚など論外なのです。食育アンケート調査によると、給食で嫌いなメニューは「魚全般」が断トツのトップ。その理由は「骨がある」「食べるのが面倒」「食べるのに時間がかかる」でした。

2.《漁師率の高さ》 12人の弟子のうち半数が漁師だった可能性があります。神殿に奉げる犠牲は肉と小麦が中心でした。つまり、聖書の民の食生活は肉とパンが中心だったのです。しかし、旧約聖書に比べると、新約聖書には「魚」が頻繁に登場します。イエスさまは「魚好き」だったのかも知れません。この箇所には「153匹もの大きな魚」と、妙にリアルな漁獲量が挙げられています。153は「三角数」で、各桁を三乗して足すと153です。3で割り切れる数字でも同じ計算を続けると153に成ります。153とは、当時の地中海で知られていた「全ての魚の種類」を表わしているという説もあるのです。

3.《オプサリオン》 イエスの名前も「ヌン(魚)の子ヨシュア」、ギリシア語の「魚」は「イクテュス」で「イエス・キリスト、神の子、救い主」の暗号として使われました。ここで「イクテュス」は「大きな魚」と訳されています。イエスさまが炭火焼きにしているのが「オプサリオン/小さな魚」です。干物か何かでしょう。「何か食べ物はあるか?」と尋ねる主に、弟子たちは「ねぇよ!」と無情な返答でした。それなのに、イエスさまは弟子たちのために食事を準備して下さるのです。「153匹もの大きな魚/大漁」の「大きな物語」に目を奪われがちですが、真の奇跡は「小さな魚」にあったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:30 | 毎週の講壇から

2017年04月16日

イースター

20170416イースター礼拝

イースター礼拝の後、みなさんで記念写真を撮りました。

20170416記念写真

イースター愛餐会です。

20170416イースター愛餐会
posted by 行人坂教会 at 17:20 | 教会アルバム

2017年04月15日

イースターエッグ

明日はイースターです。 教会学校のこどもたちがイースターエッグを作りました。

2017イースターエッグを作り

今年は教会の庭にハナニラがたくさん咲きました。

2017教会の庭
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2017年04月11日

イースター(復活日)礼拝

       4月16日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 大きな魚と小さな魚=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 21章1〜19節(p.211)
讃 美 歌  27、576、490、524、319、73、89
交読詩編  詩編150編1〜6節(p.167)

・イースター写真撮影    礼拝後       礼拝堂
・イースター愛餐会     写真終了後     階下ホール
  会費:おとな400円、こども300円、未就学児無料

・・・当日の音声録音を聴く
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2017年04月10日

わたしがあなたを選んだ【ヨハネ15:11〜17】

聖句「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…わたしがあなたがたを任命したのである。」(15:16)

1.《チャンネル》 ふと気付くと、リモコンを手にチャンネルを回し続けていることがあります。商品展示の仕方でも、商品が多過ぎると、お客は選ぶのを諦めて、何も買わずに出て行ってしまうそうです。選択肢が多過ぎると、却って迷いや思い煩いが増えるのです。人生、何をどう選択したところで挫折や不調が待ち構えています。その意味では「置かれた場所で咲きなさい」です。

2.《選ばれた私》 私自身も「牧師をやめよう」「クリスチャンやめたい」と血迷うことが何度もありました。取り返しのつかない失敗をしたり、自分の不甲斐無さに直面すると、信仰もガタガタです。しかし、「私があなたを選んだ」の御言葉に支えられています。「なぜ私などが?」との疑問が消えて無くなる訳ではありません。むしろ、それを自身への問い掛けとして、引き受けて生きるのが信仰生活ではないでしょうか。「選ぶ/エクレゴー」とは、適当な選択ではなく、イエスさまの一押しの「大抜擢」「引き抜き」なのです。

3.《接ぎ木の枝》 何のために「選ばれた」のかと言えば、「実を結ぶため」です。葡萄の枝は根や幹から離れた所に「出て行って」実を結んでいます。「紐付き」ではなく、私たちの自由意志や自主性が大切なのです。求められているのは「祈りの業」と「愛の業」です。新約聖書の言う「実り」とは、人に精神的道徳的な変化をもたらし、陰ながら人を支えることです。ラテン語の「選ばれた葡萄」は「接木用の葡萄の木」を意味します。私たち自身は背伸びしなくても、無理に善人に成らなくても良いのです。弱さを抱え、挫折に塗れた私たちを、主は「そこがいいんじゃない!」と御身に接ぎ木してくださるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2017年04月04日

4月第2主日礼拝(棕梠の主日、受難週)

       4月 9日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 わたしがあなたを選んだ=@音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 15章11〜17節(p.199)
讃 美 歌  27、576、490、498、542、89
交読詩編  詩編150編1〜6節(p.167)

・・・当日の音声録音を聴く
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2017年04月03日

蛇のように、鳩のように【マタイ10:16〜23】

聖句「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(10:16)

1.《レミゼ》 ユーゴーの『レ・ミゼラブル』には、グランテールという学生が登場して「如何に白百合が鳩の悪口を叩くか」「狂信者は蛇よりも有害だ」と演説する場面があります。白百合はフランス王室の国璽ですが、蛇や鳩と共に聖書に所縁の深い象徴です。要するに「目糞、鼻糞を笑う」なのです。思えば、丹羽文雄の『蛇と鳩』も宗教の二面性を言い表わす題名だったのです。

2.《蛇と鳩》 文語訳では「蛇のように慧く」と訳されています。「物事の本質を見抜く心の鋭さ」です。実際、熱線暗視装置「ピット器官」を持ち、闇世の中でも獲物の位置や形状を正確に捉えることの出来る蛇もいるのです。赤外線情報と視覚情報とを統合できるのです。あらゆる生物の中で、鳩は色検知能力が最も優れているそうで、人間の「三原色」に対して「20原色」を持っているとされています。バッハとストラビンスキーを聴き分け、ピカソとモネを見分けた実験結果もあります。蛇が邪悪で狡猾、鳩が柔和で素直と、善悪の区別は必要ありません。どちらが優れているのでもありません。等価値なのです。

3.《狼と羊》 「蛇のように賢く」とは、暗闇の中でも獲物を捉える蛇の認識能力の高さです。「鳩のように素直に」とは、ワインを水で割らないストレートの意味です。いずれも現実認識です。もう1つ「羊のように」と言われています。羊は旧約聖書以来「信仰者」の象徴です。4つの動物は全て複数形で表現されています。社会という「大きな群れ」の中で、教会のような「小さな群れ」は如何にあるべきかと教えられているのかも知れません。私たちを取り巻く社会も「狼の群れ」のように残酷で、油断なりません。「狼の群れ」のような世の中ですが、主が羊飼いとして私たちを守り、導いて下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2017年04月01日

旭日亭菜単(続き)その37

  • 「ヒストリエ」第10巻(岩明均作、講談社)
    対アテネ・テーベ同盟軍のカイロネイアの戦いです。ここまで引っ張った割りには、戦闘そのものは、あっさりと終わります。アレクサンドロス王子の「撫で斬り駆け」、敵陣背後から単騎で、数人ずつ敵の槍兵を斬殺しながら、馬で走り抜けるのですが、岩明らしく切断された首や顔半分が飛ぶ瞬間の「切り株」系描写が満載です。ダミアン・ハーストの美術作品とか好きなのでしょうね。それにしても、岩明はアレクサンドロスを「壊れた人間」として描くつもりなのでしょう。あの斜視のようになった両眼は『ヘウレーカ』のハンニバルの目と同じでしょう。マケドニアの長槍歩兵が反撃に転じる場面、突き出した槍の穂先がブニュッと歪んで見える構図は感動的ですらあります。
  • 「逆行の夏/ジョン・ヴァーリイ傑作選」(ジョン・ヴァーリイ著、浅倉久志他訳、ハヤカワ文庫)
    原子力災害後の世界、視聴覚障害者のコミューンでの生活と交歓を丁寧に描いた「残像」、月の周回軌道に浮かぶ娯楽施設「バブル」を舞台に、人体補綴装置「ボディーガイド」を装着した女性の愛と性、その恋人の共苦と別れを描き切った「ブルー・シャンペン」、この2作が圧巻でした。重度のハンディキャップを持つ人が体験する世界観、それを共有した時に生まれる認識の変化、それが、そのままSFとして昇華されているのです。巻末の「PRESS ENTER■」も、朝鮮戦争での捕虜体験の後遺症に苦しむ初老の男と、ポルポトの大虐殺を生き残って米国でPCプログラマー(ハッカー?)になったベトナム人の女性との恋愛ですが、一種の異文化間コミュニケーションとして読みました。表題作も含めて、異質な者たちと交流した時に生まれる意識変革が共通テーマです。表題作以外は、どの作品も、結末は苦々しい味わいです。しかし、それこそが人生の、この世界の現実なのです。それにしても、後を引き摺るなあ…。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第11巻(カガノミハチ作、集英社)
    東ヌミディア王国のマシニッサが、カルタゴ(ハンニバル)側からローマ(スキピオ)側へと転向する重要な展開。そして遂にアフリカに渡ったスキピオ軍団が、西ヌミディアのシュファックス、カルタゴのジスコーネの連合軍を撃破します。少し気になったのは「ドドドドッ」と歩兵が進撃する会戦場面など、明らかな手抜き画が混じっていますね。緻密な画を描く作者だけに気になってしまいます。
  • 「ゴールデンカムイ」第10巻(野田サトル作、集英社)
    詐欺師の鈴川聖弘は『クヒオ大佐』で知られる実在の結婚詐欺師がモデルでしょう(北海道網走の出身だしね)。『リング』の貞子の母親のモデル、千里眼の御船千鶴子も(三船千鶴子として)、「三十年式小銃」の開発者として有坂成章も(有坂成蔵として)登場します。名前が微妙に改変されているのは、飽く迄もフィクションということでしょう。それにしても、このマンガのキャラ、新撰組の土方歳三、永倉新八は幕末、脱獄王の白鳥由栄(白石由竹)は戦後、「クヒオ大佐」は70〜90年代と、時代を無視していますので、既に伝奇物としては破綻しているのです。鶴見中尉の片腕、薩摩隼人の鯉登少尉が登場、「ちんちんぬきなっもしたなぁ」に始まる薩摩弁の応酬は面白かったです。
  • 「あまたの星、宝冠のごとく」(ジェイムズ・ティプドリー・ジュニア著、伊藤典夫・小野田和子訳、ハヤカワ文庫)
    ティプドリー・ジュニアの作品集だけに、どの作品も一捻り二捻りしてあります。「悪魔、天国へいく」は、神の訃報を受けて天国を弔問したルシフェルが、天国再建計画をペトロと話し合ったりします。勿論『聖☆おにいさん』のように、ほのぼの路線に流れたりはしません。異星生物とのコンタクトを描く「アングリ降臨」も「いっしょに生きよう」も「天使もの」の一種と見て良いでしょう。本の題名からして、聖母マリアを讃える表現です(イヤミのつもりでしょう)。祈りを聴いてくれないキリストへの苦言もあります。「雀はもうずいぶん長いこと、顧みられることもなく、地に落ちつづけている」「彼≠ヘかなり耳が遠くなっていて、とくに女性や子どもの高い、かぼそい声が聞こえにくい状態だ」…。但し、彼女にかかれば、エコロジストもフェミニストも、宗教者も理想主義者も木っ端微塵です。貧困女性たちが私生児の赤ん坊をセンターに引き渡す「肉」、ブルジョワ娘への嫌悪だけで書かれたと思しき「もどれ、過去へもどれ」、少女向けファンタジーの悪意に満ちた改変「すべてこの世も天国も」…。夢も希望も情け容赦なく打ち砕いてくれます。やはり、私としては、薬物依存症兵士の復讐物語「ヤンキー・ドゥードゥル」が最も重いボディブローでした。
  • 「洋ピン映画史/過剰なる「欲望」のむきだし」(二階堂卓也著、彩流社)
    半年前に同じ彩流社から出た『ピンク映画史』の姉妹編です。長澤均の『ポルノ・ムービーの映像美学』が綿密な分析による研究書であるとすれば、二階堂先生の本は同時代を伴走した人による証言集でしょう。「洋ピン」とは、外国のポルノ映画を映倫の検閲を通すために、輸入した配給会社が自ら削除、ベタ加工、ボカシ、トリミング、マスクがけ等の処理を施して、改変された代物のことです。結果的にハードであれソフトであれ、日本のピンク映画のような作品が出来上がるのです。かの『ディープ・スロート』に至っては、更にピンク映画の向井寛監督が追加撮影をして(2千万円もかかったとか)、1時間分のフィルムを継ぎ足して日本公開版を完成させたのです。レイモンド・バー主演の『怪獣王ゴジラ』の比ではありません。私も「別冊スクリーン」の愛読者でしたから、70〜80年代の作品紹介には、胸がときめきました。最近では、結構、ネット上でノーカット版が鑑賞できる作品もあったりして、すると、あの時代の「洋ピン」って何だったのよ!?と…。まるで鎖国時代の出島みたいです。
  • 「プリニウス」第5巻(とり・みき+ヤマザキマリ作、新潮社)
    無頭で胸に顔のあるブレミュアェ族、蛇人間ヒマントポデスも登場。と言っても、放浪の瘋癲老人の世迷言としてですが…。老人の語るパルミュラの風景は、星野宣之の『妖女伝説』で経験済みですが、一瞬でも出て来るのは嬉しいです。そして、シチリア島に上陸したプリニウス一行は、ストラボネ山の噴火に遭遇するのでした。昔、ロベルト・ロッセリーニ監督、イングリッド・バーグマン主演の『ストロンボリ/神の土地』という映画を観たことがあります。それにしても、ウミウシ、恐るべし。
posted by 行人坂教会 at 13:32 | 牧師の書斎から