説 教 わたしが働く理由=@

聖 書 ヨハネによる福音書 5章9b〜18節(p.172)
讃 美 歌 27、576、490、370、196、89
交読詩編 詩編150編1〜6節(p.167)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。」(9:50)
1.《ソルトシェーカー》 1991年、大相撲が英国巡業をした時、派手な塩撒きから「ソルトシェーカー」と呼ばれたのが水戸泉です。勝ち星に恵まれない時、付き人から「せめて塩だけでも景気良く撒いたら?」と勧められたのが始まりです。青葉城、朝乃若、北桜、将司、高見盛…現役では旭日松の塩撒きが見事です。1興行で650キロ、軽乗用車1台分もの塩が用意されるそうです。
2.《塩味の付いた関係》 私たちの生活に塩は無くてはなりません。食べ物の味付けや保存にも必要ですが、塩の採り過ぎも体に良くありません。塩は私たちの生き死にに関わるのです。「エゼキエル書」を読むと、生まれたばかりの赤ん坊の体を塩で擦って殺菌する描写があります。塩は、生まれて初めて人間が触れる神の祝福と聖別の徴だったのです。「塩の契約」という語も、時を経ても塩味が変わらないことから「変わらぬ友情」の証でした。それ故に「自分自身の内に塩を持ちなさい」と「互いに平和に過ごしなさい」という勧めが繋がるのです。塩で結ばれた関係は裏切らない、心変わりしない、手の平を返さないのです。
3.《身を削って生きる》 イエスさまは弟子たちに「あなたがたは地の塩である」と宣言されました。当時、イエスさまの下に集まって来た人たちは、特別な人たち、社会的に影響力のある人ではありませんでした。そんな彼らに「地の塩」としてのアイデンティティを与えられたのです。しかし、折角の塩も「潮解」して塩気を無くしてしまうことがあります。私たちに与えられた塩味を自覚して、且つ発揮せねばなりません。塩の1匙がケーキの甘さを引き立て、ニガリが豆腐を豆腐たらしめるのです。岩塩はその身を削って(少量で良いのですが)、周りを生かして行くものです。それでこそ価値があるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(21:9)
1.《魚アンケート》 最近の子どもは魚料理を嫌う印象を受けますが、回転寿司は大好きです。但し、彼らの好むネタはエビ、マグロの赤身、イクラ、サーモン、トロ、ツナ等で、煮つけや焼き魚など論外なのです。食育アンケート調査によると、給食で嫌いなメニューは「魚全般」が断トツのトップ。その理由は「骨がある」「食べるのが面倒」「食べるのに時間がかかる」でした。
2.《漁師率の高さ》 12人の弟子のうち半数が漁師だった可能性があります。神殿に奉げる犠牲は肉と小麦が中心でした。つまり、聖書の民の食生活は肉とパンが中心だったのです。しかし、旧約聖書に比べると、新約聖書には「魚」が頻繁に登場します。イエスさまは「魚好き」だったのかも知れません。この箇所には「153匹もの大きな魚」と、妙にリアルな漁獲量が挙げられています。153は「三角数」で、各桁を三乗して足すと153です。3で割り切れる数字でも同じ計算を続けると153に成ります。153とは、当時の地中海で知られていた「全ての魚の種類」を表わしているという説もあるのです。
3.《オプサリオン》 イエスの名前も「ヌン(魚)の子ヨシュア」、ギリシア語の「魚」は「イクテュス」で「イエス・キリスト、神の子、救い主」の暗号として使われました。ここで「イクテュス」は「大きな魚」と訳されています。イエスさまが炭火焼きにしているのが「オプサリオン/小さな魚」です。干物か何かでしょう。「何か食べ物はあるか?」と尋ねる主に、弟子たちは「ねぇよ!」と無情な返答でした。それなのに、イエスさまは弟子たちのために食事を準備して下さるのです。「153匹もの大きな魚/大漁」の「大きな物語」に目を奪われがちですが、真の奇跡は「小さな魚」にあったのです。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…わたしがあなたがたを任命したのである。」(15:16)
1.《チャンネル》 ふと気付くと、リモコンを手にチャンネルを回し続けていることがあります。商品展示の仕方でも、商品が多過ぎると、お客は選ぶのを諦めて、何も買わずに出て行ってしまうそうです。選択肢が多過ぎると、却って迷いや思い煩いが増えるのです。人生、何をどう選択したところで挫折や不調が待ち構えています。その意味では「置かれた場所で咲きなさい」です。
2.《選ばれた私》 私自身も「牧師をやめよう」「クリスチャンやめたい」と血迷うことが何度もありました。取り返しのつかない失敗をしたり、自分の不甲斐無さに直面すると、信仰もガタガタです。しかし、「私があなたを選んだ」の御言葉に支えられています。「なぜ私などが?」との疑問が消えて無くなる訳ではありません。むしろ、それを自身への問い掛けとして、引き受けて生きるのが信仰生活ではないでしょうか。「選ぶ/エクレゴー」とは、適当な選択ではなく、イエスさまの一押しの「大抜擢」「引き抜き」なのです。
3.《接ぎ木の枝》 何のために「選ばれた」のかと言えば、「実を結ぶため」です。葡萄の枝は根や幹から離れた所に「出て行って」実を結んでいます。「紐付き」ではなく、私たちの自由意志や自主性が大切なのです。求められているのは「祈りの業」と「愛の業」です。新約聖書の言う「実り」とは、人に精神的道徳的な変化をもたらし、陰ながら人を支えることです。ラテン語の「選ばれた葡萄」は「接木用の葡萄の木」を意味します。私たち自身は背伸びしなくても、無理に善人に成らなくても良いのです。弱さを抱え、挫折に塗れた私たちを、主は「そこがいいんじゃない!」と御身に接ぎ木してくださるのです。
朝日研一朗牧師