説 教 酔ってなんかいません=@

聖 書 使徒言行録 2章1〜16節(p.214)
讃 美 歌 27、135、490、406、346、75、25
交読詩編 詩編99編1〜9節(p.112)
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 | 31 |
標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(2:13)
1.《見栄が晴れる》 往年のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!』では、萩本欽一と真屋順子演ずる夫妻は長男に「見栄晴」と名付けます。あたかもバブル景気の到来を予言するような名前です。日本人はマモンに魂を売り渡し、大いに見栄を張って、ブランド物を買い漁りました。しかし、彼の名前は「見栄を張る」のではなく「見栄」という霧が「晴れる」の意味でした。
2.《盛装と普段着》 「見栄」は他人の目を意識して、自分を取り繕うことです。都市生活は「見栄」なくしては考えられません。都市化とは「見栄」が増大することです。しかし、お洒落や身嗜みも大切です。教会にも「盛装の礼拝」があります。主の御前に出るから一張羅を着て行くのです。「普段着の礼拝」を主張する人もいます。御前に出るのだから自然体でと考えるのです。大切なのは、私たちに「神の御前に出る」という意識があるかどうかです。聖フランシスコは「裸のキリストに裸で従え」と教えました。人目ではなく、主の御眼差しを意識しましょう。ドレスコードはありませんが、聖書が教会のコードです。
3.《ベンチシート》 最も大切なのは「隣人愛」の律法です。「人を分け隔てしない」ことです。しかし、「ヤコブの手紙」の時代には、既に身なりで人を偏り見る出来事が教会の中でも頻発していたのです。「サマリア人の譬え話」では、サマリア人が旅人に「憐れみをかけた」ことが、即ち「隣人に成った」ことだと、イエスさまが教えて居られます。漢字の通り「憐れみ」の心が、その人の傍らに押し出して「隣人」と成るのです。実際に悩み苦しむ人の横に座るのが「隣人」です。多くの教会の礼拝堂がベンチの座席を採用しているのも同じ理由です。見知らぬ他人、仲の悪い者とも同席することが出来るのです。
朝日研一朗牧師
聖句「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(8:25)
1.《希望という名》 1970年、シャンソン歌手の岸洋子が「希望という名のあなたを訪ねて…」と歌って大ヒットしました。その頃から、親が子に「希望」を意味する名前を付けるようになりました。名付けは、新しく生まれた子に親が託す願い、親の祈りです。「信じる」「愛する」に比べると地味ですが、「望む」という価値観も、徐々に日本社会に浸透しつつあるのです。
2.《主を待ち望む》 親子の路線対立が表面化するのは、ズッと後の話で、誕生直後には、親も子を純粋な「希望」として抱き締めます。手塚治虫は90年代の講演で「子どもは未来人」というスローガンを広めました。しかし、ロシアの教育学者ソロベイチクは、80年代の著作で、子どもは我々の未来ではあるが、人としては成熟していないので、未来人にする責任、未来を用意する責任は我々にあると言っています。ヘブル語では「希望/ティクヴァー」は「待ち望む/カーヴァー」から来ています。希望とは待ち望むことです。ぼんやりした未来志向ではなく、主の救い、主の平和、御心の実現を待ち望むことなのです。
3.《産みの苦しみ》 新約聖書で「希望」を考える場合、「苦難」が前提になっています。希望は「現在の苦しみ」から生まれているのです。人間だけではなく全ての被造物が「虚無に服し」「呻き」「苦しんでいる」のです。但し、この苦しみは「産みの苦しみ」です。それ故に「希望」なのです。しかも、独りでは無く「共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」のです。「信・愛・望」は観念ではなく「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」です。現代は、誰にとっても生き辛い時代ですが、私たちが「目に見えないものを望むなら」、それは「産みの苦しみ」であると分かるはずです。主は贖って下さいます。
朝日研一朗牧師
聖句「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を…信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(1:5-7)
1.《引き算の文化》 欧米の語や文化が「足し算」であるのに対して、日本語や日本文化は「引き算」だと言われます。日本料理や武道、礼儀作法など無駄なものを削ぎ落として行きます。しかし、単なる美意識だけではなく、そこには哲学や理念もあるのです。世阿弥の言うように、美は移ろい易いものですが、「まことの花」は咲き続けているのです。これを私たちは「信仰」と言います。
2.《サプリメント》 実は、日本は「足し算の文化」でもあるのです。それこそ「和」と言われる通りです。ピュタゴラス学派の「ハルモニア・ムンディ/世界の調和、天球の音楽」にも通じます。英訳聖書は「加えなさい」を「サプライ/不足を補う」としています。近代以降、私たちの聖書の読み方は個人主義的、自己完結的に成り過ぎてしまい、教えを独りで達成しよう等と思うから無理があるのです。「あなたがたは…」と書いてある通り、これはコミュニティに託された課題です。ここに挙げられた8つの徳目も、コミュニティ全体で担いながら、お互いに補い合うべきことなのです。
《教会はスープ》 スタートの「信仰」は教会生活、信徒生活です。「徳」は人柄の良さ、「知識」は神の御心を思い、受け取って行く心、「自制」は包容力、「忍耐」は苦難に遭っても耐える胆力、「信心」は悲しみに彩られた慈しみ、「兄弟愛/フィラデルフィア」と聞けば、ウィリアム・ペンの祈りや『ロッキー2』のロードワークを忘れる訳には参りません。「愛」は主の御声に応えて労苦することです。お互いがお互いを必要としているのです。そのために、主は私たちを「持ち込まれた」のです。その意味で、教会は「スープ」だと思います。いや、毎週注ぎ足しながら熟成させた「秘伝のタレ」でしょう。
朝日研一朗牧師
聖句「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠して置き、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(13:44)
1.《聖ロレンツォの夜》 イタリアのトスカーナ地方では、聖ロレンツォの聖日(8月11日)夜の流れ星に、愛する人のことを思って願い事をすると叶うと言います。その流れ星は「聖ロレンツォの涙」と呼ばれています。その日は、ローマのラウレンティウス(聖ラウレンチオ助祭)の殉教日とされています。人々は彼の殉教の苦しみを偲びつつ、願い事も託したのです。
2.《聖ロレンツォの涙》 3世紀前半、ローマ教皇に使える筆頭執事に取り立てられたラウレンティスは教会の財務を担当していました。しかし、皇帝の迫害により教皇が斬首され、難を逃れたラウレンティウスも、教会財産を皇帝に差し出すように命じられます。ラウレンティウスは、体の不自由な人たち、病気の人たち、貧しい人たち、年老いた人たちを大勢伴って、皇帝の前に行き、「この人たちこそが教会の宝です」と訴えるのです。『黄金伝説』によると、「この人たちの手が、宝を天国に運んで行く」という言葉もあります。「宝/テサウロス」とは古代の「貯金箱」で、持ち主が地中に隠して置くのが常でした。
3.《宝物を受け継ぐ人》 「畑に宝が隠されている」のを発見した人は小作人の農夫です。その喜びは彼に「持ち物をすっかり売り払う」という人生の大転換をもたらします。「宝」は畑の収穫物(業績)とは無関係です。私たちは業績に価値があると勘違いしていますが、それは人間の価値付けに過ぎません。やがて朽ち果てるか燃える炉に投げ込まれるのです。折角、父親が畑に宝を隠していたのに、それに気付かぬまま、相続した畑を売ってしまった馬鹿息子の話として読むことも出来ます。私たちが生きて行くために大切なのは何でしょうか。業績や貨幣価値とは異なる人生の価値を、若い世代に伝えて参りましょう。
朝日研一朗牧師