説 教 ここに私がいます=@

聖 書 イザヤ書 6章1〜8節(p.1069)
讃 美 歌 27、128、226、519、76、26
交読詩編 詩編143編1〜6節(p.160)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「あなたを他の者たちよりも、優れた者としたのは、誰です。一体あなたの持っているもので、頂かなかったものがあるでしょうか。」(4:7)
1.《牧師就任式》 各地の教会で新任牧師の就任式が行なわれる季節です。私が祝電に書き添えるメッセージに「比較は友人を敵となす」があります。紀元前3世紀の劇作家、フィレモンの言葉です。前任者と比べて論評されるのは不愉快であるばかりか、その人固有の人生や人格を否定して、物象化することです。その人が取り替えの利かない人であると感じる、それが愛と信頼です。
2.《地道な働き》 アポロは、パウロよりも先にエフェソやコリントで伝道活動に当たった人物です。特にコリントでは大きな働きをしたらしく、熱烈な支持者がいたようです。後から来たパウロは、雄弁家として知られるアポロと比較されて、かなりの屈辱を味わったようです。家族と同じく、教会もまた、信仰を同じくする者たちの共同体ですから、愛と信頼によって支えられています。そこに比較による相対評価が入ることは、即ち、共同体としての破綻を意味します。また、カリスマ的な存在が去った後、個人崇拝に傾いた在り方を本筋に戻して、始末をするのは、骨の折れる割りに目立たない地味な仕事なのです。
3.《人間の真価》 パウロはコリントの人たちに「人と人とを比べて、高ぶることのないように」と勧告しています。自分は棚に上げて、他人の値踏みをしている時、私たちは高慢に成っているのです。また、私たちは自らを特別な存在だと思いたがる悪い癖があります。しかし、他の人たちより優れた所はなく、あったとしても、それは神さまからの頂き物、貰い物、いずれお返しする借り物に過ぎません。神さまから見たら、私たちは皆「他人の褌(ふんどし)で相撲を取っている」ようなものです。高慢ちきを捨てた時、神さまから一人一人に与えられている、掛け替えの無さ、人間の真価が見えて来るのです。
朝日研一朗牧師
聖句「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」(3:22,23)
1.《ラメント》 「哀歌」を「ラメント」と呼ぶのはラテン語の題名から来ています。クラシックにもポップスにも「ラメント/哀歌、悲歌」と題された曲があります。「エレジー」とは何が違うのでしょうか。マンガ家の田亀源五郎は「主体における悲しみを歌うのがエレジー、それに対して、客体への悲しみの情感を歌ったのがラメントではないか」と分析しています。
2.《死屍累々》 「哀歌」は5章、5つの詩から構成されていますが、第3章以外は「バビロン捕囚」時代の作品です。その内容もバビロニアに攻め滅ぼされて廃墟と化したエルサレムの情景、それに先立つエルサレム攻囲(籠城)の期間に、餓死した子どもたち、その肉を食べる母親の凄まじい姿、死屍累々たる情景が描かれています。「何故?」という疑問詞で始まりますが、「ああ」「あゝ哀しいかな」とも訳される語です。大きなショックやダメージを受けた時、私たちも「どうして!?」と漏らしますが、納得できる答えが得られると思ってのことではありません。思わず知らずに口を突いて出る呻きなのです。
3.《エレジー》 大石芳野の写真集『戦争は終わっても終わらない』を思い出しました。直接被害を受けなかった人は忘れてしまうのです。しかし、戦争や犯罪や災害を現在も続く出来事として生きている人もいるのです。どうして「哀歌」第3章だけに「個人の嘆きの歌/エレジー」が挿入されているのか、不思議でした。個人的な苦難の体験を民族的な苦難と結び付け、歴史上の苦難から自分の人生の苦難を見詰め直す作業をしているのです。更には、神の慈しみと憐れみの大きさが、その苦難を包み込んでくれるのです。私たちが「真実」に程遠い人間だとしても、神は「来る朝毎に」愛を「更新」されるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(2:15)
1.《大魔神!》 往年の大映の特撮映画に『大魔神』があります。時は下克上の戦国時代、所は丹波国、家老の大館左馬之助は主君に謀反を起こして、国主となりました。左馬之助は砦建設のために領民に過酷な労働を強い、山の武人像を破壊しますが、それが憤怒の形相の大魔神となって暴れます。最後には、娘の自己犠牲的な祈りによって魔神は怒りを鎮め、元の土塊に戻るのです。
2.《ゴーレム》 『大魔神』の元ネタは、戦前の独仏で何度も映画化された『巨人ゴーレム』です。時は17世紀の初め、所はプラハ、神聖ローマ帝国皇帝となったルドルフ2世は、ユダヤ人を迫害しゲットーに閉じ込めます。ユダヤの民は教会の隅にあるゴーレム像に救いを託しますが、像は警察長官によって略奪されて鎖で縛られます。獅子の咆哮を耳にしたラビの妻は、秘密の文字によってゴーレムを起動させます。ゴーレムは牢獄を破壊し、ユダヤ人を解放して、国家権力と戦うのです。虐げられた民のために暴君と戦うのも、ヒロインが鍵を握っているのも、使命を終えると土塊に戻るのも『大魔神』と同じです。
3.《土と人間》 墓から掘り出される『フランケンシュタイン』も含めて、これらの「人造人間」のモチーフは「創世記」の人間創造からの類推なのです。人間は神によって土から造られ、死んで土に返るのだと教えられているのです。宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』の中で、ヒロインのシータは「土から離れては生きられないのよ!」と叫びます。私たちは「天空の城」に住んでいる訳ではありませんが、土に触れずに生活しています。「土を耕す」は「土に仕える」と訳すべき語です。土を守り、土の世話をし、土から離れないで、いつか土に戻って行くことが、神から私たちに与えられた使命なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」(2:15)
1.《霊は神の息吹》 神さまとイエスさまが使徒たちに「約束されたもの」、それが「聖霊」でした。「霊」と言うと、私たちは怪しげなものを連想してしまいがちですが、ギリシア語の「プネウマ」もラテン語の「スピーリトゥス」も第一義は「風」です。聖霊とは神の息吹だったのです。風と同じく目に見えませんが、その響きや存在を魂で感じることが出来るものなのです。
2.《ガリラヤの人》 使徒たちが各地の多言語で福音を証するのを聴いて、人々は「なぜガリラヤの人たちが…」と言って驚きます。外国語なのに変な話です。14の言語が挙げられて、少数言語も大切にされています。お国言葉で直接に伝えたいというのが、神さまの何よりの願いでした。それ故、東北弁(ガリラヤ訛り)を感じ取ったのでしょう。外国語で喋っているのに方言を感じるということは、使徒たちが彼ら自身の言葉、取り繕わない人柄が聴いた人々の心に響いたからです。「聖霊に満たされ、霊≠ェ語らせるままに」と言っても、「憑霊」されて意識を乗っ取られているのでは無かったということです。
3.《聖霊を満たす》 「新しい葡萄酒に酔っているのだ」と片付けようとする人たちもいました。「新しい葡萄酒/グレウコス」とは「ムスト」、発酵途中の葡萄液です。発酵が進めば、アルコール分が11%の「どぶろく」にも成ります。ペトロは「酔ってなんかいません」と反論しますが、酔っている人に限って「酔っていない」と抗弁するものです。教会が生まれた日から、教会は世間から「酔っているんじゃないか」との謗りを受けていたのです。私たちも、折に触れて自己吟味するべきです。自己陶酔したり、思い込みに取り憑かれたり、自己主張や我欲の虜になってはいないでしょうか。14世紀の神秘主義者、タウラーは「空になった分だけ、私たちを満たす、それが聖霊の働き」と言います。
朝日研一朗牧師