2017年07月31日

網と舟と父親を残して【マタイ4:18〜22】

聖句「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(4:19,20)

1.《付いて来るかい》 町内会の夏祭りでは露天商の夜店が立ち並びます。小学校の低学年の頃、日暮れ前から会場で遊んでいた私は、たこ焼きの屋台の準備を手伝ったことがあります。ご褒美に最初に焼けた物を貰ったのですが、おじさんから「一緒に来るかい?」と言われたのでした。以後しばらく、各地を移動しながら露天商を営む自分の姿を妄想するのがマイブームでした。

2.《袖の触れ合うも》 イエスさまが「4人の漁師を弟子にする」場面ですが、如何にも行き当たりばったりに思われます。投網漁をしているペトロとアンデレの兄弟に唐突に「私に付いて来なさい」では付いて行けません。普通に考えれば先ず「豊漁か?」「景気はどうか?」と世間話から始まり、彼らの抱える生活苦や将来の不安が開陳され、主が福音を説かれた後に、この招きの言葉があるべしです。幾ら何でも出会い頭に「私に付いて来なさい」では「ハーメルンの笛吹き男」に操られてる子どもたちと同じです。その点「ルカによる福音書」は挿話の順番を入れ替えることで、誰もが納得できるように再構成しています。

3.《有無を言わさず》 改めて「マタイによる福音書」に目を転じると、ドラマ展開のプロセスに何の関心も抱いていません。イエスさまが「さあ来い、俺の後ろに」と言い、弟子たちが付いて行ったという暴力的展開です。喧嘩上等のヤンキーのノリなのです。ヤコブとヨハネの兄弟は、網だけではなく、持ち舟も父親も船子も捨て去ります。非常識とも不人情とも思われますが、信仰の決断を迫られる時には、常識や人情を捨てても良いのです。仕事や生活(網と舟)、家族(父親)を何よりも大切にしていますが、それは永遠でも究極でも無いのです。いつか、主の召命に応えてお別れする時が来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から

麺@ワーク

7月30日(日)、礼拝後の“麺@ワーク”です。

みんなで美味しい冷や汁とお素麺を頂き、楽しくペンキ塗りをしました。

麺@ワーク
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2017年07月25日

7月第5主日礼拝

       7月30日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 網と舟と父親を残して=@音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 4章18〜22節(p.5)
讃 美 歌  27、128、490、52、513、26
交読詩編  詩編143編1〜6節(p.160)

・麺@ワークT      礼拝後      階下ホールに集合
焼きソバを頂いた後、礼拝堂玄関、記念室の扉の補修、塗り直しをします。

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2017年07月24日

天使と野獣【マルコ1:12〜13】

聖句「イエスは40日間そこに留まり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(1:13)

1.《美女と野獣》 2017年上半期最大のヒット映画は、ディズニーの実写版『美女と野獣』です。この物語には、愛と信頼の人間関係があって初めて、人間性が回復されるというテーマがあります。さて、野獣の正体ですが、アニメ版で野獣のキャラクターをデザインしたグレン・キーンは「神がこの世に創造された生き物の中から、様々な動物を合成して作り出した」と発言しています。

2.《悪魔と動物》 イエスさまがサタンと対決する「荒れ野の誘惑」の場面ですが、悪魔との問答がありません。その代わりに、イエスさまと共に「野獣」がいるのです。詳しい描写が無いまま、唐突に「野獣」が登場するので、私も長い間この「野獣」を「悪魔」自身か「サタン」の使い魔のように錯覚していたくらいです。「野獣」と訳されている「テーリオン」は「テール」の指小語です。「テール」は「猛獣、凶暴」ですから、間違いなく獰猛な肉食獣です。しかし、イエスさまと一緒にいると、熊も小熊のように、狼も赤ちゃん狼のように、ライオンも赤ちゃんライオンのように成っているのです。

3.《天使の奉仕》 主がサタンから苦難を受けられた時、野獣たちが共にいたのです。その光景はキプリングの『ジャングル・ブック』、手塚治虫の『ジャングル大帝』、釈迦の「涅槃図」と同じです。「イザヤ書」11章のメシア預言の成就なのですが、私たちが悲嘆する時、ペットの動物が無言のまま見守っていたことも思い出されます。天使たちが「仕えていた」とは、主に食事を供えていたという意味です。私たちの奉仕は、結局、この2つに尽きるのです、即ち「荒れ野」に置かれた人に食事を運び続けるか、それとも共にいて見守るか。しかも、本当の奉仕は私たち自身の人間性を回復することでもあるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:51 | 毎週の講壇から

2017年07月18日

7月第4主日礼拝

       7月23日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 天使と野獣=@音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 1章12〜13節(p.61)
讃 美 歌  27、128、490、142、284、26
交読詩編  詩編143編1〜6節(p.160)

・讃美歌練習(8月の月歌:554番) 礼拝後     礼拝堂

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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年07月17日

主の言葉は響き渡る【Tテサロニケ1:2〜10】

聖句「主の言葉があなたがたの所から出て、マケドニア州とアカイア州に響き渡った…ので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」(1:8)

1.《ノイズ》 礼拝説教が佳境に入った時に、折り悪く、教会の側をちり紙交換車がアナウンスをしながら通り、苦笑せざるを得ないことがありました。選挙カー、右翼街宣車、ちり紙交換、移動販売車など、英語では「sound trucks/音響トラック車」と言いますが、日本独自の文化です。「騒音」の対語は「清音、楽音」と言いますが、騒音か否かは、個々人の快不快に左右されます。

2.《コール》 美しい音楽も歌声も「聞きたくない」人にとっては騒音です。世間でも「子どもの声は騒音か、それとも希望の響きか」は大きなテーマと成っています。テサロニケの信徒たちの「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」はマケドニアとアカイアに「響き渡っている」とパウロは言います。「主の言葉は響き渡る」という言い回しは「詩編」19編2〜5節から採られています。「響き」はヘブル語で「コール」、ラッパの響きも雷鳴の轟きも、声や音色も「コール」です。サイモン&ガーファンクルのヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」も「その声も聞こえないのに/その響きは全地に普く」から来ているのです。

3.《神の声》 何万人もの人々が暮らしている都会生活では、言葉も歌も大量に消費されて行きます。話していても、互いの気持ちが通じ合うことは思いの他、少ないのです。喧騒と音響が溢れているのに、意味のある音が受け止められません。しかし、昔の人は空を仰ぐだけで神の御言葉を思ったのです。パウロの「あなたがたの信仰が至る所で伝えられている」は、メディアの無い時代、大袈裟かも知れません。しかし、教会の人たちは覚えて祈っていた。「知る人ぞ知る」のです。また、神さまさえ御存知ならば、誰からも知られなくても良いのです。何しろ、信仰とは「神のみぞ知るセカイ」なのですから。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2017年07月11日

7月第3主日礼拝

       7月16日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 主の言葉は響き渡る=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  テサロニケの信徒への手紙T 1章2〜10節(p.374)
讃 美 歌  27、128、490、54、457、26
交読詩編  詩編143編1〜6節(p.160)


・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年07月10日

神の国は、飲み食いではなく【ローマ14:13〜23】

聖句「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(14:17)

1.《ハラール》 イスラム圏から来日する観光客の増加と共に、イスラム法に照らして食べても良いと認定された食材の専門店、ハラール料理を提供する店が出て来ました。その認証を与える協会も含めて「ハラルビジネス」と言います。しかし、ハラールも実際には、国と民族と文化による温度差、意識の個人差もあり、食物タブーを厳密に守っていられない状況もあるのです。

2.《棲み分け》 「ローマの信徒」たちは「ヘレニスト」(ギリシア語を母語ととして外国で暮らすユダヤ人)に「異邦人」も加わる混成集団でした。文化的、宗教的背景も異なります。しかし、そのような人たちが共に集まって礼拝を守っていたところに活気が溢れていたのです。米国キリスト教史を学ぶと、移民は宗教集団であり、各民族、各宗派ごとに棲み分けがあることに気付きます。しかしながら、パウロの時代のキリスト者の集まりには、未だ棲み分けはなかったのです。当然そこに衝突も生まれます。にもかかわらず、それでも礼拝を共にして行ったところに、パウロの果たした役割があったのです。

3.《愛に従う》 当時の礼拝は、食事を共にしながら祈り、賛美し、キリストを記念したのです。食事が各自持ち寄りだったのか、給食だったのか、会場の主催者提供だったのか定かではありませんが、戒律を守る人の前に禁忌とされた食材を置くのは、如何にも愛がありません。一種のハラスメントです。それ故、パウロは「神の国は飲食にあらず」と叱っているのです。ところで、イエスさまは反対に「神の国は大宴会」と仰っています。主の慈悲に限りが無いことに気付く日が来ます。その日には、私たちが選んだものも拒んだものも、全て与えられることでしょう(映画『バベットの晩餐会』より)。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から

2017年07月04日

7月第2主日礼拝

       7月 9日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 神の国は、飲み食いではなく=@音楽 朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 14章13〜23節(p.294)
讃 美 歌  27、128、490、129、487、26
交読詩編  詩編143編1〜6節(p.160)

青空カフェ    礼拝後      玄関バルコニー

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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年07月03日

ここに私がいます【イザヤ6:1〜8】

聖句「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。…わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」(6:8)

1.《セラフィム》 かつてカトリックのミサでは「サンクトゥス/聖なるかな」の「三聖唱」の合図に、鈴を鳴らして注意喚起したそうです。礼拝の中心だったのです。聖書の中では「セラフィム」という天上の生き物が歌います。5世紀のシリアの神学者、偽ディオニシオス・アレオパギタによれば、全9段階の「天使の位階」の最上位にあって主に仕える天使とされています。

2.《声を聴く心》 「イザヤの召命」は、紀元前739年とされています。預言者を待ち受けるのは、アッシリア帝国の勃興による未曾有の国難です。モーセと同じく、イザヤも主の召命を辞退しようとします。しかし、熾天使セラフィムによって清められて、御前に召し出されるのです。昨今「得意を仕事に」のキャンペーンが盛んですが、預言者も使徒も得意だから成っていません。むしろ、自分の得手不得手、好き嫌いを超えたところで、神に召されることを「召命」と言います。この「召命」という語は、ギリシア語でもラテン語でも「天職、職業」の語源なのです。大切なのは、神の呼びかけを聴き取るか否かです。

3.《自分の仕事》 御声を聴いたイザヤは「ここにいます」と応えます。「ああ」「見よ」という感嘆語に通じる語です。「お遣わし下さい」はギリシア語では「使徒」に通じます。躊躇し不安を抱きながらも引き受けたのです。好きな事だけやっているのは子どもです。哲学者の内田樹は、「自分の仕事」ではない「みんなの仕事」を、敢えて「自分の仕事」として引き受けるのが、おとなの生き方だと書いています(『街場の共同体論』)。旧約の預言者たち、新約の使徒たち、そして誰よりイエスさま(十字架!)こそは、そのようにして自分の人生に、神の御旨を引き受けて行った人たちだったのではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から