聖句「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(4:19,20)
1.《付いて来るかい》 町内会の夏祭りでは露天商の夜店が立ち並びます。小学校の低学年の頃、日暮れ前から会場で遊んでいた私は、たこ焼きの屋台の準備を手伝ったことがあります。ご褒美に最初に焼けた物を貰ったのですが、おじさんから「一緒に来るかい?」と言われたのでした。以後しばらく、各地を移動しながら露天商を営む自分の姿を妄想するのがマイブームでした。
2.《袖の触れ合うも》 イエスさまが「4人の漁師を弟子にする」場面ですが、如何にも行き当たりばったりに思われます。投網漁をしているペトロとアンデレの兄弟に唐突に「私に付いて来なさい」では付いて行けません。普通に考えれば先ず「豊漁か?」「景気はどうか?」と世間話から始まり、彼らの抱える生活苦や将来の不安が開陳され、主が福音を説かれた後に、この招きの言葉があるべしです。幾ら何でも出会い頭に「私に付いて来なさい」では「ハーメルンの笛吹き男」に操られてる子どもたちと同じです。その点「ルカによる福音書」は挿話の順番を入れ替えることで、誰もが納得できるように再構成しています。
3.《有無を言わさず》 改めて「マタイによる福音書」に目を転じると、ドラマ展開のプロセスに何の関心も抱いていません。イエスさまが「さあ来い、俺の後ろに」と言い、弟子たちが付いて行ったという暴力的展開です。喧嘩上等のヤンキーのノリなのです。ヤコブとヨハネの兄弟は、網だけではなく、持ち舟も父親も船子も捨て去ります。非常識とも不人情とも思われますが、信仰の決断を迫られる時には、常識や人情を捨てても良いのです。仕事や生活(網と舟)、家族(父親)を何よりも大切にしていますが、それは永遠でも究極でも無いのです。いつか、主の召命に応えてお別れする時が来るのです。
朝日研一朗牧師