説 教 人を見る目、神を見る目=@

聖 書 ヘブライ 11章23〜31節(p.416)
讃 美 歌 27、20、490、186、458、78、29
交読詩編 詩編147編1〜11節(p.164)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』 こうして、光があった。」(1:2,3)
1.《ワンタン》 ワンタンの起源は華北料理の「餛飩/フントゥン」です。遣唐使の上陸した蘇州では「ウンドン」、目的地の長安では「ホエトエ」と発音しました。「うどん」「ほうとう」です。「餛飩」は「渾沌、混沌/フンドゥン」に通じます。中国の創造神話では、元始天尊が原初の混沌から天地を創造したとされています。しかも、その記念日はクリスマスと同じく冬至なのです。
2.《空虚混沌》 かつては「地は形なく、むなしく」と訳されていました。「漢訳聖書」の「地乃虚曠/地は即ち虚ろで曠しく」から来ているのでしょう。本来は「形の有る無し」は示唆されていません。ギリシア語「七十人訳」の「目に見えず、形が整っていない」から「形なく」が定番になったのです。しかしながら「ヘブル語聖書」の「トーフー・ワボーフー」は「空虚、虚無」という語の繰り返しです。「曖昧模糊」のように同語反復の熟語なのです。意外にも漢訳「和合本」の言う「地是空虚混沌」の「空虚混沌」に近いのです。「エレミヤ書」4章でも、神の秩序の崩壊が「大地は混沌とし」と預言されています。
3.《命の在処》 メンセンディーク宣教師が仙台青年学生センターの主事として、津波の被災地で仕分けのボランティアをしていた時、学生の「なぜ、神の物語は『混沌』で始まるのか?」との問い掛けが思い出されたそうです。「天地創造」は「神の御言葉による御業」と言われますが、「命令」ではなく「呼び掛け、語り掛け」だったのでは無いでしょうか。「光あれ」は「光であれ」と訳すことも出来るのです。認知心理学者の下條信輔の『まなざしの誕生』には「心を持つ者として扱われることによって、心は発生し成長する」とありました。神さまが語り掛けられた時、そこに「命」が生まれたのでは無いでしょうか。
朝日研一朗牧師
聖句「…生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように…」(1:20)
私をハンセン病療養所に追いやった3つの言葉
1.「わたしゃ、クリスチャンには随分いじめられたよ!」
1980年夏、好善社のハンセン病療養所ワークキャンプに初めて私が参加した時に、あるおばあさんから私に投げつけられた言葉。奈良で開拓伝道に燃える私に、「クリスチャンがいじめた」とは!頭が真っ白になった。戦後間も無くのキリスト教ブームの頃、米国のララ物資の配給をめぐって、クリスチャンが優先されたことによるトラブルが背景にあったようだ。衝撃から覚めた私は、「ああ、こういう言葉を聞くために、神は私をここに追いやったのだ」と妙に納得。キリスト教会とて内と外を分け隔てする。私はその罪びとの頭!ハンセン病者を外へと追いやった日本政府の加担者だと。
2.「消え去ることをもってその使命とする教会があることを、君は忘れるな!」
1985年、開拓伝道10年にして漸く会堂建設、献堂式の祝辞で、好善社の藤原理事長(故人)が言い放った。「君の教会はこれからも伸びてゆくだろう。でも消え去ってゆく教会がある。君はそれでいいのか」と。私は彼の命を受けて、毎月末に大島青松園キリスト教霊交会の講壇奉仕に14年間通うことになる。「消え去ることをもってその使命とする」の表現は誤解を生みかねない。ただ、それが現実。大島キリスト教霊交会は会員の減少により昨年その礼拝を閉じ、各療養所教会も同じ運命。
3.「ここも神の国です」
1990年2月、藤原理事長に同伴して、タイ国ハンセン病療養所を訪れた。東北部の
貧しい農村ながら、孫の世話をして家族と共に暮らす元患者の姿に心が和む。旅の最終日、バンコク郊外のプラパデン・コロニーを訪れた。そこはチャオプラヤ河の岸辺、海抜ゼロメートル地帯に作られたスラム、満潮時には水があふれて下水が床下を覆う劣悪な環境にある教会。同行の若い女性が、もうお会いできないかもしれませんが、天国での再会を楽しみに、と挨拶したら、教会代表の方が、「ここも神の国です」と切り返した。彼女は泣きだし、私も衝撃を受けた。ハンセンを病み、人々に忌み嫌われ、人生に行き暮れ、漸く辿り着いたスラムの教会、「ここも神の国」とは!教会とは何と誇らしい所なのか!以来、タイに長く関わることになる。教会はキリストの体、決して消え去ることなく、キリストを証し続ける。
三吉信彦牧師
出エジプト記3章の、モーセの召命です。モーセは神と直接対面し、対話した人です。神に直面して重要な任務を与えられ、さまざまな困難に耐えてイスラエル民族のエジプト脱出を成功させ、イスラエルの信仰の基礎を築いたモーセは、イスラエルの歴史の中でもっとも偉大な人といっていいでしょう。そのモーセが神に召しだされる物語です。モーセはエジプトの寄留者の子どもでした。ある日、エジプト人がヘブライ人を打っているのを見て、エジプト人を逆に打ち殺してしまいます。ミディアンに逃亡し、祭司の娘ツィポラと結婚して羊飼いとなります。その羊たちを連れて、神の山ホレブにきたところで、神との最初の出会いが起こりました。燃え尽きない不思議な柴の火を見たモーセが近づくと、神が声をかけられました。「モーセよ、ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」履物を脱ぐのは、しもべのしるしであり、聖所に入るときの習慣であり、謙遜を示すことでもあります。神は続けて「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われました。神は続けてご計画を述べられます。エジプト人のもとで働いているイスラエルの人々が重労働で苦しんでいるのを見、彼らが苦しみに叫んでいるのを聞いたので、エジプトへ降って行って救い出そうと決めたと言われます。そのためにあなたを遣わすというのが神の命令でした。しかしモーセは、神の命令に素直に従いません。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」彼は神の与えられる任務の重大性と、それに伴う数々の困難を思って、当惑したでしょう。使命の大きさに対して、現在の彼は、あまりにも小さな存在でした。モーセの訴えに神はどう応えられたでしょうか。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」「あなたは自分にどんな力があるかと心配する必要はない。わたしは必ずあなたと共にいる。わたしが共にいることこそ、あなたの力なのだ。」神が「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われた一言で、モーセは納得しました。モーセは、重ねて問います。「・・・イスラエルの人々が『その名は一体何か』と問うとき、彼らに何と答えるべきでしょうか。」神は「わたしはある。『わたしはある』という方がわたしをあなたがたに遣わされたのだ」と言いなさい。」神が直接、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われたら、どんなに安心なことでしょうか。私たちはみな、神様に呼ばれてキリスト者になったのは確かなことですから、お呼びになった方は、必ずいつも傍らにいてくださることを信じて感謝して歩みたいと思います。
柳下 仁牧師
聖句「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)
1.《競争原理》 私たちは「競争社会」に生きています。英語の「コンペティション」を「競争」と訳したのは福澤諭吉だそうですが、スポーツやクラシック音楽の世界の熾烈な上位争いこそ「コンペ」の代表です。勝つために手段を選ばぬ姿勢はドーピングなど不正の温床です。実に「競争原理」は虚構でしかなく、世界に災厄をもたらし、社会を歪め、人間の魂を責め苛んでいるのです。
2.《淘汰圧力》 身の周りに「競争原理」の信奉者は大勢います。口を揃えて「弱肉強食こそが自然の摂理」と言いますが、強者が生き残るのではなく、環境に適応したものが生き残るのです。戦争指導者たちは「自存自衛の戦い」を主張し、最前線に立たされる兵士たちも、生き残りを賭けて敵兵を殺さねばなりません。企業や商店も生き残りを賭けて競争しています。教会ですらも「伝道」「宣教」を優先する余りに、信者に「淘汰圧力」を掛けて、意識的に「競争原理」を採り入れる場合があります。その方が効率よく組織は機能するのです。しかし、それが本当の教会でしょうか。イエスさまは疑義を呈されます。
3.《勝利宣言》 イエスさまは「私は既に世に勝っている」と仰いました。主は「この世の中で勝利」したのではなく、「競争原理」が支配する「この世に勝利」されたのです。だからこそ「イエスの名によって祈れ」と言われているのです。私たちも自身の成功や勝利を祈らないでは居られません。しかし、永遠に勝ち続ける人間も団体も、国家も民族も存在しません。敗北と挫折と死の中に打ち沈む日が必ず来るのです。しかし、イエスさまは勝者敗者の別なく、「この世に勝利」された主です。「勇気を出しなさい」は「タルソス/冒険心、確信」です。未だ見ぬ世界を目指すのが冒険、見ずして信ずるのが確信です。
朝日研一朗牧師