2017年09月26日

10月第1主日礼拝(世界聖餐日)

      10月 1日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ほんとうに生きている道=@音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 14章1〜14節(p.196)
讃 美 歌  27、170、490、192、498、79、88
交読詩編  詩編119編33〜40節(p.137)

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2017年09月25日

願えば与えられるのか【ヤコブ1:2〜8】

聖句「…知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなく咎め立てしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」(1:5)

1.《女心と秋の空?》 日本列島が移動性高気圧に覆われる秋は、空気が澄み渡り、上空の雲まで見える反面、お天気が変わり易くもあります。それを女性の移り気に掛けて「女心と秋の空」と言いますが、この表現が生まれたのは大正デモクラシー以後です。封建時代には、女性の意思表示、人格や権利は認められていなかったので、むしろ「男心と秋の空」と言われていたのです。色恋沙汰における男の身勝手ぶりを揶揄する表現だったのです。

2.《引き裂かれた魂》 6節に「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」とあります。迫害、病気、貧困などの試練に遭う時、私たちの心も揺れ動きます。そこで信仰が試され、「忍耐/逃げ出さずに留まること」が生ずるとされています。試練に遭えば「海の波」のように揺れ動くのは、信者も未信者も同じ。洗礼を受けた信徒も動揺し疑うのです。この疑う者が信ずる者へと変えられて行く、そのプロセスを信仰と言います。祈り続ける中で、神に向き合い、「我が心定まれり」と成るのです。8節の「心が定まらず」は「二心の者」と訳されますが、私なら「魂が引き裂かれて」と訳します。

3.《神のプレゼント》 降り掛かる試練に対して「逃げ出さずに留まる」力を、「知恵/ソフィア」と言います。頭の良いことではなく、人生や歴史を神の御計画の中で見通すことの出来る聖霊の賜物です。つまり、私たちの思いが及ばぬ程の、高くて大きな神の御思い(イザヤ書55章8〜13節)に思いを馳せて、触れること、永遠を思う心(コヘレトの言葉3章11節)です。それは、私たちが誰かのことを思い遣るのに似ています。その人の本当の心は窺い知れませんが、その人に心を向け続けていれば、その心に達する時が来るのです。願うならば、神は、私たちの想像も出来ないプレゼントを与えて下さいます。

朝日研一朗牧師

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麺@ワーク

9月24日(日)、礼拝後に「麺@ワーク」を行いました。

7月30日に続いて教会の庭の草取りや扉の塗装などをしました。仕事の前に「麺」をいただきました。美味しかったです。

麺@ワーク
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2017年09月24日

ジャンプ展

1.六本木ヒルズ

第18号台風一過の9月18日、「創刊50周年記念 週刊少年ジャンプ展」に行って参りました。会場は六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーです。台風が接近する週末に、軽い気持ちで「もしも月曜日、晴れたら連れて行ってやる」と、二男に約束していたのですが、明けて月曜日は青天の夏日…(何という晴れ男でしょう)。と言う訳で、二男の移動介助として同行することになったのでした。

今年の春から、二男も電動車椅子の運転が出来るようになったので、「介助」と言いながらも、随分と楽になりました。東京メトロ南北線麻布十番駅から徒歩で、環状3号線をトコトコ進みます。途中、鳥居坂下交差点の急傾斜舗道を横断する際には、親子で戦々恐々としました。坂道を上ったり下りたりする以上に、車椅子は坂道を横断する方が恐ろしいのです。「ヒルズ」に着いてからは、段差のない入り口が見付からず、エレベーターの乗り換えに四苦八苦。これは帰りも同じでした。

エスカレーターや階段が自由に利用できる人には、中々、理解して貰えません。昔のデパートと違って、最近の複合施設(ショッピングモール)はシネコンや美術館やホール等が入っていて、各階ごとにデザインや設計を変えているせいか、エレベーターの場所が移動するのです。況してや、「ヒルズ」のように丘の上から麓に掛けて、幾つかの建造物が連なっていると、どこから出入りしたら良いのか(地上は何階なのか)分からなくなるのです。

2.少年ジャンプ

要するに「少年ジャンプ」の回顧展、歴代「少年ジャンプ」に連載されたマンガの原画展なのです。「少年ジャンプ」は1968年に創刊されて、来年が50周年だそうです。それを「創刊〜1980年代」「1990年代」「2000年代〜」と3期に分けて開催する、今回は、その「VOL.1」なのでした。

今回の目玉は、武論尊+原哲夫の『北斗の拳』、ゆでたまごの『キン肉マン』、鳥山明の『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』、高橋陽一の『キャプテン翼』、秋本治の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、北条司の『キャッツハート(トランプ)アイ』『シティハンター』、車田正美の『聖闘士星矢』と、主に1980年代のヒット作品です。これら一時代を画した大ヒット作品には、1作品ごとに1つのスペースが割り当てられています。

しかしながら、私としては、創刊直後のスペースに展示されていた、永井豪の『ハレンチ学園』、本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』に釘付けで、感動してしまいました。それらの原画を見た瞬間、小学校の風景(スカートめくり、番長ごっこ)が蘇えって来たのです。その影響力の深さと濃さたるや一生もの。恐るべしです。

吉沢やすみの『ど根性ガエル』、とりいかずよしの『トイレット博士』、梶原一騎+井上コオの『侍ジャイアンツ』、山川惣治(『少年ケニヤ』の!!)+川崎のぼるの西部劇『荒野の少年イサム』、池沢さとしのレース物『サーキットの狼』、これらが私が小学校時代に愛読していた「ジャンプ」でした。ところが、同じ時代に「ジャンプ」には、中沢啓治の『はだしのゲン』も連載されていたのです。しかるに、私自身は『はだしのゲン』は図書館で読んだ印象しかありません。図書館に置かれている唯一のマンガだったのです(当時は、手塚治虫すら置かれていませんでした)。

諸星大二郎の『妖怪ハンター』『孔子暗黒伝』にもビックリ。所謂、民俗学的ホラー、伝奇文学的ホラーですが、「ジャンプ」に連載されていたとは知りませんでした。読んだのは大学生になってからです。諸星の後継、星野之宣の海洋SF物『ブルーシティー』については、その連載を覚えているのです。つまり、諸星のマンガは、当時の私には難し過ぎて、目で見ていても、心と頭で読んではいなかったのでしょう。

これらは皆、1970年代のマンガ作品です。こうして改めて俯瞰してみると、ジャンルは別として、70年代の「ジャンプ」の絵は(星野を別として)洗練されていませんが、「荒ぶる魂」とでも言うべき猛々しさに満ち溢れていたように思います。

3.神さまもいる

今泉伸二の『神様はサウスポー』(1988〜90年)のカラーイラスト(1990年)にはビックリ。コピーは「ボクサーにして修道士!目指すは世界チャンピオン!!」。主人公がノックダウンした対戦相手を抱きかかえています。その背後には、十字架のキリストが…。こんなマンガがあったのですね。解説によると「アメリカの修道院で育った少年」が亡き父の夢であった「ボクシング世界チャンピオンを目指す」のだそうです。「神の力が宿る左から繰り出す必殺パンチも話題になった」とも書いてあります。

そう言えば、『北斗の拳』(1983〜88年)には、キリスト教の祈りを感じさせる原画がありました。十字の墓標を刺した盛り土の上に、種を蒔くケンシロウ。それを見て「ケッ そんな所に まいたって実るわけ ねぇだろ」と吐き捨てる、スレッカラシのバット。「実るさ…」と種を蒔き続けるケンシロウ。「下に あの老人が 眠っている」と、十字架の上から種を蒔き続けるケンシロウ、天の雲間からは光が差し込んでいる(1983年)。

ケンシロウに七つの傷を負わせた男、南斗聖拳の使い手シンを倒した後、その埋葬の準備を黙々と続けるケンシロウに向かって、「なぜだよ なぜ そんな男に墓を つくってやるんだよ」と吐き捨てるバット(またかよ)。その時、ケンシロウはシンの遺体を抱き上げて言うのでした。「同じ女を 愛した 男だから」と。彼らの前には墓穴が、遠景には、瓦礫と化したビル群がありますが、なぜかケンシロウの後ろには、大きな十字架が描かれているのです。しかも、コマからはみ出しちゃってます!(1983年)。ある意味、現代の聖画です。

牧師 朝日研一朗

【2017年10月の月報より】

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2017年09月19日

9月第4主日礼拝

       9月24日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 願えば与えられるのか=@音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  ヤコブの手紙 1章2〜8節(p.421)
讃 美 歌  27、20、490、548、521、29
交読詩編  詩編147編1〜11節(p.164)

・讃美歌練習(10月の月歌:170番)   礼拝後  
・麺@ワークU  讃美歌練習後〜午後2時30分  階下ホール集合
 焼きソバをいただいてから、ドアの塗装、庭の草抜き等をします。

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2017年09月18日

大切なあなたに【イザヤ 43:1〜7】

聖句「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(43:4)

1.《何度も同じ話》 さだまさし作詞作曲の「秋桜(コスモス)」の一節に「何度も同じ話くりかえす/ひとり言みたいに小さな声で」とあります。同じ話を繰り返すのは高齢者の特徴です。私たちは「また同じ話!」と叱ったり、認知症の記銘力障害と混同したりします。しかし、人生の秋から冬へと向かう老年期の人間は過去を顧みることで、自らの人生の意味と価値とを再確認して、そこに安堵と励ましとを見出しているのです。これを吟味と言います。

2.《尊厳と栄光と》 「協会訳」や「新改訳」は「尊い」と漢字を当てています。「貴族の貴さ」ではなくて「尊厳の尊さ」です。この文字は手に酒樽を抱えて、神仏に奉げる姿勢を意味します。本来、神仏に対して用いるべき文字なのです。しかし、聖書では、人間は「神の似姿」に造られ、「神は、その独り子をお与えになった程に」世の人を愛されたと言います。それが人間の尊厳なのです。「尊い/ニケバド」は「重んじられる」というヘブル語で、「カーボード/神の栄光」と同根です。「栄光」は神の臨在を示します。神にも等しい尊厳と、臨在の栄光を、あなたに与えられたのです。それが神の愛なのです。

3.《ケースワーク》 お題目のように「人間の尊厳」が唱えられますが、それは自明でも普遍でもないのです。障碍者や高齢者に対する虐待や虐殺事件が起こる背景には、恐らく「尊厳」の形骸化があります。心が入っていないのです。米国の社会福祉学者、バイステックが「ケースワーク」という語を造りました。相談者に決してレッテル貼りをせず、その人固有の尊厳に、どこまでも向き合って行くのです。彼はイエズス会の司祭でした。「人間の尊厳」という価値観は、造り主が我らに与えたという聖書の信仰が原点です。自分の存在意義を見失った人にも「あなたは大切」と言って下さるのが、私たちの神さまです。

朝日研一朗牧師

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2017年09月12日

9月第3主日礼拝

       9月17日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 大切なあなたに=@音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  イザヤ書 43章1〜7節(p.1130)
讃 美 歌  27、20、490、475、462、29
交読詩編  詩編147編1〜11節(p.164)

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2017年09月11日

健康な人の病気【ルカ5:27〜32】

聖句「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、…罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(5:31,32)

1.《病気で長生き?》 私が糖尿病という診断を受けた後、旧友から「最近は『無病息災』ではなく『一病息災』と言うのだ」と慰められました。かつては「健康長寿」が祈願されました。健康が長寿の前提だったのですが、最近では、持病を患いながらも長命の人も大勢いらっしゃいます。健康と長寿とにズレが生じています。誰にとっても健康の維持が最大の関心事となっているのです。

2.《スピリチュアル》 「世界保健機構/WHO」の「健康の定義」は「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、全てが満たされた状態にあること」です。フィジカル、メンタル、ソーシャルのバランスが取れていることが大切なのです。心身ともに健康でも社会の中で孤立していたら健康ではありません。1998年に、この定義に「スピリチュアル/霊的」を加えるように提案されました。ホスピスの現場では、終末期の患者の実存的な問い掛けを「スピリチュアル・ペイン/霊的な苦しみ」と言います。それが受け止められる環境を「スピリチュアリティ/霊性」と呼ぶのです。

3.《メタグノーシス》 病気と健康とが逆転するダイナミックな逆説を、イエスさまは語られています。イエスさまが盲人を癒したことに難癖を付ける人々に、主は「今あなたがたが『見える』と言い張るところに罪がある」と反論されました。病気や障碍を抱えているだけで、罪業の因果とされ、社会から排除されるような時代、やはり罪人として蔑まれていた徴税人、霊的、宗教的に差別され、病的な状態に捨て置かれた人を主は招かれました。「悔い改め/メタノイア」は「思考転換、発想の展開」です。「メタグノーシス」は、即ち、人間の知恵を超える神の知恵に触れることにあります。本当の健康とは何でしょう。

朝日研一朗牧師

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2017年09月08日

旭日亭菜単(続き)その41

  • 「西の魔女が死んだ/梨木香歩作品集」(梨木香歩著、新潮社)
    表題作は楡出版以来23年ぶりに読みました。著者のデビュー作ですが、作中人物の他者に対する姿勢が一貫していることを、改めて確認しました。他者が人間であれ幽霊であれ、自然現象であれ動植物、あるいは鉱物であれ、語りかける相手(位格)として認識しているのです。心の中で呟く場合も含めて、語りかけることで、その相手も心を持った存在へと変わるのです。そして、これこそが、そもそもファンタジーの基本でしょう。前日譚「ブラッキーの話」「冬の午後」「かまどに小枝を」が収録されています。特に巻末の書き下ろし「かまど」は「西の魔女」に対する20年越しの返書に成っています。勿論、語り手は「おばあちゃん」自身です。秋の雨風と陽光が胸に深く染み透って来るような味わいです。今回この一連の作品を読んで、やはり、テーマは「おばあちゃん・ママ・まい」と受け継がれるWise Women(魔女、占い女、産婆)の感性であると思いました。残る作中人物は(既に世を去ったおじいちゃんは別格として)パパとゲンジさん。私の役回りはゲンジさんか(エロ本あるしなあ)。映画だと木村祐一だね。
  • 「文豪妖怪名作選」(東雅夫編、創元推理文庫)
    同じ編者による『日本怪奇小説傑作選』全3巻(紀田順一郎と共同)と被る作品が1つも無くて驚きました。私のベストは日影丈吉の「山姫」です。御岳山の宿坊に泊まったこともあるので雰囲気は実感できますし、何より急転直下のホラー描写が凄い。この衝撃をもたらすために、敢えてエッセイ風の文章を淡々と綴っていたのです。宮澤賢治の「ざしき童子のはなし」を読み、萩尾望都の『11人いる!』の原点はここにあったかと納得。椋鳩十の「一反木綿」は童話作家にしてこの残酷趣味。火野葦平の「邪恋」、内田百閧フ「件」、佐藤春夫の「山妖海異」には、作家としての力量を思い知らされます。特に「山妖海異」の女の水死体を妊婦と看破する辺り、おどろしさ倍増、参りました。泉鏡花の「天守物語」は芝居や映画で有名な作品ですが、初めて読みました。そもそも姫路城天守には、幼少時、何度も登っていますので、城化物の長壁姫にも親愛の情を抱くものです。巻末に寺田寅彦の小論「化物の進化」が置かれているのも粋な計らい。「化物がないと思うのはかえって本当の迷信である。宇宙は永久に変異に充ちている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻である。それを繙いてその怪異に戦慄する心持がなくなれば、もう科学は死んでしまうのである」。
  • 「ゴールデンカムイ」第11巻(野田サトル作、集英社)
    帯に「テレビアニメ化決定!!!」とありますが、深夜枠にしても、原作そのままというのは無理でしょう。夥しい流血や人体破壊描写もさることながら、入れ墨脱獄囚24人は変質者ばかり。例えば、この巻に登場する姉畑支遁(『動物記』のシートンからの命名)は獣姦と動物虐殺を繰り返します。それはともかく「稲妻強盗と蝮のお銀」の展開から顛末までが圧倒的な迫力です。首を打ち落とされたお銀の首が転がって、茨木童子よろしく鶴見中尉の軍靴に咬み付く場面、痺れます。この夫婦強盗の遺した赤子を、アイヌのフチに預ける場面転換の妙(「子供は親を選べない」「あの夫婦は凶悪だったが…」「愛があった」)。このエピソードの合間に、尾形上等兵の父親殺しのエピソード(「あんこう鍋」)を、フラッシュバックのように挟んだのも素晴らしい。
  • 「女子高生の裏社会/『関係性の貧困』に生きる少女たち」(仁藤夢乃著、光文社新書)
    「社会保障も法律も、基本的に未成年は保護者に守られていることが前提とされている。行政は、学校は、大人は、10代の子どもたちの「秘密」を守ってくれない。仕事や住まいを与えてくれる裏社会のスカウトよりたちが悪い。子どもたちをほんとうの意味で守ってくれる大人はどこにいるのか」。著者の訴えに虚を突かれた。「前提」そのものが間違っているのです。未成年は保護者の帰属物としか見做していないのです。親も教師もカウンセラーも、大人たちは皆、子どもたちを一個の独立した人格として認めてはいないのです。それで守秘義務も存在しないのです。「高校生のときから、私はいつも疑問に思っていた。なぜ、裏社会の大人にできていることが、表社会ではできないのだろうかと」。JK産業では、わずか3人の役割、スカウト(少女たちに声をかける)、店長(仕事と生活目標を与える)、オーナー(全体を監督し、少女たちを激励する)の分業で、少女たちの居場所と関係性とを構築していく。何と彼らは就労支援、居住支援、貯蓄支援、学習支援まで行なうのです。少年少女に繋がらない、向き合わない、面倒を見ないという点で、社会福祉は風俗産業に遠く及ばないのです。だから、著者は「めげない援交おじさん」を見習って欲しいと訴えます。危ない裏社会を彷徨っている少年少女たちの姿を認め、声かけをして、彼らと向き合って欲しいと言うのです。そう言えば、著者の「女子高生サポートセンターColabo」のサポート会員が、うちの教会にもいました(!)。
  • 「最下層女子高生/無関心社会の罪」(橘ジュン著、小学館新書)
    私は渋谷センター街が好きで、時々行きます。原宿や秋葉原のように、そこに来る人たちの目的や傾向に、何等の方向性もないのです。その象徴があのスクランブル交差点なのでしょうね。この本の中にも、何となく渋谷に来てみたという女の子たちが登場します。この本に紹介されているのと似通った境遇の女の子たちも大勢いるはずなのです。貧困や性虐待、イジメや差別、自殺…。今こんなにも日本の家族は壊れてしまっているのですね。ネグレクトの一形態として「教育虐待」という語もあるのです。どの子も親子関係の中で苦悩しています。核家族の傾向なのか、親子の撞着が強過ぎるように思えます。子どもが親を捨てられなくなっているみたいです。97年の風営法改正(?)により、デリヘル乱立、供給過剰となり、「風俗嬢は女性の最後のセーフティーネットとして存在していたが、現在ではその役割を果たせてはいない。風俗嬢の中でも「勝ち組」と「負け組」が混在する格差社会≠ノなってしまっている」。この指摘に、二階堂卓也先生が、AV時代に突入した1980年代、ピンク女優たちが居場所を失ったと嘆いていたことを思い出しました。
posted by 行人坂教会 at 17:29 | 牧師の書斎から