説 教 ほんとうに生きている道=@

聖 書 ヨハネによる福音書 14章1〜14節(p.196)
讃 美 歌 27、170、490、192、498、79、88
交読詩編 詩編119編33〜40節(p.137)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「…知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなく咎め立てしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」(1:5)
1.《女心と秋の空?》 日本列島が移動性高気圧に覆われる秋は、空気が澄み渡り、上空の雲まで見える反面、お天気が変わり易くもあります。それを女性の移り気に掛けて「女心と秋の空」と言いますが、この表現が生まれたのは大正デモクラシー以後です。封建時代には、女性の意思表示、人格や権利は認められていなかったので、むしろ「男心と秋の空」と言われていたのです。色恋沙汰における男の身勝手ぶりを揶揄する表現だったのです。
2.《引き裂かれた魂》 6節に「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」とあります。迫害、病気、貧困などの試練に遭う時、私たちの心も揺れ動きます。そこで信仰が試され、「忍耐/逃げ出さずに留まること」が生ずるとされています。試練に遭えば「海の波」のように揺れ動くのは、信者も未信者も同じ。洗礼を受けた信徒も動揺し疑うのです。この疑う者が信ずる者へと変えられて行く、そのプロセスを信仰と言います。祈り続ける中で、神に向き合い、「我が心定まれり」と成るのです。8節の「心が定まらず」は「二心の者」と訳されますが、私なら「魂が引き裂かれて」と訳します。
3.《神のプレゼント》 降り掛かる試練に対して「逃げ出さずに留まる」力を、「知恵/ソフィア」と言います。頭の良いことではなく、人生や歴史を神の御計画の中で見通すことの出来る聖霊の賜物です。つまり、私たちの思いが及ばぬ程の、高くて大きな神の御思い(イザヤ書55章8〜13節)に思いを馳せて、触れること、永遠を思う心(コヘレトの言葉3章11節)です。それは、私たちが誰かのことを思い遣るのに似ています。その人の本当の心は窺い知れませんが、その人に心を向け続けていれば、その心に達する時が来るのです。願うならば、神は、私たちの想像も出来ないプレゼントを与えて下さいます。
朝日研一朗牧師
聖句「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(43:4)
1.《何度も同じ話》 さだまさし作詞作曲の「秋桜(コスモス)」の一節に「何度も同じ話くりかえす/ひとり言みたいに小さな声で」とあります。同じ話を繰り返すのは高齢者の特徴です。私たちは「また同じ話!」と叱ったり、認知症の記銘力障害と混同したりします。しかし、人生の秋から冬へと向かう老年期の人間は過去を顧みることで、自らの人生の意味と価値とを再確認して、そこに安堵と励ましとを見出しているのです。これを吟味と言います。
2.《尊厳と栄光と》 「協会訳」や「新改訳」は「尊い」と漢字を当てています。「貴族の貴さ」ではなくて「尊厳の尊さ」です。この文字は手に酒樽を抱えて、神仏に奉げる姿勢を意味します。本来、神仏に対して用いるべき文字なのです。しかし、聖書では、人間は「神の似姿」に造られ、「神は、その独り子をお与えになった程に」世の人を愛されたと言います。それが人間の尊厳なのです。「尊い/ニケバド」は「重んじられる」というヘブル語で、「カーボード/神の栄光」と同根です。「栄光」は神の臨在を示します。神にも等しい尊厳と、臨在の栄光を、あなたに与えられたのです。それが神の愛なのです。
3.《ケースワーク》 お題目のように「人間の尊厳」が唱えられますが、それは自明でも普遍でもないのです。障碍者や高齢者に対する虐待や虐殺事件が起こる背景には、恐らく「尊厳」の形骸化があります。心が入っていないのです。米国の社会福祉学者、バイステックが「ケースワーク」という語を造りました。相談者に決してレッテル貼りをせず、その人固有の尊厳に、どこまでも向き合って行くのです。彼はイエズス会の司祭でした。「人間の尊厳」という価値観は、造り主が我らに与えたという聖書の信仰が原点です。自分の存在意義を見失った人にも「あなたは大切」と言って下さるのが、私たちの神さまです。
朝日研一朗牧師
聖句「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、…罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(5:31,32)
1.《病気で長生き?》 私が糖尿病という診断を受けた後、旧友から「最近は『無病息災』ではなく『一病息災』と言うのだ」と慰められました。かつては「健康長寿」が祈願されました。健康が長寿の前提だったのですが、最近では、持病を患いながらも長命の人も大勢いらっしゃいます。健康と長寿とにズレが生じています。誰にとっても健康の維持が最大の関心事となっているのです。
2.《スピリチュアル》 「世界保健機構/WHO」の「健康の定義」は「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、全てが満たされた状態にあること」です。フィジカル、メンタル、ソーシャルのバランスが取れていることが大切なのです。心身ともに健康でも社会の中で孤立していたら健康ではありません。1998年に、この定義に「スピリチュアル/霊的」を加えるように提案されました。ホスピスの現場では、終末期の患者の実存的な問い掛けを「スピリチュアル・ペイン/霊的な苦しみ」と言います。それが受け止められる環境を「スピリチュアリティ/霊性」と呼ぶのです。
3.《メタグノーシス》 病気と健康とが逆転するダイナミックな逆説を、イエスさまは語られています。イエスさまが盲人を癒したことに難癖を付ける人々に、主は「今あなたがたが『見える』と言い張るところに罪がある」と反論されました。病気や障碍を抱えているだけで、罪業の因果とされ、社会から排除されるような時代、やはり罪人として蔑まれていた徴税人、霊的、宗教的に差別され、病的な状態に捨て置かれた人を主は招かれました。「悔い改め/メタノイア」は「思考転換、発想の展開」です。「メタグノーシス」は、即ち、人間の知恵を超える神の知恵に触れることにあります。本当の健康とは何でしょう。
朝日研一朗牧師
聖句「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」(11:27)
1.《面接官の躊躇》 日経新聞電子版に、面接官もビックリの最近の就活生という座談会がありました。当世学生気質に対する愚痴や文句が殆どでしたが、その中に「個性的過ぎて不採用にしてしまったけれども、大物を釣り落としたのではないか」と発言した面接官がいました。その躊躇いの中に、成功も失敗も積み重ねて経験した人にだけ生まれる謙虚さを感じました。
2.《目を向ける先》 誰も「人を見る目」等は持ち合わせてはいないのです。プロのスカウトの成功話も夥しい苦い失敗の上にあります。事業で成功続きのように見える人も、人生では失敗しているかも知れません。家庭が崩壊したり、人格が破綻している場合が多いのです。私たちには、自分が明日どう成るかも分からないのです。況して「人を見る目」等ありません。「箴言」は「目先の利益を追求した結果、欠乏する」「悪い目」(28:22)、「貧しい弱い人を助けて、神に祝福される」「善い目」(22:9)と説き、イエスさまも「体の灯は目」と仰います。何に目を向けているのか、それが問われているのです。
3.《神を見続ける》 モーセは王宮で育てられますが、同胞が虐待される現実を見てしまったことで大きく人生を変えられます。但し、現実を見るだけでは、そこに怨みと憎しみしか生まれません。モーセはエジプト人を殺しただけでした。社会の現実を見る時、私たちもまた、絶望と無力感に囚われます。だからこそ、私たちは神に目を向けなければなりません。「耐え忍ぶ」は「不撓不屈」。「弛まず見詰め続ける」ことです。忍耐とは持続力です。毎日の暮らし、栄養、扶養、そこから耐久力が生まれるのです。見ることの出来ない御方を、今現に見ているようにして耐え忍ぶ、それこそが神を礼拝する心です。
朝日研一朗牧師