説 教 死と陰府の鍵を持っている=@

聖 書 ヨハネの黙示録 1章9〜20節(p.452)
讃 美 歌 27、569、490、109、364、385、89
交読詩編 詩編51編1〜11節(p.59)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「狭い門から入りなさい。…命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(7:13,14)
1.《10月31日》 ハロウィンの起源はケルト文化圏の収穫感謝祭です。この日が大晦日、1年の暮れで、死霊が自宅に戻り、妖精や魔物が活動する夜でした。それで魔除けの仮面を被り篝火を焚いたのです。紀元8世紀、この風習に目を付けた、ローマ教会は「諸聖人の日」の前夜祭として聖遺物を展示しました。この御開帳に、人々は群れを成して聖人の霊験に与ろうとしたのです。
2.《教会の扉》 サンピエトロ大聖堂の再建資金を集めるため、ローマ教会は免罪符を乱発しました。1517年、ハロウィンの聖遺物御開帳に発売日に、ルターは教会の扉に「九十五箇条提題」を貼り付け、「天国は金で売り買いするのは間違っている。信仰によって初めて天国に行けるのだ」と主張したのです。当時、公開討論を呼び掛ける場合に、教会の扉に公示する慣例でしたが、教会の扉が「天国の門」の象徴であったことも忘れてはなりません。「これさえあれば天国に行ける」と喧伝して憚らない、免罪符に対する反論なのですから「教会の門」なのです。因みに「門/ピュレー」には「扉、戸口」の意味もあります。
3.《恵み発見》 三浦綾子の小説『千利休とその妻たち』では、利休が新しい茶室を考案する際に、後添えのおりき(宗恩)が「狭き門より入れ」の聖句を伝えて、狭くて低い「にじり口」が出来たという設定です。宗教改革によって奪われた失地回復のために、イエズス会が東洋に宣教師を派遣し、キリシタンの教えが侘び茶を完成させる、全て「狭き門」で繋がっていたら愉快です。「門」が「狭く細い」理由は「見出す者が少ない」からです。命も何かも賜物であることを発見する人は少ないのです。もしも門の狭さに気付いたならば、誰でも身を屈めて入っておいでと、イエスさまは仰っているのです。
朝日研一朗牧師
聖句「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金が無くなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16:9)
1.《福音書の悪人》 イエスさまの譬え話に登場するのは、善人ばかりではありません。押し込み強盗、追い剥ぎ、毒麦を蒔く敵、葡萄園の主人の息子を殺す農夫、大酒を飲んで仲間を殴る下僕、だめんずの代表、放蕩息子などが次々と出て来て、さながら「悪党列伝」です。これは当時の世相の反映であり、私たち自身の中にいる悪意や悪念でもあるのです。それ故、説得力があるのです。
2.《不正な管理人》 「管理人」は「家令/家の世話をする人」です。主人の財産管理を任されているのを良いことに、それを高利で貸し付けて、利子を懐に入れていたようです。内部告発で管理人の職を解かれそうになった彼は一計を案じます。債務者の所に証文を持って回り、借金の利息をチャラにして恩を売るのです。こうして自分が解雇された時、迎え入れてくれる新しい会社回りを兼ねたのでした。如何にも生臭い話ですが、この先は、あり得ない展開に変わります。それを知った主人が管理人の「抜け目ないやり方」を褒めたというのです。ここがイエスさまのワープです。ここからは信仰の話なのです。
3.《富も使いよう》 この世の終わり、人生の終わりには、金など何の役にも立ちません。その時のために今から「不義の富」で「友達を作れ」と仰るのです。「不義の富」は「マモン/この世の富」、「友達/フィロス」は「愛される、愛すべき、親しい」という意味です。この世の富はこの世でしか価値がありません。しかし、この世では未だ使い道があるのです。それを活用して「愛のある関係を作れ」「愛すべき者たちを守れ」と言うのです。ディケンズの『クリスマス・キャロル』は守銭奴スクルージが「過去は変えられぬが、未来は変えられる」と回心して、富を用いて多くの人の「善き友人」と成る物語でした。
朝日研一朗牧師
聖句「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。」(6:3,4)
1.《懸案事項》 約3年前から会計事務のお手伝いをしていますが、人間のすることですから、週報の「献金報告」欄に稀にミスが生じ、これを如何に防ぐか悩んでいました。改善策の検討に際し「信仰的には、どうあるべきなのか」考えてみました。
2.《主の御旨》 イエスは我々にどうしなさいと仰っているでしょうか。献金を考える時に、イエスの教えの中では「マタイ」6章2〜4節が参考になると思います。「施し」についての戒めですが、内容は明確なように思います。「施しを人目につかせないようにしなさい」という命令です。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とも戒められています。
3.《私の提案》 私は、この御旨に従う1つの方法として、会計担当役員に「将来的には、週報の「献金報告」欄の献金者名記載は止めるべきではないか。但し、余りに急激な変更は教会員に不安や戸惑いを与えかねないので、当面の間、1ヶ月分を纏めて月1回報告する」という案をお話しました。会計担当役員は、私の思いを心に留めて下さり、役員会の議題にして下さいました。その結果、2016年度第6回役員会において「金額記載を止め、月定献金は氏名のみ、特別献金は氏名と用件のみを記載する」ことが決定され、11月から実施されました。現在、会計事務に携わっているため、「献金報告」変更の件をお話しましたが、これに限らず、教会の全てのことにおいて、イエスの御旨に少しでも従って行けるよう努力したいと思います。そして、必要な物は「みな加えて与えられる」と仰るイエスの御言葉を信じ、皆様と共に歩んで参りたいと思います。
小池耕一
聖句「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)
1.《光の子》 教会附属幼稚園・保育園には「光」を園名にしている所が数多くあります。「光の子」というメッセージは、「恵み」「小羊」に比べると、教会側と家族側の間の乖離はありません。どの親御さんにとっても、我が子は光のような輝かしい存在です。しかし、成長と共に、その光が翳って行くように感じるのです。本当は、私たちが光を見ようとしていないからではないでしょうか。
2.《照らす》 幼い我が子は光そのものです。しかし、どの子も光輝いているのです。私たちが自分の子の輝く瞬間だけを追い求めている限り、その輝きに気付きません。誰もが互いに照らし合っているのです。教会では古来、キリストを恒星に、私たちを惑星に譬えて来ました。私たちは自ら輝くものではなく、御光を反射するのです。照らされた者それ自身もまた、光となるのです。13節の「明らかにする/ファネロオー」も、14節の「照らす/エピファウスコー」(「エピファネア」の類語)も「顕現、顕われ」を意味する語です。その単語の中には「ファノス/松明」があります。闇を明るく照らす灯火です。
3.《光の業》 私たちはキリストの光に照らされて輝いています。自分を輝かせるために空しく光っているのではありません。光ることで誰かを照らすことが出来るのです。私たちは「以前には暗闇でした」が、今も深い闇を抱えているはずです。いつも隅々まで御光に照らされることは出来ません。御光に照らされぬ半面(ダークサイド)が常に生じてしまうのです。しかし、そんな陽光の当たらない暗黒面にも、無数の星が輝いているのです。私たちも、その星の1つです。私たちは独りでは「光の子」には成れません。闇を抱える一人であるとしても、私たちは互いに照らし合う時「光の子ら」に成るのです。
朝日研一朗牧師