2017年10月10日

10月第3主日礼拝(信徒伝道週間)

      10月15日(日) 午前10時30分〜11時40分
信徒奨励 イエスの御旨に従う=@音楽     小池耕一
聖  書  マタイによる福音書 6章1〜4節(p.9)
讃 美 歌  27、170、490、494、521、88
交読詩編  詩編119編33〜40節(p.137)

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2017年10月09日

あなたは光になってます【エフェソ5:6〜14】

聖句「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)

1.《光の子》 教会附属幼稚園・保育園には「光」を園名にしている所が数多くあります。「光の子」というメッセージは、「恵み」「小羊」に比べると、教会側と家族側の間の乖離はありません。どの親御さんにとっても、我が子は光のような輝かしい存在です。しかし、成長と共に、その光が翳って行くように感じるのです。本当は、私たちが光を見ようとしていないからではないでしょうか。

2.《照らす》 幼い我が子は光そのものです。しかし、どの子も光輝いているのです。私たちが自分の子の輝く瞬間だけを追い求めている限り、その輝きに気付きません。誰もが互いに照らし合っているのです。教会では古来、キリストを恒星に、私たちを惑星に譬えて来ました。私たちは自ら輝くものではなく、御光を反射するのです。照らされた者それ自身もまた、光となるのです。13節の「明らかにする/ファネロオー」も、14節の「照らす/エピファウスコー」(「エピファネア」の類語)も「顕現、顕われ」を意味する語です。その単語の中には「ファノス/松明」があります。闇を明るく照らす灯火です。

3.《光の業》 私たちはキリストの光に照らされて輝いています。自分を輝かせるために空しく光っているのではありません。光ることで誰かを照らすことが出来るのです。私たちは「以前には暗闇でした」が、今も深い闇を抱えているはずです。いつも隅々まで御光に照らされることは出来ません。御光に照らされぬ半面(ダークサイド)が常に生じてしまうのです。しかし、そんな陽光の当たらない暗黒面にも、無数の星が輝いているのです。私たちも、その星の1つです。私たちは独りでは「光の子」には成れません。闇を抱える一人であるとしても、私たちは互いに照らし合う時「光の子ら」に成るのです。

朝日研一朗牧師

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2017年10月03日

10月第2主日礼拝(神学校日)

      10月 8日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 あなたは光になってます=@音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  エフェソの信徒への手紙 5章6〜14節(p.357)
讃 美 歌  27、170、490、376、502、88
交読詩編  詩編119編33〜40節(p.137)

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2017年10月02日

ほんとうに生きている道【ヨハネ14:1〜14】

聖句「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(14:6)

1.《道を尋ねる》 私は方向音痴なので、知らない所に行く時には、前日に入念な準備をします。その癖、迷った時に素直に道を尋ねることをしませんでした。道に迷う男性が他人に道を尋ねないのは、自分が無能だと思われることを恐れているからだという研究結果があります。英国の保険会社の調査によると、迷った男性が誰にも道を訊かずに、当ても無く自動車を走らせる距離は、年平均444キロに達するそうです。それこそ「迷走」ですね。

2.《脱システム》 英国の探検家、トリスタン・グーリーによると、女性に比べて男性が道を尋ねない理由は、自分たちが作ったシステム(方位、地図)に固執していて、機能しなくなっても拘泥しているからだそうです。その点、女性の方がシステムから自由で、目的のためには、利用可能な手段を全て駆使することが出来るのです。勿論、性差による分類は相対的なものです。性差に関係なく、今や私たちはシステムに雁字搦めにされて、身動きが取れなくなっているのです。システムそのものが悪いとは言いません。しかし、システムが機能しなくなった時に、その拘りを離れて、謙虚に道を尋ねる必要があると思います。

3.《踏まれる命》 教会は道を尋ねる場所、また問われる場所でもあります。ペトロもトマスも、イエスさまに「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねています。それに対して、主は「私は道である」と答えられます。福岡のバプテスト教会の牧師(幼稚園長)が、園児から「じゃあ、イエスさま踏まれちゃうんだね」と反応された衝撃を書いて居られました。遠藤周作の小説『沈黙』のクライマックスで、踏絵に足を掛けたロドリゴに「踏むがいい」と囁く主の御声を思い出します。それは「棄教」ではありません。私の足がキリストを踏み付けにしている、その認識から始まる信仰もあるのではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から