
『行人坂教会 クリスマス関連諸行事のご案内』

『クリスマスの自由』

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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」(10:31)
1.《この三人》 追い剥ぎに遭った旅人が重傷を負って倒れていますが、通り掛った祭司もレビ人も、なぜか彼を助けません。サマリア人だけが助けます。「誰が旅人の隣人に成ったか?」と、イエスさまは尋ねます。答は簡単です。この譬え話が物事の善悪の判断を問うだけのものなら、登場人物は3人要りません。この3人は、私たち自身の心の動きを象徴的に描いているのです。
2.《向こう側》 河瀬直美監督の『あん』という映画があります。ヒロイン徳江(樹木希林)はハンセン氏病の元患者ですが、社会の人たちと繋がりたいと願い、どら焼き屋で餡を捏ねる仕事をします。彼女の作る餡は美味しいと評判を呼びますが、やがて彼女の手が変形していることから元患者であることが噂となり、客は絶え、店も潰れてしまいます。彼女は社会的な死を体験することになるのです。義憤を感じますが、しかし、どら焼きを買わなくなった人たちに、私たちは石を投げることは出来ません。倒れている旅人を見て見ぬ振りをして「向こう側」を歩く、祭司やレビ人と同じことを、私たちもしているのです。
3.《心のドア》 私たちの心の中には「祭司とレビ人」が宿っていますが、善を求める心、即ち「サマリア人」もいるのです。物理的、心的距離が無関心を生み出します。ヴィーゼルは無関心を鈍感と捉えて「人を助ける時には、ただドアを開けるだけで良い」と言いました。何もかも出来ませんし、誰でもが出来る訳でもありません。しかし、実際に出来た人もいます。また、私たちには祈ることが出来るのです。そして、フランクルが言うように「人は死ぬまで成長できる」のです。心を開き、祈り続ければ、それは必ず行動に結び付き、道の反対側を通り過ぎる回数が少しずつ減って行くはずです。
大西秀樹医師
聖句「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)
1.《抱っこ》 最近では、街中で赤ちゃんを「おんぶ」している人を見掛けなくなりました。若いパパママはベビーキャリアを装着して抱っこしています。世界でも「おんぶ」する民族は少数派ですが、背中であやしながら、開いた両手で料理や洗濯が出来る凄い文化です。但し、周囲の共同体に対する信頼があることが前提です。「周りは他人」の都市文化では「おんぶ」は難しいのです。
2.《おんぶ》 欧州人に「おんぶ」の習慣はありませんから、聖母子像や降誕の聖画を見ても「抱っこ」です。唯一の例外が、幼いイエスさまを「おんぶ」して川を渡った、聖クリストフォロスの伝説です。それでも絵画を見ると、肩車か立ち乗りに成っています。欧州人に「おんぶ」は分からないのです。キリスト教が欧州に伝えられる以前、つまり、聖書を見ても「背負う」の表現はありますが、それは「赤ん坊を負ぶる」ことではありません。芝居の『屋根の上のヴァイオリン弾き』の「サンライズ・サンセット」の歌詞を見ると、寝た子を抱いてベッドに運ぶ「carryed」を「いつもおんぶしてた」と訳しています。
3.《踏み台》 聖書には「おんぶ」こそありませんが、子どもを抱きかかえて運ぶ「抱っこ」はあります。バビロンの神々の偶像は神輿として人間が担ぎ、家畜に背負わせる物だが、創造主である私は、あなたがたが胎にある時から年老いるまで「抱っこ」すると、主は仰るのです。「私が/アニー」の語が繰り返されて「おんぶに抱っこ」です。但し「甘えっ放し」には為さいません。その時々に「受容の背中」「拒絶の背中」「模範の背中」を示して、私たちの成長を促されるのです。子が「偶像」ではなく、真実を求めて生きるように導くのが大人の責任です。そのためには、自ら踏み台と成ることも厭わないのです。
朝日研一朗牧師
聖句「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ…」(55:10)
1.《奇跡の人》 岡田惠和が脚本を担当し、「銀杏BOYZ」の峯田和伸と麻生久美子が出演したドラマが昨年放映されました。流されるまま生きて来た万年青年が、盲聾の7歳の娘を抱えて、毎日サバイバルのような生活を送る元ヤンのシングルマザーに恋をして、自分はその娘の「サリヴァン先生になろう」と決意するところから、泣き笑いの奮闘が始まるのでした。
2.《家庭教師》 アン・サリヴァンは「盲聾唖の三重苦」を負ったヘレン・ケラーを教育した家庭教師です。ヘレンは1歳9ヶ月の時、猩紅熱の後遺症で視覚と聴覚を失い、言葉も話せなくなりました。両親は電話の発明者、ベル博士を通じて、パーキンス盲学校を紹介されます。自身もトラコーマによる失明状態の中から立ち上がり、盲学校を首席で卒業したサリヴァンが家庭教師として、ヘレンの家に来ることになったのです。その時、彼女は弱冠20歳でした。こうして赤ちゃん状態に等しかったヘレンに、指文字で言葉を教える懸命の教育が始まりました。芝居や映画では、この二人の格闘が最大の見せ場です。
3.《流れる水》 漸く人間らしさを回復しつつあったヘレンでしたが、両親の下に戻るや、再び動物のように振る舞い始めます。水差しを零したヘレンをサリヴァンが連れ出し、ポンプから流れ出る水に、ヘレンが「水」と叫ぶ場面は感動的です。しかし、これは劇作家ウィリアム・ギブスンの創作です。ヘレンの自叙伝によると、散歩の途中、忍冬の香りに誘われて泉に行った時の出来事だそうです。いずれにせよ、生きた水の流れがヘレンに言葉と魂の目覚めを与えたのは事実です。『奇跡の人』の原題「The Miracle Worker」はサリヴァンのことですが、奇跡を起こした働き手は、天から与えられた水だったのです。
朝日研一朗牧師
子どもたちも、司式や聖書朗読をしました。
礼拝後、収穫感謝愛餐会がありました。持ち寄った食材で作った豚汁、果物、海の幸、鉄板焼きをいただきました。 餅つきもしました。