2017年11月30日

2017年クリスマス関連の諸行事のご案内

2017年の行人坂教会の「クリスマス関連の諸行事のご案内」のパンフレットです。

クリスマス関連の諸行事のご案内2017


行人坂教会 クリスマス関連諸行事のご案内

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クリスマスの自由

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posted by 行人坂教会 at 22:18 | 教会からのお知らせ

特別伝道礼拝

11月26日(日)、特別伝道礼拝に大西秀樹医師をお招きし、奨励をして頂きました。昼食は焼きそばでした。午後からは特別公開講座でした。

20171126特別伝道礼拝と特別公開講座
posted by 行人坂教会 at 16:54 | 教会アルバム

2017年11月29日

旭日亭菜単(続き)その42

  • 「大貧帳」(内田百闥、中公文庫)
    教授室の隣の喫煙室で、百鬼園先生が、文科系と思しき甲君、物理の乙君、化学の丙君ら教師仲間を相手に、火だの水だのと論争するも、数学の丁君から一言「水は物質で、火は現象です」とトドメを刺されます。そこから、百鬼園先生、自論を展開して曰く「金は物質ではなく、現象である」、遂には「Time is money」と言うが如く「金は時の現在の如きもの」「この世には存在しない」と喝破する辺り、感動的です(「百鬼園新装」)。これは、単なる思弁ではなく、とことん金にだらしなくて、年中金欠なのに贅沢が身に付いてしまっていて、それでいて身なりや見栄には何の頓着も無く、その癖、金貸し、借金取りの類いに無縁の暮らしが出来ない、複雑怪奇な百鬼園先生が、その人生の中から獲得した真理に他なりません。盲腸の手術をした田氏を見舞った序でに、「退院祝いに、新しいのを買いなさい」と説いて、病人の帽子(しかも、ボルサリーノ)を貰って帰る話は凄い。まるで「説教強盗」です。京都から岡山に帰る汽車賃が足りず悶々とする少年時代の「二銭紀」も、初めて独り旅をするドキドキ感に溢れています。要するに、百鬼園先生の借金癖は、アルコール等と同じく、一種の依存症だったのではないでしょうか。どうして、こうまで借金をしてしまうのか、周りの誰もが理解不能だったはずです。でも、借金の利子が膨らんで生活を圧迫して行くドキドキ感に、彼は初体験を重ねていたのではあるまいかと思うのです。
  • 「死の舞踏/恐怖についての10章」(スティーヴン・キング著、安野玲訳、ちくま文庫)
    先ず膨大なページ数に圧倒されますが、読み始めてみると、底抜け脱線の例話や雑談が続き、絞れば半分くらいに収まったのではないかと思いました。映画、ラジオ、テレビ、コミック、そして小説と、ホラーというジャンルによって、様々な表現領域を横断して行きますが、その知識量の豊かさ、分析の深さは帝王キングならではです。これに触発されて、誰かホラー音楽やホラー演劇(グラン・ギニョールかしら)について書けば良いのに…。さて、キング自身は作家ですから、彼の本領が遺憾無く発揮されるのは、第9章です。ピーター・ストラウブの『ゴースト・ストーリー』、シャーリィ・ジャクソンの『丘の屋敷』、アイラ・レヴィンの『ローズマリーの赤ちゃん』、ジャック・フィニィの『盗まれた街』、レイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』、リチャード・マシスンの『縮みゆく男』、ハーラン・エリスンの『クロウトウン』等がホラー分析の教材にされています。私が中学時代に一気読みした、ジェームズ・ハーバートの『鼠』も高く評価されていて、自分事のように嬉しくなりました。「ジョナサン・エドワーズの説教」だの、「メソジストの信条」だの、「分析せんがために聖書を読むべからず」だの、「カルヴィニスト的道徳観の名残のようなものがある」だの、言葉の端々から、キングが信仰深いメソの家庭に育った片鱗が伺えます。信仰は彼のホラーにとって必要不可欠な要素なのです。町田智浩の「解説」によると、スタンリー・キューブリックがキングに直接電話をかけて「君は神を信じているのか?」と問うと、即座に「イエス」と答えたとの由。
  • 「プリニウス」第6巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    動物や鳥と交流する例の少年が、ティルス出身のフェニキア人という設定に成りました。ネロ帝がご執心の女奴隷プラウティナは、ブリタニア人のキリスト教徒。ネロの愛人、ポッパエアに取り入っている高級宝石商のレヴィテはユダヤ人。第一次ユダヤ戦争を平定することになる、司令官ヴェスパシアヌスも登場します。段々と新約聖書の世界に近付いて参ります。と言うか、ローマ大火とキリスト教徒迫害だから、シェンキェヴィッチの『クォ・ヴァディス』でしょうかね。そして、哲人セネカも登場します。新約外典に「パウロとセネカの往復書簡」というのがありました。作画も綺麗だし、ストーリー展開も上手だし、毎回、安心して読めて文句の付けようがありません。
  • 「宇宙船ビーグル号の冒険」(A・E・ヴァン・ヴォークト著、沼沢洽治訳、創元SF文庫)
    子ども時代に読んだ1冊です。懐かしくて再読しました。テレビの『宇宙大作戦』の何度目かの再放送を楽しみにしていた当時の私にとって、宇宙の猛獣ケアル、幻影鳥人リーム人、超生物イクストル、巨大無形生命体アナビスと、4大モンスターが登場する物語に興奮したものです。ケアルが生命体のイドを食べ、古代都市の遺跡が発端になるので、初めて『禁断の惑星』を観た時には「ビーグル号だ!」と叫んだくらいです。今読み直すと、イクストルがクルーの腹部に卵を産み付けるのも、船外に放出するのも『エイリアン』そのものです。著者が映画会社を訴えて、5万ドルを手にしたのも頷けます。ビーグル号が前代未聞の危機に直面する度に、主人公のエリオット・グローヴナーが手探りで解決法を導き出して行き、それが船内での彼の地位向上に繋がるという展開です。子どもの時には全く意識しませんでしたが、アメリカの企業を舞台にした出世物語と同じですね。因みに、考古学者の苅田は、パット・モリタの顔、しかも久米明の声で、私の脳内テレビが勝手にキャスティングして放映してしまうのでした。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第12巻(カガノミハチ作、集英社)
    スキピオ・アフリカヌスの活躍が続きます。バグラデス川の戦いで、西ヌミディアとカルタゴの連合軍を殲滅するところがクライマックス。その後、ハンニバルがイタリア半島から呼び戻されて、ザマの戦いに至る訳ですが、スキピオとカルタゴとの間で進められていた和平工作が出て来ません。カルタゴの元老院も一枚岩ではなくて、カンナエ前後のローマ上層部と同じ状況にあったはずです。ハンニバルがアフリカに上陸して、カルタゴ側の事情は全て省略されています。結果、好戦派がカルタゴの主導権を握るのですが、その一連の展開が、スキピオとハンニバルとの頂上会談というドラマに集約されています。勿論、これは完全なフィクション。伝説によると、二人が直接対話したのは、ハンニバルがカルタゴを追われ、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世の下で軍事顧問を務めていた時、場所はエフェソスとされています。因みに、アンティオコス3世は、ローマには小アジアの領土を奪われたものの、プトレマイオス朝エジプトからユダヤを奪い取り、ヘレニズム化を進めた王で、旧約聖書続編「マカバイ記」にも登場します。
  • 「もののあはれ/ケン・リュウ短篇傑作集2」(ケン・リュウ著、古沢嘉通編訳、ハヤカワ文庫)
    表題作は、小惑星の衝突前に地球を脱出した宇宙船の、唯一の日本人クルーの物語。著者は「もののあはれ」という美意識を少し深読みし過ぎているような気もします。しかし、最後の日本人の死と共に、固有の言語や文化、観念も消え去って行くというモチーフは、今や現実的に感じられるようになりました。「円弧」と「波」は姉妹編。いずれもヒロインが科学技術によってアンチエイジングを成し遂げる話で、女性読者は羨望をもって貪り読むこと請け合い。但し、両者の結末は似て非なるもの。「信仰への道を納得して進むために、必要なのは1ビットのエラーだ」というテーゼが出て来る「1ビットのエラー」は、シリウスから届く光の中に、愛する者の死の瞬間、キリストが十字架に掛けられた瞬間、今とは異なる時間を受け取ることで、永遠と繋がる幸せを説いています。巻末「良い狩りを」は、妖怪退治師(道教の退魔師)の息子と妖狐の娘との慕情がテーマ。しかるに、物語の舞台は清朝末期からパラレルワールドの香港に移ります(当然、スチームパンクだし…)。このコンビが活躍するエンタテインメントも出来たでしょうに、著者の関心はそちらに向かいません。でも、もしかしたらハリウッドが目を付けて、原作とは似ても似付かぬB級映画に仕上げるかも知れません。
posted by 行人坂教会 at 13:55 | 牧師の書斎から

2017年11月28日

12月第1主日礼拝(アドベント第1主日)

      12月 3日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 光が暗闇の底まで降りる音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 1章67〜80節(p.102)
讃 美 歌  27、245、247、236、81、24
交読詩編  詩編19編8〜11節(p.25)

・みんなで会堂掃除    礼拝後     礼拝堂、階下ホール

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年11月27日

向こう側を通る【ルカ10:25〜37】

聖句「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」(10:31)

1.《この三人》 追い剥ぎに遭った旅人が重傷を負って倒れていますが、通り掛った祭司もレビ人も、なぜか彼を助けません。サマリア人だけが助けます。「誰が旅人の隣人に成ったか?」と、イエスさまは尋ねます。答は簡単です。この譬え話が物事の善悪の判断を問うだけのものなら、登場人物は3人要りません。この3人は、私たち自身の心の動きを象徴的に描いているのです。

2.《向こう側》 河瀬直美監督の『あん』という映画があります。ヒロイン徳江(樹木希林)はハンセン氏病の元患者ですが、社会の人たちと繋がりたいと願い、どら焼き屋で餡を捏ねる仕事をします。彼女の作る餡は美味しいと評判を呼びますが、やがて彼女の手が変形していることから元患者であることが噂となり、客は絶え、店も潰れてしまいます。彼女は社会的な死を体験することになるのです。義憤を感じますが、しかし、どら焼きを買わなくなった人たちに、私たちは石を投げることは出来ません。倒れている旅人を見て見ぬ振りをして「向こう側」を歩く、祭司やレビ人と同じことを、私たちもしているのです。

3.《心のドア》 私たちの心の中には「祭司とレビ人」が宿っていますが、善を求める心、即ち「サマリア人」もいるのです。物理的、心的距離が無関心を生み出します。ヴィーゼルは無関心を鈍感と捉えて「人を助ける時には、ただドアを開けるだけで良い」と言いました。何もかも出来ませんし、誰でもが出来る訳でもありません。しかし、実際に出来た人もいます。また、私たちには祈ることが出来るのです。そして、フランクルが言うように「人は死ぬまで成長できる」のです。心を開き、祈り続ければ、それは必ず行動に結び付き、道の反対側を通り過ぎる回数が少しずつ減って行くはずです。

大西秀樹医師

posted by 行人坂教会 at 19:50 | 毎週の講壇から

2017年11月26日

サンタ解体新書

1.クリスマスホラー

ホラー映画ファンにとっては、『聖し血の夜』(1974年)、『サンタが殺しにやって来る』(1980年)、『悪魔のサンタクロース/惨殺の斧』(1984年)の3作が、クリスマスの定番メニューです。

『聖し血の夜』(再ソフト化に際して『ブラッディ✛ナイト/聖し血の夜』と改題)は、知る人ぞ知るカルト映画です。本来「暗い満月の夜/Night of the Dark Full Moon」という、結構、凝った原題だったのです。よく見ると「満月/full moon」と「晦日(みそか)、月隠(つごもり)/dark moon」)」を掛け合わせてあるのです(それならば「大月隠(おおつごもり)」ということでしょうか…)。しかし、本国でも「聖し血の夜/Silent Night,Bloody Night」という「きよしこの夜」のパロディに改題されてしまいました。

題名が変えられてしまうのは、この類いの低予算ホラーの宿命のようで、『サンタが殺しにやって来る』も同じ運命を辿っています。邦題の通り、サンタクロースの衣装に身を包んだ殺人鬼が、良い子にはプレゼントを渡しつつ、悪い大人たちを惨殺して回る、『13日の金曜日』と同じような(公開年も同じ)スラッシャー映画です。これも原題は「気を付けた方がいいよ/You Better Watch Out」だったのですが、「クリスマスの悪魔/Christmas Evil」と改題されました。

これらクリスマスホラーの決定打と成ったのが『悪魔のサンタクロース/惨殺の斧』でした。「ポスターやテレビCMを見た子どもたちが、サンタクロースに脅えるようになった」と、全米のPTA団体から抗議が殺到し、NYでは上映反対運動まで巻き起こったのですが、皮肉なことには、その御陰で、シリーズが第5作まで作られる程の、意外なヒット作と成ったのです。原題は「Silent Night,Deadly Night/聖し死の夜」でした。そして、この作品のヒットの御陰で、例の『聖し血の夜』も(改題されて)陽の目を見たという訳です。

2.サンタとなまはげ

『悪魔のサンタクロース/惨殺の斧』のポスターは、サンタクロースの衣装を着た何者かが、雪の積もった屋根の上、煉瓦造りの煙突から民家に侵入しようとしている絵柄です。右手には「惨殺の斧」が握られていて、「死の夜/Deadly Night」の赤い文字からは血が滴っています。日本の毒々しいポスターを見慣れている私たちとしては、こんなデザインのどこが、そんなに子どもたちを脅えさせたのかと思います。

そう言えば、秋田県の「なまはげ」も出刃包丁を手にしています。あれは、冬に働かないで、囲炉裏に当たって怠けてばかりいる、子どもや初嫁の手足に「なもみ」と言われる低温火傷が出来るそうで、それを剝ぎ取るために包丁(あるいは鉈(なた)、もしくは御幣の付いた杖)と桶(勿論「なもみ」を入れる)を持って、家々を回っているのだそうです。「なもみ」を「剝ぐ」から「なまはげ」なのだそうです。

サンタのモデルは、言うまでもなく、3世紀の小アジアはミュラの司教、聖ニコラウスです。しかし、モデルは1つではありません。様々な要素が入り混じっているのです。もう1つは「冬親爺」=「ヘル・ヴィンテル/Herr Winter」です。ヴァイキングが一族の誰か1人に、冬を擬人化した人物を演じさせ、それを丁重に持て成すことで、厳しい冬に挨拶をして、冬を懐柔しようとしたのです。「冬親爺」は、フード付きのコートを羽織り、頭に蠟燭を灯した柊の冠を被っています。これが後に、ドイツで「クリスマス親爺」=「ヴァイナハツマン/Weihnachtsmann」と呼ばれるように成ります。サンタクロースのことを、英国人が「ファーザー・クリスマス/Father Christmas」、フランス人が「ペール・ノエル/Père Noël」と呼ぶのも、恐らく、同じ「冬親爺」の流れを汲むからでは無いでしょうか。

他にも様々な要素が入り交じっています。「ペルヒタ/Perchta」(独)は角のある仮面を付けた怪物で、日本の獅子舞を思わせます。女サンタである「ベファーナ/Befana」(伊)や「バブーシュカ/Babushka」(露)は箒に乗って空を飛び、煙突から民家に侵入します。サンタの従者と言えば、日本ではトナカイだけですが、「黒いピート/Zwarte Piet」(蘭、白)や「鞭打ち爺さん/Le Père Fouettard」(仏)は悪い子を殴りますし、半獣半人の「クランプス/Krampusz」(独、洪)は人の顔に煤を塗り付けます。

『悪魔のサンタクロース』のポスターに、全米の子どもたちが恐怖したのは、もしかしたら、彼らの潜在意識の中にある、これら「黒いサンタクロース」の禍々しい記憶を呼び覚ましたからでは無いでしょうか。

3.クリスマスの親爺

1983年の大島渚監督作品『戦場のメリークリスマス』(Merry Christmas Mr.Lawrence)を御覧になった方は、酒に酔ったハラ軍曹(ビートたけし)が「クリスマスの祝いだ」とばかり、勝手に営倉(懲罰房)入りの捕虜、ロレンス(トム・コンティ)とセリエ(デイヴィッド・ボウイ)を出してしまう場面を覚えて居られるでしょう。

「ロレンスさん、ファーゼル・クリースマス、知っていますか? 今夜、私がファーゼル・クリースマス」と言うのです。原作はローレンス・ヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』。戦時下のジャワ島の日本軍の捕虜収容所を舞台にした小説です。私の手元にある「ペンギン」のペーパーバックを開くと「Fazeru Kurīsumasu」と綴られています。

既に明治40年代には、「サンタクロース」という名称が日本の一般社会で使われていました。にも拘わらず、大正生まれ(多分)のハラ軍曹が「ファーザー・クリスマス」と言うのです。ここから、もしや彼は聖公会系の教会の日曜学校に(あるいは、クリスマス会に)一度くらい行ったことがあったかも知れない、そんなことを私は妄想してしまうのでした。

牧師 朝日研一朗

【2017年12月の月報より】

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2017年11月21日

11月第4主日礼拝(特別伝道礼拝)

      11月26日(日) 午前10時30分〜11時40分
奨  励 向こう側を通る 音楽       大西秀樹
聖  書  ルカによる福音書 10章25〜37節(p.126)
讃 美 歌  27、569、484、57、89
交読詩編  詩編51編1〜11節(p.59)

・讃美歌練習(12月の月歌:245番)  礼拝後     礼拝堂
・ランチ会     讃美歌練習後〜午後0時45分   階下ホール
 メニュー:鉄板焼きソバ

特別公開講座         午後1時〜2時      礼拝堂
 講演:「がん医療の中でみつめてきた生と死について」大西秀樹医師
 入場無料

・・・当日の音声録音を聴く
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2017年11月20日

神さまの大きな背中【イザヤ 46:1〜4】

聖句「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)

1.《抱っこ》 最近では、街中で赤ちゃんを「おんぶ」している人を見掛けなくなりました。若いパパママはベビーキャリアを装着して抱っこしています。世界でも「おんぶ」する民族は少数派ですが、背中であやしながら、開いた両手で料理や洗濯が出来る凄い文化です。但し、周囲の共同体に対する信頼があることが前提です。「周りは他人」の都市文化では「おんぶ」は難しいのです。

2.《おんぶ》 欧州人に「おんぶ」の習慣はありませんから、聖母子像や降誕の聖画を見ても「抱っこ」です。唯一の例外が、幼いイエスさまを「おんぶ」して川を渡った、聖クリストフォロスの伝説です。それでも絵画を見ると、肩車か立ち乗りに成っています。欧州人に「おんぶ」は分からないのです。キリスト教が欧州に伝えられる以前、つまり、聖書を見ても「背負う」の表現はありますが、それは「赤ん坊を負ぶる」ことではありません。芝居の『屋根の上のヴァイオリン弾き』の「サンライズ・サンセット」の歌詞を見ると、寝た子を抱いてベッドに運ぶ「carryed」を「いつもおんぶしてた」と訳しています。

3.《踏み台》 聖書には「おんぶ」こそありませんが、子どもを抱きかかえて運ぶ「抱っこ」はあります。バビロンの神々の偶像は神輿として人間が担ぎ、家畜に背負わせる物だが、創造主である私は、あなたがたが胎にある時から年老いるまで「抱っこ」すると、主は仰るのです。「私が/アニー」の語が繰り返されて「おんぶに抱っこ」です。但し「甘えっ放し」には為さいません。その時々に「受容の背中」「拒絶の背中」「模範の背中」を示して、私たちの成長を促されるのです。子が「偶像」ではなく、真実を求めて生きるように導くのが大人の責任です。そのためには、自ら踏み台と成ることも厭わないのです。

朝日研一朗牧師

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2017年11月14日

11月第3主日礼拝

      11月19日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 神さまの大きな背中音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  イザヤ書 46章1〜4節(p.1137)
讃 美 歌  27、569、490、403、305、80、89
交読詩編  詩編51編1〜11節(p.59)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年11月13日

水のこころ【イザヤ 55:9〜11】

聖句「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ…」(55:10)

1.《奇跡の人》 岡田惠和が脚本を担当し、「銀杏BOYZ」の峯田和伸と麻生久美子が出演したドラマが昨年放映されました。流されるまま生きて来た万年青年が、盲聾の7歳の娘を抱えて、毎日サバイバルのような生活を送る元ヤンのシングルマザーに恋をして、自分はその娘の「サリヴァン先生になろう」と決意するところから、泣き笑いの奮闘が始まるのでした。

2.《家庭教師》 アン・サリヴァンは「盲聾唖の三重苦」を負ったヘレン・ケラーを教育した家庭教師です。ヘレンは1歳9ヶ月の時、猩紅熱の後遺症で視覚と聴覚を失い、言葉も話せなくなりました。両親は電話の発明者、ベル博士を通じて、パーキンス盲学校を紹介されます。自身もトラコーマによる失明状態の中から立ち上がり、盲学校を首席で卒業したサリヴァンが家庭教師として、ヘレンの家に来ることになったのです。その時、彼女は弱冠20歳でした。こうして赤ちゃん状態に等しかったヘレンに、指文字で言葉を教える懸命の教育が始まりました。芝居や映画では、この二人の格闘が最大の見せ場です。

3.《流れる水》 漸く人間らしさを回復しつつあったヘレンでしたが、両親の下に戻るや、再び動物のように振る舞い始めます。水差しを零したヘレンをサリヴァンが連れ出し、ポンプから流れ出る水に、ヘレンが「水」と叫ぶ場面は感動的です。しかし、これは劇作家ウィリアム・ギブスンの創作です。ヘレンの自叙伝によると、散歩の途中、忍冬の香りに誘われて泉に行った時の出来事だそうです。いずれにせよ、生きた水の流れがヘレンに言葉と魂の目覚めを与えたのは事実です。『奇跡の人』の原題「The Miracle Worker」はサリヴァンのことですが、奇跡を起こした働き手は、天から与えられた水だったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:45 | 毎週の講壇から