2017年12月12日

12月第3主日礼拝(アドベント第3主日)

      12月17日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 飼い葉桶に一本の藁を=@     朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 2章1〜7節(p.102)
讃 美 歌  27、245、269、256、24
交読詩編  詩編19編8〜15節(p.25)

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年12月11日

飼い葉桶を知っていますか【イザヤ1:2〜9】

聖句「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない。」(1:3)

1.《降誕セット》 「教会が一番質素なクリスマス」という川柳を作りました。商業施設や一般家庭の方が華やかにクリスマスの装飾をしていて、キリスト教会が一番地味かも知れません。最近では、雛人形、五月人形の感覚で「降誕セット」を飾る所もあります。しかし「降誕セット」はツリーやリースよりも、クリスマスとは何であるかを明示している点、福音的であるかも知れません。

2.《プレゼピオ》 13世紀の修道士、アッシジのフランチェスコが「降誕セット」を考案したとされています。聖書を読めない庶民や子どもが見ても、クリスマスが何であるか理解できるようにしたのです。当初は「活人画」「聖劇」に近いものでしたが、人形を使うようになり、家庭用の小型セットも生産されて普及したのです。その心は真ん中に置かれた「飼い葉桶」にあります。発祥地イタリア語の「プレゼピオ」は、ラテン語の「プレ/の前に」と「セピオー/囲む、取り巻く、守る」に溯ります。それを見詰める時、私たち自身が飼い葉桶を、御子イエスを「取り巻く」巡礼者になる仕掛けなのです。

3.《主を知る時》 イザヤの預言を読むと「しかし、イスラエルは知らず」という所で胸を突かれます。讃美歌の「ああベツレヘムよ」の「ひとみな眠りて知らぬ間にぞ/み子なるキリスト生まれたもう」を思い出します。誰もクリスマスを知らないのです。同じく、世の中には、誰も知らない悲しみや痛み、分かって貰えない苦しみも数多くあります。「夜」は相互交流が断絶し、孤独に悩む時間の象徴です。「同床異夢」です。しかし、クリスマスを知った私たちは、「知ったかぶり」と「知らん振り」を止めて、知ったことを元手にして、改めて生きることを始めたい。その時に「夜」は終わり、夜明けが来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 11:00 | 毎週の礼拝案内

2017年12月05日

12月第2主日礼拝(アドベント第2主日)

      12月10日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 飼い葉桶を知っていますか=@音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  イザヤ書 1章2〜9節(p.1061)
讃 美 歌  27、245、229、267、24
交読詩編  詩編19編8〜11節(p.25)

・・・当日の音声録音を聴く
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2017年12月04日

CSクリスマス礼拝と祝会

12月3日㈰、CSクリスマス礼拝と祝会がありました。

20171203 CSクリスマス礼拝と祝会
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光が闇の底まで降りる【ルカ1:67〜80】

聖句「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(1:78,79)

1.《ベネディクトゥス》 キリスト者は、クリスマスに先立ってアドベントを守ります。聖書においても、イエスさまの御降誕に先立って洗礼者ヨハネの誕生物語があるのです。その父親ザカリヤの賛美は、歌い出しのラテン語を採って「ベネディクトゥス/ほめたたえよ」の名で知られ、古くは、埋葬式の灌水と燻香の直前に歌われていました。お目出度い誕生の歌なのに、なぜでしょうか。

2.《死の陰の谷を歩む》 79節「暗黒と死の陰に座している者たち」を陰府に置かれた「死者」と捉えたからです。「スキア/陰」には影法師のような輪郭がありますが、所詮「スコティア/暗黒」の中に置かれているのですから、真っ暗闇なのです。有名な「詩編」23編にも「たとひ我、死の陰の谷を行くとも災ひを恐れじ」と詠まれている「死の影の谷」です。英国の怪奇作家、W・H・ホジソンの短編『失われた子供たちの谷』には、幼い娘を亡くした男が、子どもたちの暮らす楽園「光の谷」を求めて彷徨う挿話があります。それによると、驚くべきことに「光の谷」は「死の陰の谷」と隣り合わせに成っているのです。

3.《クリスマスの極意》 洗礼者ヨハネは、イエスさまに先立って道を備えた人物とされています。洗礼という儀式も、ヨルダン川でヨハネの始めたものです。洗礼/バプテスマは「水に浸す」事ですから「滴礼」を認めず「浸礼」を絶対視する教派もありますが、本来を目指すならば「流水」でなければなりません。レオナルド・ダ・ヴィンチは大地を1匹の魚に、水を空気に、河川や海を血管に譬えました。私たちの身の周りには、数え切れない程の暗闇と陰があります。けれども、「憐れみの光」である主は、どこまでも深く下降して下さいます。谷底で倒れ伏している私たちを照らし、導いて下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:07 | 毎週の講壇から