説 教 向こう岸に渡ろう=@

聖 書 マルコによる福音書 4章35〜41節(p.68)
讃 美 歌 27、245、490、357、456、24
交読詩編 詩編19編8〜15節(p.25)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(2:20)
1.《バイスタンダー》 救命医療と看護の用語です。誰かが急病になったり、事故や災難に見舞われた時「偶然、その場に居合わせた人」のことです。発見から通報、応急の救命処置など、その役割の重要さが改めて注目されています。北米には「善きサマリア人法」の制定された自治体も多く、その場に居合わせた誰でもが「バイスタンダー」として行動できるように促されています。
2.《クリスマス招待》 羊飼いたちは、クリスマスのバイスタンダーでした。マリアとヨセフは、キリストが人として生まれるために必要条件として選ばれた存在でした。また、占星術の学者たちも事前にキリスト降誕を予測して、遙々何千キロも旅して来た人たちです。明確な目的意識や旅行計画があって初めて、御子のいる場所へと辿り着くことが出来たのです。そんな中にあって、羊飼いたちこそが「偶然、その場に居合わせた」存在なのです。それまでイエスの家族とは何の接点も無かった人たちが、野宿して寝ずの番をしていたために、主の栄光を仰ぎ、天使に招待されて、降誕の場面へと導かれて行ったのです。
3.《召し出された人》 占星術の学者たちは「拝みに来た」のですから、一種の巡礼です。羊飼いたちが招かれたのはどうしてでしょうか。羊飼いたちは都市や貴族に憧れることも羨むこともなく、与えられた務めに満足していたからだと、ルターは説明しています。素朴な彼らは礼拝に行ったのではなく、とにかく行って見て、人々に知らせたのです。人との出会いも、出来事との出会いも、先ず自分が行って見ることから始まります。その結果として、彼らはクリスマスの証人と成り、神を「あがめ、賛美しながら帰って行った」のです。こうして賛美は私たちの生活に入り込み、終わることなく続くのです。
朝日研一朗牧師
聖句「…マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2:6,7)
1.《洞窟と石灰岩の桶》 「飼い葉桶」と言うと、私たちは木製の桶を想像してしまいますが、イエスさまが寝かされたのは石灰岩に掘られた代物だったようです。同じように「飼い葉桶」と言われるので、誰もが「家畜小屋」を想像してしまいますが、家畜は洞窟に入れたようです。新約外典「ヤコブ原福音書」にも、ヨセフとマリアが「洞窟」に泊まり、出産する描写があります。
2.《発酵させた飼い葉》 新約聖書には「飼い葉桶」はありますが「飼い葉」は出て来ません。旧約聖書「イザヤ書」30章には「発酵させた飼い葉/ベリール・ハーミーツ」が出て来ます。農業には無駄がありません。打穀後、麦粒を選り分けた後に残る茎や籾殻に、圧搾後の葡萄の皮を混ぜて酢酸発酵させたのです。家畜に与える最上級の飼料なのです。佐々木倫子のマンガ『動物のお医者さん』にも、刈り取った牧草を乳酸発酵させる「サイレージ」が出て来ます。このようなことを考えて、改めて降誕場面を思い浮かべると、仄かに甘酸っぱいワインビネガーの香りのする飼い葉がイメージされませんか。
3.《藁屑を飼い葉桶に》 片柳弘史神父がマザー・テレサの下でボランティアをした体験を語って居られます。マザーはボランティアたちに、空っぽの飼い葉桶を指し示して、何かを犠牲にする度に、藁を1本ずつ入れて、クリスマスに備えよと言います。クリスマスのミサの時には、飼い葉桶に藁が満たされ、参加者の心にも広い空間が生まれていたそうです。「藁」は「空しさ/ウァーニタース」の象徴です。私たちは自分の心と頭とを「虚栄」という「空しい」「藁屑」で一杯にしているのです。けれども、そんな藁屑も1本ずつでも奉げていけば、イエスさまをお迎えするための「飼い葉」に変わっているのです。
朝日研一朗牧師
聖句「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない。」(1:3)
1.《降誕セット》 「教会が一番質素なクリスマス」という川柳を作りました。商業施設や一般家庭の方が華やかにクリスマスの装飾をしていて、キリスト教会が一番地味かも知れません。最近では、雛人形、五月人形の感覚で「降誕セット」を飾る所もあります。しかし「降誕セット」はツリーやリースよりも、クリスマスとは何であるかを明示している点、福音的であるかも知れません。
2.《プレゼピオ》 13世紀の修道士、アッシジのフランチェスコが「降誕セット」を考案したとされています。聖書を読めない庶民や子どもが見ても、クリスマスが何であるか理解できるようにしたのです。当初は「活人画」「聖劇」に近いものでしたが、人形を使うようになり、家庭用の小型セットも生産されて普及したのです。その心は真ん中に置かれた「飼い葉桶」にあります。発祥地イタリア語の「プレゼピオ」は、ラテン語の「プレ/の前に」と「セピオー/囲む、取り巻く、守る」に溯ります。それを見詰める時、私たち自身が飼い葉桶を、御子イエスを「取り巻く」巡礼者になる仕掛けなのです。
3.《主を知る時》 イザヤの預言を読むと「しかし、イスラエルは知らず」という所で胸を突かれます。讃美歌の「ああベツレヘムよ」の「ひとみな眠りて知らぬ間にぞ/み子なるキリスト生まれたもう」を思い出します。誰もクリスマスを知らないのです。同じく、世の中には、誰も知らない悲しみや痛み、分かって貰えない苦しみも数多くあります。「夜」は相互交流が断絶し、孤独に悩む時間の象徴です。「同床異夢」です。しかし、クリスマスを知った私たちは、「知ったかぶり」と「知らん振り」を止めて、知ったことを元手にして、改めて生きることを始めたい。その時に「夜」は終わり、夜明けが来るのです。
朝日研一朗牧師