説 教 聖なる者となりなさい=@

聖 書 レビ記 19章1〜18節(p.191)
讃 美 歌 27、162、490、99、148、72、26
交読詩編 詩編70編1〜6節(p.79)
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。」(11:7,8)
1.《葦にも花が》 明治大正期の文豪、徳冨蘆花は「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを、余は却って愛するなり」と、筆名の由来を語っています。葦の花と言っても花ではなく穂先が暗い紫色に染まるのです。それを昔の人は「葦の花、蘆花」と呼んだのです。「見所とてもなき」と言われながらも、それでも「葦にも花がある」ことを覚えたいと思います。
2.《何を見るか》 洗礼者ヨハネはベドウェンの装束で、荒れ野に呼ばわりました。その姿は預言者エリヤの再来でした。「しなやかな服を着た人なら王宮にいる」と、主は仰いますが、皮肉なことにヨハネが斬首された時には、彼はマケルス要塞(ヘロデの離宮)の地下牢に幽閉されていたのです。かつてヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授けました。ヨルダン川には「風にそよぐ葦」が生い茂っていたはずです。日本の「暖竹」に当たりますが、ユダヤでは、この葦の茎から弓矢や笛が作られました。主が十字架に掛けられた時に、繰り返し現われる「葦の棒」です。私たちは毎日、何を見て過ごしているでしょうか。
3.《風穴が開く》 石川達三の長編小説に『風にそよぐ葦』があります。太平洋戦争開戦直後の言論弾圧「横浜事件」の中で苦闘する出版人の群像が描かれています。フォンテーヌの「樫と葦」の寓話も忘れてはなりません。洗礼者ヨハネは「樫の木」に、イエスさまの弟子たちは「風にそよぐ葦」にも思われます。茎は折れながらも、その信仰が現在の私たちに繋がっているからです。信仰者も牧師も揺らいでも良いのです。揺るがされまいと権威を楯に取るよりも、大風に揺らぎ、風穴が開けられて、そこから新しい風(アネモネ)が吹き込んで来る方が良いのです。主は最も弱い所に御力を顕わされます。
朝日研一朗牧師
1.雪降り止まず
先日、珍しく東京が大雪に見舞われました。と言っても、積雪が僅かに20センチ程です。東北や北海道、日本海側の出身者、あるいは、それらの地方での生活経験のある人は、むしろ、首都圏の公共交通機関と道路の混乱ぶり、マスコミの大騒ぎぶり(ハシャギぶり)の方をこそ訝しく思われたことでしょう。
一夜明けて、私は「雪かきスコップ」(2014年の大雪の後に教会で購入して貰った)を使って、教会の周りの雪撥ねをしていました。妻は牧師館の前に、1メートル程の小さな雪だるまを作っていました。それは、子猫か子狸のように耳と鼻の付いた動物の顔をした雪だるまでした。造型が優れていたと見え、その日、通り掛かりの若い女性たちが、雪だるまに目を留めて、ニッコリ微笑んだり、「見て、カワイイ」と会話しながら歩いているのを、何度も何度も目撃しました。
実は、その雪だるまの眼窩に、お化けの眼球(グルグルと緑色の紅彩が動く)を1つ嵌め込んでやろうか等と、私などは不穏なことを考えていたので、女の子たちの好反応、好評ぶりを見て、大きな敗北感を胸に抱いたのでした。やはり、私は性根が腐っているのです。妻がメルヘン系だとすると、私は根っからのホラー系の人間です。
午後になると、温かい陽射しを受けて雪は溶け、路面も乾いてしまいました。実に、東京の雪は呆気ないものです。雪国では、踏まれて汚れた雪が、そのまま凍て付いて固まってしまいます。その上から、その黒い雪を覆うようにして、また新しい雪が降ります。こうして根雪に成るのです。まさに「雪降り止まず」なのです。
2.欺く雪の白さ
そのようなことを思い巡らしながら仕事をしていると、奇しくも2014年1月に亡くなった吉野弘の詩「雪の日に」の一節が思い出されたのでした。吉野が混声/女性合唱組曲「心の四季」のために、自作の詩をアレンジした作品です。
♪「雪がはげしく ふりつづける/雪の白さを こらえながら//欺きやすい 雪の白さ/誰もが信じる 雪の白さ/信じられている雪は せつない//どこに 純白な心など あろう/どこに 汚れぬ雪など あろう//雪がはげしく ふりつづける/うわべの白さで 輝きながら/うわべの白さを こらえながら/雪は 汚れぬものとして/いつまでも白いものとして/空の高みに生まれたのだ/その悲しみを どうふらそう//雪はひとたび ふりはじめると/あとからあとから ふりつづく/雪の汚れを かくすため//純白を 花びらのように かさねていって/あとからあとから かさねていって/雪の汚れを かくすのだ」
♪「雪がはげしく ふりつづける/雪はおのれを どうしたら/欺かないで 生きられるだろう/それが もはや/みずからの手におえなくなってしまったかの/ように/雪ははげしく ふりつづける//雪の上に 雪が/その上から 雪が/たとえようのない 重さで/音もなく かさなっていく/かさねられていく/かさなっていく かさねられていく」。
合唱曲「心の四季」(全7曲)の第6曲目です。因みに、作曲は田三郎(1913〜2000年)です。現代日本を代表する作曲家ですが、カトリック初台教会に属する教会音楽家でもありました。「第2ヴァチカン公会議」(1962〜63年)によって、ローマカトリック教会はラテン語からの自国語による典礼へと大きく舵を切りましたが、以来、日本のカトリック教会の典礼改革をリードしたのが田三郎です。彼は、私たちの讃美歌集のためにも作曲してくれています。「讃美歌第二編」83番「呼ばれています」、「讃美歌21」131番「谷川の水を求めて」、409番「すくいの道を」です。
このような田の宗教的背景を考え合わせ、且つ、その田とのコラボということを念頭に置くと、吉野の「雪の日に」の歌詞には、また別の意味でも味わいが増して来るようではありませんか。「雪の白さを こらえながら」「どこに 純白な心など あろう/どこに 汚れぬ雪など あろう」「雪は 汚れぬものとして」「空の高みに生まれたのだ/その悲しみを どうふらそう」…。この辺りの歌詞が切なくて胸にグッと迫ります。私には、信仰を抱いて生きる者としての悲しみが込められているような気がしてなりません。
3.白雪の悲しみ
ロックミュージシャンの浜田省吾もまた、この吉野の詩にインスパイアされて「悲しみは雪のように」(1981年)という名曲を作りました。♪「誰もが 泣いてる/涙を 人には見せずに/誰もが 愛する 人の前を/気付かずに 通り過ぎてく//悲しみが 雪のように 積もる夜に…」。
当時、浜田の母親が脳梗塞に倒れて、意識不明の重体と成ったと言います。彼は深い悲しみと絶望に打ちのめされながらも、不思議なことに、人に対する慈しみの気持ちが湧き上がって来るのを感じたそうです。そんな気持ちの中から生まれた楽曲なのです。
その後、1992年にテレビドラマ『愛という名のもとに』(鈴木保奈美、唐沢寿明、江口洋介出演)の主題歌としてセルフリメイクされています。脚本を担当した野島伸司は、最初から「悲しみは雪のように」を念頭に置いてドラマを書いたと言われています。
「詩編」51編9節は「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」と、神に訴えます。「罪に汚れ果てた自分を潔めて欲しい」と祈っているのです。この詩編は古来、ダビデ王の懺悔の祈りと信じられて来ました。しかし「雪もまた自らの汚れを隠すために降り積もる」と、吉野弘は歌っています。それは、私たちが何度も同じ過ちを繰り返してしまう、その度し難さを思わせるのです。にも拘わらず、そのような人の営みに対しても尚、天から慈しみが与えられていることをも感じさせられるのです。
牧師 朝日研一朗
【2018年2月の月報より】
聖句「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。」(4:11,12)
1.《オツベルと象》 宮沢賢治が大正から昭和に元号が変わる年の1月に発表した童話です。農場に入って来た白象を、大農場経営者のオツベルが言葉巧みに鎖で繋ぎ止め、過酷な労働を強いるのです。時計や靴を「いいもんだ」と勧めるのですが、その正体は白象を縛る重い鎖や足枷なのです。私たちも、要らない物を押し付けられて、「いいね」と喜んでいるのかも知れません。
2.《白い象の伝説》 白象は平和と繫栄の象徴とされますが、その飼育には莫大な費用が掛かるために、王から家臣が白象を授与されるのは祝福であると同時に呪いでもありました。その説話は欧米に伝えられて、経費ばかり嵩む「無用の長物」を「ホワイトエレファント」と呼ぶように成りました。賢治の童話では、菩薩の象徴である白象が聖母マリアに祈りを奉げます。タイのプミポン国王は「足るを知る哲学」を説いて、自然と共生する農業共同体の理念を説きましたが、宮殿に7頭もの白象を飼っていました。割り切れなさが残ります。しかし、割り切れないのは、私たち自身の在り方とて同じです。
3.《良き道を行く》 如何にも貧相に思われるパウロですが、彼がローマ帝国の市民権を持っていたことを思えば、ユダヤの有力者の家庭に育ったことが推察されます。キリストの使徒と成ってからの窮乏ぶりは説明不要です。一旦、物質的な豊かさを手に入れると、それを捨てることは出来ません。イエスさまやパウロのように生きることは難しいのです。しかし、エルサレム教会を援助したコリントの信徒のように、パウロを支援したフィリピの信徒のように成ることは出来ます。それが「広い心/エピエイケイア」なのです。ここに、本当の「繫栄/エウオドー/良き道」、豊かに暮らす道があります。
朝日研一朗牧師
聖句「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」(6:5)
1.《ギリシア劇》 古代ギリシア演劇と言われても、私たちにとって馴染み深いものではありません。しかし、オーケストラ、シアター、シーン、コーラス、コメディ、トラジディ、パントマイム、ソックス等、ギリシア演劇に由来する用語は今も生きています。イエスさまの仰る「偽善者/ヒュポクリテース」もギリシア演劇の「役者」を意味する語です。仮面を被って所作をするのです。
2.《偽善者仮面》 古代ギリシア演劇では、舞台に立つ役者は二、三人に限定されていましたから、交替で仮面を取り替えながら演じました。役柄の性別や年齢や地位に合わせて仮面(プロソーポン)を被ったのです。この仮面をラテン語では「ペルソナ」と言います。『シン・ゴジラ』のゴジラの動きを演じたのは、狂言師の野村萬斎です。樋口真嗣監督によると、野村がお面を被った瞬間に「もう人では無くなっていた」そうです。同じく、仮面を被ることで、その役柄が役者に憑依するのです。聖書の「偽善者/役者」は、この社会の役割や立場、人の評価や自意識によって、素面の自分を見失ってしまった人たちのことです。
3.《解放の祈り》 現代においては、このイエスさまの御言葉は浅薄な「偽善者批判」の道具としてではなく、自己吟味のために読むべきです。私たちは、神さまの望まれる生き方をしているでしょうか。マザー・テレサが「解放」という祈りを残してくれました。愛され、評価され、認められたいという思い、見下されたり忘れられたり非難中傷されたりする恐れからの解放を祈ると共に、人間的な弱さを正直に告白しています。イエスさまは「役者じゃないんだから、仮面を被ったまま、お祈りしちゃダメだよ」と教えて下さっているのです。祈る時、人に向かって祈るのではなく、心を神さまに向けているでしょうか。
朝日研一朗牧師
聖句「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。」(4:2)
1.《牧師館殺人事件》 アガサ・クリスティの「ミス・マープル物」第1作ですが、この推理小説の御蔭で、牧師は中世ヨーロッパの荘園領主のような屋敷に住んでいるかのような印象を与えてしまいました。日本の牧師の住まいの現実は「牧師宿舎」と呼ぶのが相応しいと思います。因みに『牧師館殺人事件』の翻訳者の1人には、牧師の子として生まれ育った中村妙子も居られます。
2.《都合の良し悪し》 所謂「牧師館」に訪ねて来られる人の中には、所用の会員や教友のみならず、飛び込みの相談者もあります。牧師も生活者ですから、都合の悪い時もあります。その時、脳裏を掠めるのは「どんな場合にも」「良き音ずれをもたらす者」として「自分の務めを果たしなさい」と勧める、この聖書の段落です。これまでは専ら、私の側の「都合の良し悪し」や「便不便」に関係なく「福音を宣べ伝えなさい」という内省的な勧めとして語られて来ましたが、それは余りに限定的ではないでしょうか。「折」と訳された「カイロス/時」は、量的な時間(クロノス)ではなく、神が与えられるチャンスです。
3.《時代と共にある》 時計の針が文字盤に刻む時ではなく、私たちの魂に刻まれた時なのです。故に永遠と繋がる「霊的な時間」でもあるのです。但し、聖書の神は、人間の歴史に生きて働かれます。この時代と無関係ではありません。私たちが生きる時代も、神からチャレンジとして与えられたものです。「御言葉」はキリスト・イエス、「励みなさい」は「傍らに立つ、先頭に立つ、歩み寄る」です。悩む人の側に立つ主の御姿、時代の先頭に立ち、時代状況に歩み寄るのです。勿論、時流に上手く乗るとか、時代に迎合するとかの意味ではありません。時に誤りを指摘したり、時に慰め励ます。これが私たちの役割です。
朝日研一朗牧師