2018年02月27日

3月第1主日礼拝(レント第3主日)

       3月 4日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 希望は生まれて来るもの=@音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 5章1〜11節(p.279)
讃 美 歌  27、131、490、570、311、73、28
交読詩編  詩編27編7〜14節(p.32)

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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2018年02月26日

実らない無花果(イチジク)【ルカ13:6〜9】

聖句「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」(13:8,9)

1.《照る山紅葉》 京都に暮らすご夫妻の話です。庭の山紅葉が紅葉しなくなったので、植木屋に植え替えさせようとしました。植木屋は「紅葉が可哀想です。もう少し待ってください。山の上では綺麗に照っていたのです」と言いました。その会話を、まるで紅葉の精が聞いていたかのように、翌年の秋には紅葉したと言います。まるで能楽の『六浦』のような話ではありませんか。

2.《色々な実り》 パレスチナ地方の無花果は、夏と秋、年に2回実を付けるそうです。神さまが実りを期待して居られる無花果は「神の民」、教会です。実を付けなかった「3年間」は「長い間」の意味です。但し、求められているのは「悔い改めの実」と限ったものではありません。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5章22節〜)。神さまは何もかもを要求されてはいません。どれか1つで良いのです。他の人と同じ実を付ける必要はありません。自分らしい実りで良いのです。むしろ、自分自身が実りであり、私の人生そのものが主に奉げるべき実りなのです。

3.《未来の実り》 葡萄園の園丁であるイエスさまは、自分を信仰者、義人、救われた者と自惚れている人たちに向かって「悔い改めよ」と言われました。しかしながら、主は罪人を招かれ、滅ぶべき者とされた徴税人や娼婦と共にあり、慰め励まされました。実りを期待されているのは事実ですが、翻訳の「来年は…」は不正確です。ギリシア語原典は「これから先、この後、将来」です。猶予1年では無かったのです。イエスさまは借金の取立人のように期限を切ったり、ノルマを課したりしているのでは無かったのです。人生も信仰もゆっくりと時間を掛けて、腰を据えて掛からないと実を結ぶことはありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2018年02月20日

2018レント〜イースター案内

2018年のレント〜イースター案内です。


レント〜イースター案内のパンフレットの表紙

朝日牧師メッセージ「皆、これを飲み干せ」
       シンボル       シンボル
レント〜イースターの諸行事スケジュール
シンボルシンボル
posted by 行人坂教会 at 22:15 | 教会からのお知らせ

2月第4主日礼拝(レント第2主日)

       2月25日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 実らない無花果(イチジク)音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 13章6〜9節(p.134)
讃 美 歌  27、162、490、291、313、26
交読詩編  詩編70編1〜6節(p.79)

讃美歌練習(3月の月歌:131番)  礼拝後    礼拝堂


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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2018年02月19日

みんな笑った【ヨハネ13:31〜35】

聖句「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)

1.《ユニバーサル》 高橋優の「福笑い」(2011年)は「きっとこの世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」と歌っています。彼はNYタイムズ誌に、このメッセージ公告を出して、NYで路上ライヴを敢行しました。「共通言語」を「common language」ではなくて「universal language」と訳していました。彼は「英語の通用性」ではなく「笑顔の普遍性」を言いたかったのです。

2.《エスペラント》 19世紀にユダヤ系ポーランド人のザメンホフ博士が「普遍的言語」を創案しました。4つの民族が暮らす街に育ち、争いが絶えないのを見て育ったザメンホフは、共通言語による対話と相互理解を願ったのです。母語に成り代わるのではなく、飽く迄も補助言語です。エスペラントが「野望の言語」ではなく「希望の言語」と言われる所以です。言語は暴力的な面があります。言語は私たちに新しい観念や価値観を与えて解放してくれる反面、力によって文化や感性を奪い、一方的に価値を押し付けて来るのです。その点、信仰とも似ています。「バベルの塔」が解放の物語でもあったことを忘れてはなりません。

3.《心に微笑みを》 聖書に「笑顔」を探してみましたが、余り良いものとして扱われていません。イサクの誕生を予告されたアブラハムとサラは、神の御告げを嘲笑います。福音書を見ても、イエスさまが「笑った」とは書いてありません。その結果、キリスト教会は笑いを抑圧する結果と成ったのです。でも、私たちの心に描くイエスさまは、いつも微笑んで居られます。「あなたがたを愛している」と仰る主は、暖かな笑顔に溢れています。笑顔が共通言語であるのと同じく、「互いに愛し合いなさい」の福音もまた、共通言語です。何かを押し付けなくても、誰かを支配して裁かなくても、喜びが私たちを包むのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

レント(受難節)に入りました

2月14日(水)からレント(受難節)に入りました。 2月18日(日)から消火礼拝を行っています。

レント(受難節)

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2018年02月13日

2月第3主日礼拝(レント第1主日)

       2月18日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 みんな笑った=@音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 13章31〜35節(p.195)
讃 美 歌  27、162、490、480、306、26
交読詩編  詩編70編1〜6節(p.79)

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posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2018年02月12日

始末の極意【マタイ27:3〜10】

聖句「…イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして…。」(27:3)

1.《節約の名人》 上方落語に「始末の極意」という噺があります。中でも「ケチと鰻屋」と呼ばれる話が傑作です。鰻屋の隣に暮らす節約名人が蒲焼きの匂いをオカズにして御飯を食べていました。それを知った鰻屋は「匂いも客寄せに使っている売り物」と名人に代金を催促します。名人は財布を取り出して、鰻屋の前で銭を落として「嗅ぎ賃やさかい、音だけでよろしかろ」と応じるのです。

2.《ユダの汚名》 イスカリオテのユダの汚名は「裏切り者」と「守銭奴」です。「ヨハネによる福音書」12章「ベタニアで香油を注がれる」の挿話と解説によって、ユダが「金入れ」を預かっていながら使い込みをしていたとされるのです。しかし、彼が会計を託されていたのは彼の有能さの証明であり、彼が横領していたと言われても、イエスさま一行に潤沢な資金が集約されていたとも思われません。「マルコによる福音書」6章「5千人に食べ物を与える」の挿話では、一行の資金では群集の食費を賄い切れない様子です。ユダの預かっていた「金入れ/グローソッコモン」も「貯金箱」「小箱」のような物だったのです。

3.《問題の共有》 ユダは「裏切りの報酬」銀貨30枚も突き返しています。彼が投げ捨てた銀貨を運用して、祭司長たちが「ヒノムの谷/ゲー・ヒンノム」に土地を買ったというのは「汚いユダは地獄(ゲヘナ)行き」という暗示です。ユダが自殺をした副作用で、教会では長い間、自死を罪悪とし、自死者とその遺族に対して冷酷な仕打ちを続けて来ました。日本社会でも自死はタブー視されています。しかし、ユダは悔い改めて罪の告白をしているのです。イエスさまがお救いにならないはずはありません。むしろ、悩み苦しむ者を「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と突き放す、私たちこそが問題です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:24 | 毎週の講壇から

2018年02月06日

2月第2主日礼拝(信教の自由を守る日)

       2月11日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 始末の極意=@音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 27章3〜10節(p.56)
讃 美 歌  27、162、490、291、137、26
交読詩編  詩編70編1〜6節(p.79)


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2018年02月05日

聖なる者となりなさい【レビ19:1〜18】

聖句「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19:2)

1.《聖☆おにいさん》 10年以上も連載が続く中村光のギャグマンガです。ブッダとイエスがバカンスとして立川の安アパートでルームシェアをしているという設定です。二人は「聖人」を名字と勘違いした大家から「聖さん」と呼ばれています。淡々とした若者の日常生活が描かれ、そのリアルな生活感と宗教ネタのギャグとが、絶妙のバランスを生み出しているのが人気の秘密でしょう。

2.《聖とされたもの》 「聖」とは何でしょうか。私たちの身の周りにある「聖」と称されるものに思いを巡らしてみましょう。「聖書」「聖歌隊」「聖日」「聖餐式」「聖霊」…。そんなに多くはありません。プロテスタントでも、特に「聖潔」を重んじる教派、「聖会」をする福音派の教会もあります。しかし、圧倒的に「聖」が多いのは、やはりローマカトリック教会です。「聖人」「列聖」「守護聖人」「聖地」「聖家族」「聖母」「聖水」「聖職」「聖務日課」「聖省」「聖劇」「聖週」「聖婚」「聖十字架」「聖堂」…。さて、聖書は、教会の共同体を「聖徒、聖なる者」と呼んでいますが、それは本来どのような意味だったのでしょうか。

3.《日常生活の中に》 「使徒信条」の中にも「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と告白されています。個々人が「聖なる人」ではありません。私たち自身は「聖人、義人」ではありません。その「交わり」、コミュニティが聖霊によって聖とされるのです。レビ記の「聖潔法典」を見ると、母父を敬うこと、礼拝や献金、社会的弱者への配慮、正しい司法、復讐の否定、愛の教えと続き、全て社会生活の中の教えであることは明らかです。毎日の暮らしがあり、暮らしを営む私たちがあり、そこに聖なる主が共に居られて、それで初めて「聖なる」が生きて来るのです。これこそが「聖なる共同体」の姿なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から