明日はイースターです。 教会学校のこどもたちがイースターエッグを作りました。

今年も教会の庭にハナニラ("ベツレヘムの星")がたくさん咲きました。

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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「人の子が栄光を受ける時が来た。…一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:23,24)
1.《何かの合図》 イエスさまのエルサレム入城を、群衆がナツメヤシの葉を振って歓迎した日です。群衆は「ホサナ」と歓呼しました。「ホサナ」は「詩編」118編25節の「今、救い給え」に由来する祭りの掛け声です。「救い」を意味するイエスさまの名前ともリンクしています。初代教会では挨拶として使われました。単なる挨拶にも、自らが何者であるかを確認する徴、合図があるのです。
2.《訣別の宣言》 入城後、ギリシア人がイエスさまへの面会を問い合わせて来ました。ユダヤ人が異邦人と接することを避ける時代状況にしても、随分と遠回しな交渉をしています。しかも、その後、主が彼らと面会して話したのかどうかすら記されていなくて、とても奇異な印象を受けます。この件を耳にしたイエスさまは「時が来た」と宣言されます。これまで「私の時は未だ来ていません」と仰っていたのです。つまり、ベタニアで香油を注がれて「メシア」、「ホサナ」の歓呼によって十字架の贖い、この訪問によって異邦人の救いと、主の目的が明確にされるのです。これは、神さまからイエスさまへの合図だったのです。
3.《自分に死ぬ》 日本では「死んで花実が咲くものか」「命あっての物種」と言います。ところが、イエスさまは「麦は死んでこそ実る」と仰るのです。「死ぬ/アポトネースコー」は「枯死」を意味します。麦本体は枯死するのですが、蒔かれた種は生きているのです。麦粒が蒔かれて発芽し、育って行くためには、それ相応の時間が掛かるのです。私たちはインスタントに慣れ、信仰を舐め切っていて、レンジで1分温めればキリスト者が出来ると思い込んでいます。自分が収穫を味わうことを期待するのです。けれども、本当にイエスさまにお仕えするクリスチャンに成るのは、私たちの一生涯の課題なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。」(9:9)
1.《黒人のイエス》 私たちは、欧米の聖画や映画の影響で、金髪碧眼のキリストに違和感を抱きません。しかし、米国の黒人たちにとっては、イエスさまは黒人なのです。インマヌエルの主、苦難の時にも共に居られる主は、彼らの友であり兄弟だからです。他方、ナチスが、アーリア人種にして反ユダヤ主義者のイエスを喧伝したことも忘れてはなりません。キリスト信仰を、民族差別や他者への憎悪を煽る道具に利用してはならないのです。
2.《インマヌエル》 小友睦牧師が「イエス自身、体のどこかに障碍を持っていた。あるいは、障碍を持っていた家族がいた。そうでなければ『神の業がこの人に現われるためである』と言うことは出来なかった」と書いて居られました。どうして私たちの思い描くイエスさまは、いつも「健常者」の御姿なのでしょう。勿論、歴史上のイエスという男は黒人ではなくユダヤ人だし、特に目立った身体障碍を抱えてはいなかったでしょう。しかし、インマヌエルのキリストは障碍者であったかも知れません。十字架に磔にされたイエスさまは、もはや身体の自由を全て奪われました。それが故に、彼は紛れも無き神の子なのです。
3.《マニフェスト》 『七人の侍』の菊千代が、野武士に家族を皆殺しにされた乳飲み子を抱いて「これは…俺だ!」と叫ぶ場面があります。主に癒された盲人も「それは私のことです」と言います。近所の住民たちが本人を差し置いて、あれこれ言い合う中で宣言するのです。周囲の人たちは、イエスさまの奇跡を認めることが出来ないのです。患者、障碍者、犯罪被害者、被災者の自身が中心に置かれること、それが「当事者性」です。「神の業が現われるため」の「現われる」は「マニフェーストー/公に現わして行く」ことです。
朝日研一朗牧師
聖句「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(6:26)
1.《最後の警告》 福島第一原発の過酷事故が起きた時、私は、亡き高木仁三郎の声を聴きたいと思いました。彼は1986年に『チェルノブイリ:最後の警告』を出版し、1995年の阪神淡路大震災直後から原発の地震対策について警告を発していました。そうしてみると、福島原発の大事故は「想定外」ではなくて、十分に「想定内」だったと言わざるを得ないのです。
2.《危機と破局》 富坂キリスト教センター主催の研究会で、高木仁三郎は生態学的破局の預言として「創世記」の洪水物語を引用なさっていました。他にも旧約聖書には、原発の冷却水、放射能の雨、体内被曝などと関連させて読むことの出来る箇所があります。複雑な問題が山積する現代では、単純に「自然」をテーマに聖書箇所を選ぶことも、1箇所に特定することも困難です。しかし、私たちが聖書を読む前に、既に私たち自身の側が、聖書によって読み込まれていると思われる瞬間があるのです。「空の鳥、野の花」として知られる今日の箇所も、そんな箇所の1つではないでしょうか。
3.《認識の変革》 荒井献は「野の花」を「薊」、大貫隆は「空の鳥」を「カラス」と同定して「汚らわしいもの」「差別されたもの」と解釈しています。しかし、預言者エリヤを養ったカラスの例もあります。エリヤにとっては、空から糧を運んで来てくれるカラスは、あたかも天使のようだったと思います。リチャード・ニーバーは「動物、無機物、天使」を人間の隣人として挙げました。目に見えない天使を隣人と捉えるならば、私たちの世界観は大きく変わります。「御蔭様で」と言う時、自分独りで生きているのではないことを、私たちは確認しています。その象徴が「カラス」であり「天使」ではないでしょうか。
安田治夫牧師(文責:朝日研一朗)