2018年03月19日

それは私のことだ【ヨハネ9:1〜12】

聖句「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。」(9:9)

1.《黒人のイエス》 私たちは、欧米の聖画や映画の影響で、金髪碧眼のキリストに違和感を抱きません。しかし、米国の黒人たちにとっては、イエスさまは黒人なのです。インマヌエルの主、苦難の時にも共に居られる主は、彼らの友であり兄弟だからです。他方、ナチスが、アーリア人種にして反ユダヤ主義者のイエスを喧伝したことも忘れてはなりません。キリスト信仰を、民族差別や他者への憎悪を煽る道具に利用してはならないのです。

2.《インマヌエル》 小友睦牧師が「イエス自身、体のどこかに障碍を持っていた。あるいは、障碍を持っていた家族がいた。そうでなければ『神の業がこの人に現われるためである』と言うことは出来なかった」と書いて居られました。どうして私たちの思い描くイエスさまは、いつも「健常者」の御姿なのでしょう。勿論、歴史上のイエスという男は黒人ではなくユダヤ人だし、特に目立った身体障碍を抱えてはいなかったでしょう。しかし、インマヌエルのキリストは障碍者であったかも知れません。十字架に磔にされたイエスさまは、もはや身体の自由を全て奪われました。それが故に、彼は紛れも無き神の子なのです。

3.《マニフェスト》 『七人の侍』の菊千代が、野武士に家族を皆殺しにされた乳飲み子を抱いて「これは…俺だ!」と叫ぶ場面があります。主に癒された盲人も「それは私のことです」と言います。近所の住民たちが本人を差し置いて、あれこれ言い合う中で宣言するのです。周囲の人たちは、イエスさまの奇跡を認めることが出来ないのです。患者、障碍者、犯罪被害者、被災者の自身が中心に置かれること、それが「当事者性」です。「神の業が現われるため」の「現われる」は「マニフェーストー/公に現わして行く」ことです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2018年03月14日

教会の外の掲示板

教会の外の掲示板です。時々「言葉」が変わります。道行く人が立ち止まって眺めておられます。

教会の外の掲示板
posted by 行人坂教会 at 23:23 | 教会アルバム

2018年03月13日

3月第3主日礼拝(レント第5主日)

       3月18日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 それは私のことだ=@音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 9章1〜12節(p.184)
讃 美 歌  27、131、490、446、302、28
交読詩編  詩編27編7〜14節(p.32)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2018年03月12日

空の鳥をみよ【マタイ6:25〜34】

聖句「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(6:26)

1.《最後の警告》 福島第一原発の過酷事故が起きた時、私は、亡き高木仁三郎の声を聴きたいと思いました。彼は1986年に『チェルノブイリ:最後の警告』を出版し、1995年の阪神淡路大震災直後から原発の地震対策について警告を発していました。そうしてみると、福島原発の大事故は「想定外」ではなくて、十分に「想定内」だったと言わざるを得ないのです。

2.《危機と破局》 富坂キリスト教センター主催の研究会で、高木仁三郎は生態学的破局の預言として「創世記」の洪水物語を引用なさっていました。他にも旧約聖書には、原発の冷却水、放射能の雨、体内被曝などと関連させて読むことの出来る箇所があります。複雑な問題が山積する現代では、単純に「自然」をテーマに聖書箇所を選ぶことも、1箇所に特定することも困難です。しかし、私たちが聖書を読む前に、既に私たち自身の側が、聖書によって読み込まれていると思われる瞬間があるのです。「空の鳥、野の花」として知られる今日の箇所も、そんな箇所の1つではないでしょうか。

3.《認識の変革》 荒井献は「野の花」を「薊」、大貫隆は「空の鳥」を「カラス」と同定して「汚らわしいもの」「差別されたもの」と解釈しています。しかし、預言者エリヤを養ったカラスの例もあります。エリヤにとっては、空から糧を運んで来てくれるカラスは、あたかも天使のようだったと思います。リチャード・ニーバーは「動物、無機物、天使」を人間の隣人として挙げました。目に見えない天使を隣人と捉えるならば、私たちの世界観は大きく変わります。「御蔭様で」と言う時、自分独りで生きているのではないことを、私たちは確認しています。その象徴が「カラス」であり「天使」ではないでしょうか。

安田治夫牧師(文責:朝日研一朗)

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2018年03月06日

3月第2主日礼拝(レント第4主日)

       3月11日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教  空の鳥をみよ=@音楽     安田治夫牧師
聖  書  マタイによる福音書 6章25〜34節(p.10)
讃 美 歌  27、131、490、361、496、28
交読詩編  詩編27編7〜14節(p.32)

・青空カフェ(安田牧師を囲んで)  礼拝後    階下ホール

・・・当日の音声録音を聴く
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2018年03月05日

希望は生まれて来るもの【ローマ5:1〜11】

聖句「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(5:3-5)

1.《希望の種》 若者が愛と平和と喜びを求めて巡礼の旅に出ますが、行く先々で彼が目にしたのは、悲しみと憎しみに満ちた世界でした。やがて何でも望むものがあるという店に辿り着き、彼は願いを語ります。しかし、彼が手にしたのは買い物リストだけでした。店の主人は「この店では果実は売っていないのです。ここでお売りできるのは種だけなのです」と言います。

2.《巡礼の旅》 寓話を紹介しているマーガレット・シルフは英国の作家で、エキュメニカルの黙想会を主宰する人です。店主は「人生のガイド」を思わせます。自分の中にある思いを、心を込めて柔らかく結んで行くことで言葉にすることで「希望の種」が生まれます。聖地「巡礼」は「贖罪」「功徳を積む」「願掛け」を目的としていたために、「信仰義認」の立場から、プロテスタント教会では廃棄されました。しかしながら「巡礼」の語源(ペレグリーノル)はラテン語の「故郷を離れて、旅回りの」で「よそ者」を意味します。「我が故郷は天にあり」を身上とする私たちにとって「巡礼」は自らの人生の隠喩なのです。

3.《種蒔く人》 パウロの時代の信徒にとっても、人生は「巡礼」のように「苦難」の連続でした。「苦難」は「圧迫」の意味です。極端な迫害でなくても、同調圧力の強い日本社会の中で、私たちも感じるものです。「忍耐」は「持ち堪える」です。一般に「練達」は「試練を経て本物と証明される」と解されますが、私は「信仰の受容」と考えます。オンボロな私たちの信仰ですが、その恥ずかしいような自分も教会も周りの人たちも丸ごと受け入れるのです。その時「苦難、忍耐、練達」の混じった土の中から「希望」が芽吹くのです。いずれ神にお奉げする実りです。私たちは人と人の間に種を蒔いて参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から