説 教 祈りはシンフォニー=@

聖 書 マタイによる福音書 18章18〜20節(p.35)
讃 美 歌 27、316、490、500、101、77、89
交読詩編 詩編32編1〜7節(p.37)
・みんなで会堂掃除 礼拝後 会堂・階下ホール
・青空カフェ 礼拝後 玄関バルコニー
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」(5:13)
1.《現場を大切に》 バラエティ番組で「料理が出て来るのが速い店」ランキングをしていました。その背景に政府や企業が推進する「働き方改革」「時間短縮」があると知ってゲンナリしました。「上」から命じられることは、実際には待遇改善に結び付きません。却って「改悪」「害悪」に成る場合が多いのです。どの業種にせよ、真の改革は「現場」から始まるのです。
2.《コンテキスト》 聖書の諸文書にも各々の「現場」があるのです。イエスさまの御言葉の受け止め方が、福音書によって異なるのも、パウロの手紙の内容が宛て先によって異なるのも、現場である教会が異なり、抱えている課題が違うからです。それを「コンテキスト/文脈」と言います。単なる文章の前後関係のことではなく、文書が書かれた時代背景や状況、そこに生きた人たちの信仰を丁寧に解きほぐして吟味するのです。そのためには、私たちもまた、常に自らの「現場」から考え、発言して行くことが求められているのです。
3.《教会に留まる》 「忍耐」は「マクロス/大きい」と「テュミア/心」で「寛大な心」です。「気長に、根気強く待つ」ことです。苦難の時の「忍耐」には「ヒュポメノー/生き永らえる、持ちこたえる」が使われています。恙無く過ごす平穏な日々も、苦難に見舞われ悩む日々も、大切なのは祈りと賛美です。苦しい時に神に祈るのは当たり前ですが、上手く行っている時にも、その喜びを神への賛美に向けるのです。共に賛美する時、そこには悩み苦しむ人もいて、それは1つに溶け合って、嘘偽りのない真の賛美へと昇華されるのです。教会生活こそは私たちの「現場」、人生の「場面」、私の「所在地」なのです。
朝日研一朗牧師
1.グッドニュース
先日、銀座「教文館」に行った帰り道、妻が「子どもらにお土産を」と「大角玉屋」で和菓子を買いました。その際、栗が丸々1個入った「どら焼き」がショーケースに展示してあり、商品名が「福音」と成っていてビックリ(!)。けれども、改めて熟視してみると、小さく「Fukune」と別記されていました。後で聞けば、この店の看板商品との由。何でも「ふくいん」と読んでしまう、これ等も職業病の一種でしょう。
聖書の用語「福音」は、ヘブル語の「ベソーラー」、ギリシア語の「エウアンゲリオン」から来ています。「良き音ずれ、良い知らせ」という意味です。英訳聖書では、伝統的に「ゴスペル/the gospel」と訳されていましたが、最近では「グッドニュース/the good news」の訳語を当てる聖書が多く成りました。
『がんばれ!ベアーズ』(1976年)という少年野球を題材にした映画がありました。リトルリーグの最下位チーム「ベアーズ」に、吞んだくれのコーチ兼監督(ウォルター・マッソー)とその娘のピッチャー(テイタム・オニール)がやって来て、遂に決勝戦にまで進出するという作品でした。女子のピッチャーと言うと、私たちにとっては「水原勇気」、水島新司のマンガ『野球狂の詩』(1972〜77年)が思い出されますが、ポール・R・ロスワイラーの小説『赤毛のサウスポー』(The Sensuous Southpaw/1976年)の影響でしょう。阿久悠が作詞したピンク・レディーの「サウスポー」の出典でもあります。
さて、『がんばれ!ベアーズ』の原題は「The Bad News Bears/悪い噂のベアーズ、厄介なベアーズ」です。勿論、これは「The Good News for Mr.So-and-so/誰某に福音(朗報、耳寄りな知らせ)!」という定番の商品広告を思い出させるものです。
2.悪い噂の福音派
5月14日、ドナルド・トランプが在イスラエルの米国大使館を、テルアビブからエルサレムへ移転したことで、中東情勢が極度に悪化しています。ガザでの騒乱だけではなく、イランとの間で戦争まで勃発しそうな気配です。5月9日のイラン核合意からの米国の離脱、イランに対する経済制裁の復活も含めて、米国のイスラエルロビーの介入が露骨です。
それはともかく、昨今の日本のテレビニュースや新聞記事では、それに関連して、トランプの偏った「イスラエル支持の背景には、米国の有権者の4分の1を占めるキリスト教福音派の票取りの目論見がある」と解説されているのです。NHKのキャスターが、まるで鬼の首でも取ったようにフリップを捲ると「福音派」という文字が登場します。日頃から日本の政治に対しては、無批判なキャスターなのに、トランプやイスラエルの時には「由々しき問題」という面立ちで語っていて、非常に腹が立ちます。
そもそも「福音派/Evangelicals」というのは、非常に大雑把な括りです。その信仰も政治的立場も多種多様なのです。それを、多くの日本人がキリスト教について無知であるのを良いことに、したり顔で「福音派」が原因のように言うのです。
「プロテスタンティズム/Protestantism」の訳語は「福音主義」なのです。つまり、広義においては、私たちの教会も「福音主義」なのです。しかし、プロテスタント諸派の枠組みの中で、敢えて「福音」の看板を掲げる場合には「自由主義神学の立場を取らず」のニュアンスに成ります。「福音派」の多くは「聖書無謬説」の立場を取っていますが、その殆どは一言一句ではなく、「全体として」聖書は真理であるという主張をしています。お互いの相違についても、割合に鷹揚なのです。私自身は「聖書無謬説」を採りませんが、それもまた、信仰の1つだと認めたいと思います。
但し、その中には、頑なまでに「聖書無謬説」を主張する人たちがいます。彼らのことを「原理主義者/Fundamentalists」と言います。彼らが一般の「福音派」と異なるのは、自分たちの意見を採らない者に対して「敵対者」のレッテルを貼り、憎しみを煽り、より攻撃的に成っていることです。簡単に言えば「二元論」に陥っているのです。これは、かなり有害です。その意味では、キリスト教など何も知らないくせに、十把一絡げに「福音派」を悪者扱いする日本のマスコミも、同じく「二元論」に陥っていると申せましょう。
3.安易なレッテル
真に恐るべきは、安易な「レッテル貼り」です。16億人のイスラーム(ムスリムとムスリマ)が全員「イスラム国/ISIL」ではありません。その多くは穏やかで敬虔な人たちです。また、米国の有権者の4分の1を占める「福音派」の信仰を持つ人たちが皆、イスラームを憎んでいる訳でもありません。その殆どは愛と正義を重んじる人たちです。「聖書無謬説」を採る人たち誰もがトランプの仲間ではありません。その多くは生活困窮者です。
今の世の中は、世界が高度に情報化され、ネットワーク化された反動として、体温を感じるような確かな出会いや安心感が失われているのだと思います。その代わりに、ネットやメディアを通して、表面的な知識や一面的な理解だけが先行して、安易な「レッテル貼り」が横行する結果と成っているのでは無いでしょうか。
米国では「歴史的な教会が凋落することで、悪い宗教団体が台頭している」との警告があります(「ニューヨーク・タイムズ」のコラムニスト、ロス・ドウザット)。個々人は真面目な、敬虔な人たちであっても、悪い宗教団体の指導者(彼らは常に「断言」口調です)によって、その政治的志向によって、簡単に操作されたり、誘導されたりしてしまう。そのような状況も起こっているようです(その際に、聖書の言葉を引用します)。
私たちは、キリストの「福音」を信じる者ですから、安易で危険な「レッテル貼り」をする事にもされる事にも、十分に気を付けて、喜びの和音を奏でたいと思うのです。
牧師 朝日研一朗
【2018年6月の月報より】
聖句「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」(4:29)
1.《出る杭は》 アンドレ・レノレ神父は「労働司祭」として、川崎の建設現場で働き、仲間と共に「貸工」の労組を結成しました。彼の『出る杭はうたれる』は25年前の著書ですが、日本社会が個々人を大切にせず、個性や主体性を圧殺する全体主義的傾向(権力構造)が余り変わっていないことを思わされます。しかし、その中にあっても、声を上げる人たちは確実に増えているのです。
2.《仲間の所》 聖霊降臨と言うと、2章ばかりが採り上げられ、「激しい風」や「炎の舌」等の表面的な描写に囚われがちです。「多言語」か「異言」かの解釈の対立もあります。けれども、大切なのは使信(メッセージ内容)です。4章にも「新しい聖霊降臨」と呼ばれる場面があるのです。神殿の境内で、キリストの死と復活を宣べ伝えた廉で、ペトロとヨハネは逮捕され、最高法院の議員たちの前で証を立てるのです。九死に一生を得て釈放された二人は「仲間のところ」へ戻って来ます。仲間と言っても数人、10人弱に過ぎません。
《大胆不敵》 その仲間たちが「心を一つにし、神に向かって声を上げて」祈った時、聖霊降臨の出来事が起こったのです。「心を一つに」は「命を合わせる」ことです。しかも、彼らは神の助けではなく、大胆に御言葉を語るための勇気を祈り求めたのです。我が身可愛さに主を裏切り見捨てた弟子たちが、自らの弱さと罪、主の赦しの力の大きなことを体験したればこその祈りです。「大胆に」とは「言論・行動の自由、確信をもって」の意味です。自由意志の奪われた「迷信・妄信」ではありません。「大胆不敵」と言いますが、私たちも少数者ながら、誰をも敵とせず、勇気と確信をもって「声を上げ」たいものです。
朝日研一朗牧師
聖句「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。」(15:20)
1.《海星と暁星》 カトリック教会では「聖母マリア」に「海の星」「暁の星」という称号を冠しています。学校の「海星」「暁星」もマリア会の設立です。航海技術の発達していない時代、夜に海上を行く人たちは北極星と金星を頼りにしていたのです。そこから、人生行路を渡る時に、明らかに道を示してくれるのが「海の星」なる「聖母マリア」であるとの信仰が生まれたのでしょう。
2.《海の雫から》 カトリックの国に行くと、海辺や岬に聖母マリアの像や教会が建立されています。聖母賛歌には「めでたし海の星」と歌われています。マリア、即ちミリアムの名前の意味を「海の星」と言ったのは、「ウルガタ聖書」の翻訳で知られるヒエロニムスとされています。しかし、ヒエロニムス自身は「海の雫」としていたらしい。実は、写本で「海の雫」が「海の星」と誤記されてしまったのです。その後、ローマ教会は現世権力と結び付き、「マリア崇敬」を推し進め、遂にマリアは「天の元后」とされ、王冠に星を輝かせる図像で描かれるように成ってしまったのです。誤記も意図的なものだったのかも知れません。
3.《大海の一滴》 マリアの原型であるミリアムは、「葦の海」の奇跡が起こった時、主を賛美する「海の歌」を踊り歌いました。「デボラの歌」と並んで、旧約聖書最古の詩文とされています。文字が出来て文書化され編集される遥か以前から、何百年も口伝として、親から子へ子から孫へと歌い継がれていたのです。聖書の御言葉は、私たちが「海の雫」の一滴を取り出して吟味する時、「海の星」として輝きを放つのです。ミリアムは「水」と結び付いた存在です。彼女が死んだ時、忽ち民は枯渇するのです。因みに、現代では「ミリアム」の名前は、古代エジプト語の「愛」から来ているというのが定説です。
朝日研一朗牧師