2018年07月17日

7月第4主日礼拝

       7月22日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 一人の子を受け入れるなら=@   朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 9章33〜37節(p.79)
讃 美 歌  27、121、490、105、505、24
交読詩編  詩編52編1〜11節(p.61)

・讃美歌練習(8月の月歌:372番)   礼拝後   礼拝堂

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2018年07月16日

どっこい生きてる【Uコリント6:1〜10】

聖句「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず…」(6:9)

1.《半分半分》 解剖学者の養老孟司は見ず知らずの学生から「もう死んだと思っていました」と言われて面食らったそうです。昔から「棺桶に片足を突っ込んでいる」と言いますが、自分から宣言すると超越的な響きがあります。ソチ五輪の後、記者会見で浅田真央が自身の進退を「ハーフハーフ」と答えました。「中途半端」と違い、「宙ぶらりん」は大変な緊張を強いられるのです。

2.《テレーマ》 タロットに「逆さ吊りの男」というカードがありますが、ウェイト版では、T字型十字架に吊るされた男に後光が差しています。罪人ではなく聖人なのです。その意味は「テレーマ/汝の意志するところを行なえ」と言われています。スランプに喘ぐアスリートや芸術家を励ます言葉にも思われますが、本来は、聖書のギリシア語「御心」です。「御心の天に成る如く」の「御心」、「私の願いではなく、御心が行なわれますように」の「御心」です。ゲツセマネでは、神の独り子ですら「御心」が分からずに苦しみ祈られたのです。御心は自明ではなく「心を新たにして自分を変えて頂く」ことが前提なのです。

3.《どすこい》 パウロは自分たちが出遭った幾多のトラブルを挙げると共に、それに対して、如何なる態度で向き合って来たかを語ります。そのトラブルには「抑圧」や「行き詰まり」など、現代社会と教会が直面する問題が含まれています。私たちも「宙ぶらりん」の状態で引き裂かれているのです。しかし、こんな時代であれば尚更、世間の評価ではなく、神さまとの関係を大切にしましょう。「見よ、私たちは生きている」「見よ、今や恵みの日」と言われています。世の人が誰も見ようとしない「御心/テレーマ」にこそ、私たちは目を向けましょう。それこそが「どっこい」「どすこい!」なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年07月11日

旭日亭菜単(続き)その46

  • 「ボルヘス怪奇譚集」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサーレス編、柳瀬尚紀訳、河出文庫)
    このような本が寝床に無ければ、私の安眠はありません。例えば、死刑囚の最期を淡々と描いたO・ヘンリーの「夢」は、一切の叙情を排していながら幻想的で(アンブローズ・ビアスみたい)、これが、あの「最後の一葉」や「賢者の贈り物」の作家の手に成るものなのかと仰天します。しかも、作者の死によって、小説は死刑直前で中絶するのです。もしや、これはO・ヘンリーの名を騙ったボルヘスの創作では無いかと妄想してしまう程です。他にも、ポオやカフカと未完の小説断片を次々と見せられるにつけ、この脈絡の無さと不完全さこそが夢や幻の何よりの証左では無いのか…と煩悶すること必定。この不条理感こそは、枕頭に置くに相応しい本です。ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』を読んだ時に受けた印象と大変によく似ています。中国やインド、アラビアの物語に混じって、タルムードやミシュナ、ブーバーの例話などユダヤのネタも多く、勉強になりました。但し「夢幻」だけに、朝起きた時に何も覚えていないのが悔やまれます。
  • 「ゴールデンカムイ」第14巻(野田サトル作、集英社)
    土方歳三と犬童四郎助との血闘、杉元と二階堂との死闘、網走監獄の凶悪犯7百人と第七師団との乱戦が並行して描かれて、怒涛のアクションが展開されています。それにしても、土方は御老体であれだけの刀傷を受けて出血してりゃあ、普通、死んでいるだろう。杉元も狙撃手に前頭部を撃ち抜かれて、それでも復活する不死身ぶりは呆れます。しかし、アクション画に説得力があれば、どんなに滅茶苦茶でも納得してしまうのがマンガのマンガたる所以です。登場人物たちのチームが再びシャッフルされて、新たな3チームが編成され、舞台は樺太へと移ります。どこまで「北帰行」は続くのでしょうか。杉元が「アシリパさんを取り戻す」「オレを樺太へ連れて行け」と唸る場面では、病室の窓の外から伺うチカパシとリュウ(アイヌ犬)が描かれていたり、鯉登少将の駆逐艦の甲板に立つ杉元の左足に、麻痺患者のリハビリ用「短下肢装具」が描き込まれていたり、実に芸が細かいのです。
  • 「お静かに、父が昼寝しております/ユダヤの民話」(母袋夏生編訳、岩波少年文庫)
    イラクの「ベドウィンの羊」、ブルガリアの「死神の使い」は、グリム童話、延いては古典落語の「死神」の元ネタでしょう。クルディスタン・イラクの「ヒツジとヤギとライオン」では、グリム童話「狼と七匹の子山羊」と同じく、親山羊がライオンの腹を裂いて、2匹の子山羊を救出します。「塔に閉じ込められたソロモン王の姫君」も「ラプンツェル」です。イラクの「父への愛は塩の味」は、シェイクスピアの『リア王』と同じく、三人姉妹の末の姫君の直言が父王の誤解を招きます。モロッコの「泣いて笑って」「犬ですらうなり声をたてない」、スペインの「真珠の首飾り」、ハンガリーの「皇帝とラビ」、アフガニスタンの「笛と羊飼いの杖」等、いずれもユダヤ人故に受ける差別と迫害を、信仰に裏付けられた知恵と絶妙のユーモアとでもって切り抜けて行く物語です。ラバン・ガマリエル(使徒パウロの師匠でもあった)がローマ人と宗教論争を展開して、やさしい言葉で唯一神信仰の正しさを証明する「思考の剣」には舌を巻きました。
  • 「ヨーロッパ史における戦争」(マイケル・ハワード著、奥村房夫・奥村大作共訳、中公文庫)
    この5百年間、世界中の戦争をリードして来たのは、ヨーロッパの軍事技術と兵器、経済と政治と思想であったという事実は否定できません。更に5百年を溯って、中世の封建騎士の時代から、ヨーロッパの戦争が如何に発展(?)拡大して来たかを検証しているのが、この本です。世界全体から見れば、ヨーロッパは小国が分立する局地でしかなく、そこで行なわれる戦争も、ごく限定的なものであったはずです。イスラーム帝国やモンゴル帝国のような世界的な拡がりは持ち得なかったのです。そんなヨーロッパの戦争がグローバル・スタンダードに変化したのは、15〜17世紀の「大航海時代」以降ですが、そこには、戦争の継続のために海外からの富の蓄積が必要に成ったからという、倒錯した動機があったことに気付かされます。要するに、欧州内の小国の内輪もめの影響を、全世界が被ることになったのです。更に、フランス革命とナポレオン戦争とによって「民族(国民)の戦争」へと意識変革が起こり、20世紀の総力戦へと大きく舵を切ることになるのです。第二次大戦の終結と植民地からの撤退によって、逸早くヨーロッパは戦争の歴史から離脱した訳ですが、私たちは、あと5百年はその後遺症を引き摺ることになるでしょう。
  • 「世界イディッシュ短篇選」(西成彦編訳、岩波文庫)
    『牛乳屋テヴィエ』以来のイディッシュ文学です。いずれの作品も、ユダヤ教信仰や民族性に裏打ちされてはいますが、皮肉や懐疑、不安や揺らぎを抱えています。20世紀文学の特徴でしょう。『テヴィエ』のS・アレイヘムの「つがい」は、過越祭に殺されることを運命づけられた鵞鳥の話。I・ベレツの「みっつの贈り物」では、地上の殉教者たちの遺物を、天上の聖人たちが嬉々としてコレクションしています。D・ベルゲルソンの「逃亡者」は、『罪と罰』のラスコリニコフを思わせる青年がポグロム(ロシアのユダヤ人迫害)の首謀者を殺害しようと狙います。N・ミジエリツキの「マルドナードの岸辺」も、ガルシア=マルケス風ユダヤ人迫害年代記ですが、背教者、裏切り者の内面を描きます。I・B・ジンゲルの「シーダとクジーバ」には「隷属を強いられるよりはディアスポラを生きる方がましだ」という、マイモニデスを思わせる警句が出て来ます。D・ニステルの「塀のそばで」は、ユダヤの学僧がサーカスに入団する奇想天外な悪夢のような展開(さながらデイヴィッド・リンチ)。特に、突然現われた乳吞み子に父親が乳首を吸われる描写はお手上げでした。
  • 「ふらんす伝説大観」(田辺貞之助著、青蛙房)
    ユイスマンスの『彼方』の翻訳で知られる碩学による伝説民話の集積。熊の怪獣トゥルス・ポワール(逆毛)、旅人の背中に跳び乗るガリポート、ヌエのような怪物ダール(投槍)、人狼ガルー、鬼女グレグ、妖精ファルファデ等が登場します。ケルト色の強いブルターニュまで行かずとも、これだけ数多くの妖怪変化譚がフランス各地にあるのです。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベルモンドが映画で演じた「大盗賊カルトゥシュ」、フロベールの短編で有名な聖ジュリアン、マラーを暗殺したシャルロット・コルデ、ジル・ド・レ男爵、オペラの台本作家ボーマルシェ、フン族のアッチラ、宰相リシリュー…。さながら伝奇譚の百花繚乱です。私が気に入った与太話は、ルイ14世によってバスチーユに監禁されて「鉄仮面」を付けられていた男は、ルイ13世の実子であり、彼は看守の娘と懇ろになり、生まれた息子がコルシカ島の家に預けられて、ナポレオンの父になったというもの。「あるお偉方から/ド・ボヌ・パール」がイタリア語で「ブオナ・パルテ」、再びフランス語化して「ボナパルト」に成ったというのです。
posted by 行人坂教会 at 21:53 | 牧師の書斎から

2018年07月10日

7月第3主日礼拝

       7月15日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 どっこい生きてる=@音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  コリントの信徒への手紙U 6章1〜10節(p.331)
讃 美 歌  27、121、490、458、431、24
交読詩編  詩編52編1〜11節(p.61)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2018年07月09日

神の家か、火事の家か【Tテモテ3:14〜16】

聖句「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(3:15)

1.《占い師》 占いは御神籤や運勢判断など、私たちの暮らしの隅々に生き残っています。天皇代替わりに際しては亀卜が行なわれます。時に重大な決断を迫られる政治指導者も専属の占い師を雇っていたことが知られています。「三国誌」の諸葛孔明は奇門遁甲の使い手、関ヶ原の合戦の日取りを決めた閑室元佶も臨済宗の僧でした。軍師は占い師でもあり、戦争は占いに左右されていたのです。

2.《火の家》 タロットカードの絵札に「塔」があります。落雷によって王冠が開き、塔は炎に包まれ、人が転落しているのです。マルセイユ版では「神の家」と言います。「火事の家/La Maison de Feu」が「神の家/La Maison Dieu」と誤記されたとも言われます。壇一雄の『火宅の人』、その題名の由来である法華経の「三車火宅」も思い出されます。しかし、その絵柄は「キリストの陰府降り」と類似しています。地獄の門を壊して、主が亡者たちを解放されるのです。バベルの塔が単なる「混乱」を嘆く話ではなく、統制や隷属からの「解放」の物語、多様性の主張でもあったことを忘れてはなりません。

3.《神の家》 教会が「神の家」だとしても完全無欠と言いたいのではありません。むしろ、世にある教会は問題続出の「火事の家」でもあるのです。それこそが「信心の秘められた真理」「信心の奥義」なのです。「信心/エウセベイア」とは「よく礼拝する、深く敬う」の意味です。「信仰」に比べて具体的な生活態度を言う語です。暮らしに根差した信仰が「信心」なのです。「火事の家」さえも「神の家」に変えて下さる神の奥義、「災い転じて福と成す」神秘の奇跡を愚直に信じることです。時に落雷や火事に見舞われ、問題山積の教会ですが、それこそ、この地上に立てられ、生きていることの証なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:52 | 毎週の講壇から

2018年07月03日

7月第2主日礼拝

       7月 8日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 神の家か、火事の家か=@音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  テモテへの手紙T 3章14〜16節(p.386)
讃 美 歌  27、121、490、393、400、24
交読詩編  詩編52編1〜11節(p.61)


・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2018年07月02日

自由への招待【ガラテヤ5:2〜15】

聖句「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(5:13)

1.《本当の自由主義》 社会学者の日高六郎は単なる学者ではなく、反戦運動や公害訴訟の先頭に立った人物でした。経済優先の「新自由主義」や「利己主義」ではなく、真の意味での「自由主義者」だったと思います。自由主義の原点は、個人の内面の自由を求めて、カトリックの教権と闘った宗教改革にあります。信徒は神に生かされ、信仰共同体によって健全な人生を保証されるのです。

2.《自由からの逃走》 社会心理学者のエーリヒ・フロムは、宗教改革発祥の地であるドイツが何故にナチズムに侵食されたかという問いから、亡命先の米国で『自由からの逃走』を執筆します。一個人として生きる孤独に耐え得ない者たちは、全体主義や権威主義、機械的画一性に逃れようとします。ルターやカルヴァン、宗教改革者たちですら、口では「愛」を唱えながら、その心は「罪意識による服従」を要求し、敵愾心に凝り固まっているのです。「本音と建前」に引き裂かれているのは、私たち自身の姿でもあります。怒りや憎しみ、独善や固定観念、差別や偏見から解き放たれて、本当に愛を目指して行きましょう。

3.《愛が息づく信仰》 憎しみは否定と破壊、愛は肯定です。愛する人は、相手の幸福、成長、自由を求めます。ガラテヤの諸教会に伝道した「割礼派」は「律法を守り割礼を受けねば救われない」と説いたのです。しかし、キリストの愛と救いに条件などありません。パウロは割礼の有無ではなく「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と言います。愛が無ければ信仰も空しく、働きの無い愛は愛では無いのです。その上で尚、働きの有無すら条件ではありません。私たちを救うのは神の愛と憐れみだけです。その「愛の奴隷」として「自由へと召し出された」のが教会なのです。しかも、独りでは目指せないのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から