2018年08月28日

9月第1主日礼拝

       9月 2日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 植わった場所で実りなさい音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 13章6〜9節(p.134)
讃 美 歌  27、148、490、488(2回)、387、80、26
交読詩編  詩編96編1〜9節(p.110)

・青空カフェ     礼拝後       玄関バルコニー
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2018年08月27日

ルックスではなくハートを【Tサムエル16:5b〜13】

聖句「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(16:7)

1.《石の中の剣》 ディズニーアニメ『王さまの剣』は、領主の下働きをする孤児の少年が魔術師から本当の強さと優しさを学び、石に刺さった剣を抜いて「未来の王」と成って行く物語です。アーサー王物語を下敷きに、英国のT・H・ホワイトが大戦中に書いた小説が原作です。少年の名前は「Wart/イボ」です。今は「味噌っカス」のあなたも「未来の王」だというメッセージです。

2.《胸の中の剣》 アーサー王の剣と言えば「聖剣エクスカリバー」です。石から抜いたのは「カリブルヌス」と言われます。しかし、大切なのは剣の銘ではなく「心に剣を持つこと」です。細田守監督の『バケモノの子』では、熊徹が「あるだろ!胸ん中に剣が!」と孤児に語り掛けます(剣を握ることをしない私たちは「霊的な孤児」なのです)。キリスト教会は、この世を生き抜くための「剣」を求める者たちの集いです。「信仰」「愛」「希望」等、その信念の名前は何でも構いません。それを握り締めて歩んで行くのです。正解を言葉で言うのは簡単です(ルカによる福音書10:28)。それを実行するのは一生ものです。

3.《選びの基準》 神さまは「人間が見るようには見ない」のです。預言者サムエルがエッサイの家を訪れて、次代の王を探します。家の息子たちが順に紹介されます。いずれも美丈夫な青年ですが、神はお選びになりません。「人間は両の眼で見る。しかし主は心で見る」と書いてあります。「心を見る」のではなく「心で見る」のです。「外面ではなく内面を」と解釈されて来ましたが、「未来の王」ダビデも多くの罪を犯します。むしろ、主の心の琴線に触れる何かがあったのでは無いでしょうか。私たち自身の心が本当に豊かでなければ、神さまがその御心をもって、私たちに触れて来て下さることは決してありません。

朝日研一朗牧師

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2018年08月26日

たれか神のごとき

1.ミケルマス

ヨーロッパには、9月29日を「聖ミカエル祭」と称してお祝いする国や地域が多くあります。英国では「ミケルマス/Michaelmas」と言います。名前からして、如何にも「クリスマス/Christmas」を思い出させるではありませんか。小麦の収穫祭です。日本の歳時記では「秋のお彼岸」に当たります。

キリストの降誕を祝う「クリスマス」が冬至の祭り、その半年前の6月24日が夏至の祭り「ミッドサマー・デイ/Midsummer’s Day」、洗礼者ヨハネの誕生日です。日本の農村で言うと「虫送り」「虫追い」「実盛祭」に該当します。それこそ「夏のキャロリング」が行なわれるそうです。この3つに、キリストの復活を祝う春の「イースター/Easter」を加えると、春夏秋冬の祭りが出揃います。

ローマカトリック教会や東方正教会のみならず、プロテスタントの聖公会やルーテル教会でも「聖ミカエル祭」を祝日としています。英国では、全国各地で「鵞鳥市」が開かれ、夕食には鵞鳥の丸焼きを食べる習慣があるそうです。1588年の「ミケルマス」の日、エリザベス1世のもとに、英国艦隊がスペインの「無敵艦隊/Armada Invencible」を撃破したとの知らせが届いたそうです。その時、女王は鵞鳥の丸焼きを食べていたとか。それ以来、英国では「ミケルマス」には「鵞鳥の丸焼き」を食べる習慣が広まったのだそうです。「土用の丑の日に鰻の蒲焼き」「節分に恵方巻き」みたいなものでしょう。

「アルマダ戦争」に負けたスペインでは「聖ミカエル祭」に何を食べるのでしょうか。

2.闘争の天使

フランスの西海岸、ノルマンディー地方、サン・マロ湾上に浮かぶ小島に聳え立つ世界遺産「モン・サン=ミシェル/Mont Saint-Michel」の素晴らしい風景を、皆さんも写真やテレビ等で御覧になったことがあるでしょう。8世紀に天使ミカエルのお告げを受けて、修道院が建てられたとされています。文字通り「聖ミカエル山」ですが、14世紀の「百年戦争」の時代には、ここは英国軍の要塞だったのです。

そもそも、天使ミカエルは「闘争の天使」なのでした。図像で表わされる場合には、ミカエルは黄金の甲冑を身に纏い、サタン(もしくはドラゴン)を踏み付け、右手に持った剣や鑓を高々と翳しています。道教の「鍾馗(しょうき)/Zhong Kui」と同じイメージです。あるいは、仏教の護法神である「四天王」や「仁王/金剛力士」が悪鬼邪鬼を踏み付けている彫像を思い出させます。天来の強い力で邪悪を滅ぼして貰いたい。洋の東西を問わず、人間は同じような願いを抱くものなのです。

さて、ラビ伝承によれば、天使ミカエルは、モーセの埋葬に際して顕われたとされています。「申命記」巻末に「モーセの死」が描かれています。34章5〜6節「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、誰も彼が葬られた場所を知らない」。

旧約偽典「モーセの昇天」(別名「モーセの遺訓」、紀元7〜30年)によると、この時、ミカエルはサタンと論戦を繰り広げるのです。ミカエルは神からモーセの遺体を葬ることを任されたのですが、サタンは「物質界の主」として、自分がその遺体の所有者であると主張します。ミカエルに拒否されると、サタンはエジプト人殺害の咎で、モーセを神に訴えることが出来ると威嚇します。

このことは、新約聖書「ユダの手紙」9節に触れられています。「大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争った時、敢えて罵って相手を裁こうとはせず、『主がお前を懲らしめてくださるように』と言いました」。サタンの横柄な態度を非難せずに、裁きは主なる神にお委ねして、自らは主の命に従って黙々と埋葬をしたとのことです。

ミカエルが「闘争の天使」だとしても、この段階では、サタンに対して論争しているだけです。サタンもまた、人間の罪を告発する「告訴者」の役割を務めているだけです。そもそも「サタン」とは「敵する者」の意味で、神に対してではなく、人間に対して「敵する者」なのです(「ヨブ記」)。

3.力ある言葉

ところが、『黄金伝説』等、ルシファー(サタン)の「堕天」物語が流布して行くと、ミカエルは、サタンに率いられた反乱軍を制圧した、天の軍勢の指揮官の役割を付与されます。神はミカエルに聖なる「力ある言葉」を遣わして、その御蔭で反乱軍を鎮圧し、彼らを地獄に追い落としたと言うのです。

「力ある言葉」とは「exponentia/呪文、スペル」ですが、それが即ち、先の「ユダの手紙」の記すミカエルの台詞「主がお前を懲らしめてくださるように」と同一視されるように成りました。旧約聖書「ゼカリヤ書」3章2節にも、主の天使がサタンに「サタンよ、主はお前を責められる」と、同じ言葉を唱える場面があります。ヘブライ語もギリシア語も、強力な呪文と信じられていますので、その発音を記すことは控えますが、悪魔祓いでは必ず使われる決め台詞です。英語で言えば「The Lord rebuke you,Satan!」です。

最後に「ミカエル」の名前ですが、ヘブライ語で「ミーカーエール」と言います。分解すると「ミー/誰、どの人」+「カー/何々のような、誰某に似た」+「ハー・エール/神」と成ります。つまり「誰か神の如き」です。勿論「神のような御方は誰もいない」という意味ですが、同時に「ミカエル」に与えられた神通力を連想します。

ミッキーマウスもミック・ジャガーも、マイケル・ジャクソンも、この「ミカエル」のヴァリエーションです。因みに、我が家の長男にも、この流れを汲む名前が付けられています。

牧師 朝日研一朗

【2018年9月の月報より】

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2018年08月21日

8月第4主日礼拝

       8月26日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ルックスではなくハートを音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  サムエル記上 16章5b〜13節(p.453)
讃 美 歌  27、372、490、96、482、25
交読詩編  詩編62編6〜13節(p.70)

・讃美歌練習(9月の月歌:148番)   礼拝後     礼拝堂
・・・当日の音声録音を聴く
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2018年08月20日

悪い時代にあっても【エフェソ5:15〜20】

聖句「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(5:16,17)

私たちは、人との誠実な出会いや、人生経験の中からも、貴重な知恵を得ることが出来ます。それは素晴らしいことであり、必要なことであります。

しかし聖書は、もうそれだけで十分だとは言いません。「主(神さま)の御心が何であるかを悟りなさい」と、これを悟らないならば、十分で確かな知恵を得ることができないと指摘します。この点について、コロサイの信徒への手紙2章3節にはこう記されています。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されているからである」と。 したがって、キリストを信ずる者は、聖書の言葉を参考にして人生を歩むという程度のことではありません。イエス・キリストの御言葉と御業に注目し、それに基づいて自らの生き方を吟味して、生活を築いていくことなのです。

さて、私たちがイエス・キリストによって示された主なる神の御心に従い、分別のある生き方をしようと志すとき、「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」という勧めの御言葉が心に迫ってきます。ハッとさせられ、しっかり生きようと促されるでしょう。たしかに今は悪い時代であると、いろいろな面から誰もが感じているに違いありません。ただし、私たちは今が悪い時代だと感じる場合には、とても「今の時代を生かして用いる」意欲は出てこないのではないでしょうか。「今は悪い時代なので、どうしようもない。何をしてもだめだ。あきらめよう」と、嘆くだけになりがちです。ここにこそ、キリストの福音による希望の力が発揮されるのです。

私がお世話になった田崎健作牧師は、いやなことばかりが起こって大変だと言って、皆が落ち込んでいると、「おもしろい時代になってきたね、さあここでどういう活動をするかね」と、突っ込んでこられました。及び腰にならないで、背筋を伸ばして励みましょう。

定家修身牧師(弓町本郷教会名誉牧師)

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2018年08月14日

旭日亭菜単(続き)その47

  • 「真景累ヶ淵」(三遊亭円朝作、角川ソフィア文庫)
    「真景」は「強迫神経症」の「神経」です。文明開化の明治の世にと言うので、幽霊が出るのは「神経」のせいと嘯きつつ怪談が語られます。坪内逍遥が二葉亭四迷に「言文一致をやるんなら、三遊亭をお読みよ」と勧めたとか。親の因果が子に祟る「因果物」の代表作ですが、怪談の趣きは前半だけ。後半は仇討ち物語に変わってしまいます。けれども、意外に面白かったりします。仏教的因縁の色彩はあるものの、深見新吉とお賤のカップルはボニー&クライドのような凄惨なアウトローぶり、仇討ち物語の敵役、安田一角、山倉富五郎の卑怯者ぶりのキャラも際立っていて、これは立派なピカレスクロマンです。江戸時代の無残絵「英明二十八衆句」を思い出させます。勧善懲悪の説話類型の流れを汲んでいるものの、大長編の物語を動かして行くために、結果的に彼らの極悪非道ぶりが強調されることになったのでしょう。新吉と賤にとって唯一の救済は懺悔の果ての自死しかありません。一角や富五郎、土手の甚蔵などに至っては惨めに殺されるばかりで、凡そ仏の慈悲も及びそうにはありません。この辺りの無慈悲さ(仏の復讐か?)が悪人どもの悪行の凄惨さと通底しているようにも思われます。
  • 「絶対に出る 世界の幽霊屋敷」(ロバート・グレンビル著、片山美佳子訳、日経ナショナル・ジオグラフィック社)
    屋敷のみならず、幽霊の出るという城郭、墓地、ホテル、工場、病院、教会などの美しい写真集です。但し、欧米が圧倒的に多く、アジア、アフリカ、中南米はほんの申し訳程度です。キングの『シャイニング』のモデルになった米国コロラド州のスタンリーホテル、カリフォルニア州のウィンチェスター・ミステリー・ハウス、メキシコの人形島、ルーマニアのブラン城など、説明不要の名所も多々あります。私が個人的に気に入ったのが、米国コネチカット州のイーストン・バプテスト教会です。かつて私が赴任した教会と建物がそっくりで、懐かしかったです。カラー写真の幾つかは露光させたりして、不気味な雰囲気を出そうと演出していますが、やはり、モノクロ写真には、夢幻の世界に連れて行かれそうな、独特の迫力があります。
  • 「ミスト/短編傑作集」(スティーヴン・キング著、矢野浩三郎他訳、文春文庫)
    冒頭の「ほら、虎がいる」に続けて「ジョウント」を入れたことから、日本語版編集者の遊び心が分かります。「ジョウント」とは、アルフレッド・ベスターの古典的SF小説『虎よ、虎よ!』で描かれたテレポーテーション能力のことだからです。その「ジョウント」は、幕切れの数行のためにだけ存在するホラー小説です。そして、有名な「霧」です。怪談の語り手であるキングにとって、オチの付け方が重要です。「ジョウント」がその好例です。フランク・ダラボン監督の映画版のオチを、キング自らが絶賛したという事実からも分かります。しかし、これは映画ではなく小説ですから、どこまでも閉塞感が深まり、結局それは拡がり続けるばかりという、プロセスの恐怖に主軸が置かれています。ところで、人々を狂信へと誘うミセス・カーモディは「ヨハネの黙示録」風の聖句を叫びますが、デヴィッド自身も、嵐の夜に巨大な神が歩く夢を見て不安を感じています。その心象表現にもキリスト教が色濃く出ています。「カトリック教会の助祭のパーティーでポルノ映画を上映していると告白しているような口調」「ニューイングランドの清教主義の狂気の遺物」「キリストにすら、わずか12人しか後に従う者はいなかった!」「昔の信仰復興のための天幕集会の信者」等という言い回しです。弁護士ノートンに率いられる「不信者」、カーモディに操られる「信者」、この両者の間に立って闘うことこそが、恐怖の現実に向き合う唯一の道なのです。
  • 「プリニウス」第7巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    有名な紀元64年の「ローマ大火」です。本書では、皇帝ネロの仕業ではないということに成っています。悪女の汚名を着せられることの多いポッパエアも、必死に真犯人を追究していて、読者の同情を誘います。作者たちとしては、皇帝ネロは「出来の悪いハドリアヌス」(後書き)の悲劇みたいな纏め方をするのでしょうか。今のところ、近衛師団の司令官ティゲリウスとユダヤの豪商レヴィテあたりの陰謀のようですが、果たして作者たちの推理や如何に。そう言えば『サテュリコン』のペトロニウスが出て来ませんね。ともかく、ローマの描写が派手なので、主役のプリニウス一行のピラミッド調査は些か地味な印象になってしまいました。
  • 「神紋総覧」(丹羽基二著、講談社学術文庫)
    家紋は家の紋章、神紋は神社の紋章。即ち神の権威や天皇、幕府の権威などにあやかって神紋を家紋にしたり、人を神として祀り上げる場合には、そのまま家紋を神紋にする神社もあったりします。神紋にも流行があり、異教や異国文化からの影響もあるのだとか。仏具から来た輪宝紋とか、サンスクリットの「mani/摩尼」に由来する宝珠紋とか、そもそも「お稲荷さん」も外来神であった可能性もあります。それにしても魂消たのは、ユダヤ教やキリスト教との関連も示唆されていたことです。例えば「兵庫県赤穂市の大避(おおさけ)神社は矢車紋を用いている。この神社は秦氏の祖神、大避神を祭るが、外来神で、八本矢車紋は…一説にはユダヤの神ダビデのシンボルマークをアレンジしたものともいう(大避神はユダヤ神)」等と書いてあります。ダビデは「ユダヤの神」ではないよと思いつつも、愉快な気分です。そう言えば『変身忍者嵐』の敵は「血車党」と「西洋妖怪軍団」だったしな(笑)。八坂神社でお馴染みの祇園守紋のX印、これも「池田氏、立花氏等はキリスト教に改宗したため、十字にことよせたことは事実である」と書いてありました。私の故郷の養父(やぶ)神社も採り上げられていて、その神紋、四つ木瓜(もっこう)が、地方豪族の日下部氏に由来することも分かりました。高校時代の同級生に日下部クンいたな。私らは、あれの配下だったのね。
posted by 行人坂教会 at 22:56 | 牧師の書斎から

8月第3主日礼拝

       8月19日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 悪い時代にあっても音楽 定家修身牧師(弓町本郷教会名誉牧師)
聖  書  エフェソの信徒への手紙 5章15〜20節(p.358)
讃 美 歌  27、372、490、197、458、25
交読詩編  詩編62編6〜13節(p.70)

・みんなでお掃除    礼拝後    礼拝堂、階下ホール

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2018年08月13日

目覚めと祈り【マルコ13:32〜37】

聖書は私たちに目覚めて待つ、そういう「待ち方」を求めています。それは、ただ傍観するということではありません。今ここに与えられている務めや役割を日々淡々と忠実に果たしていく在り方の中で、信仰と希望と愛が日に日に新しく与えられていくのでしょう。

聖書の信仰から、ただ単純に純粋に待つこと、任せて委ねること、その中で徐々に視野を広げ、ビジョンを広げていく在り方を学びます。破局と崩壊の時代、いわば終末的ともいえる現代を過ごす中で、神は私たちに、目を覚まして待つということ、そしてその待つことの中で視野を広く持つことへと促しておられるのではないでしょうか。

「気をつけて。目を覚ましなさい」。目を覚ますとは油断せず注意深く見つめる(生きる)ということです。主イエスを見つめると同時に、主の眼差しを確認する、主がいつも私たちを見ていて下さる現実を確信し、御手の中にあることを感謝することです。逮捕の直前、あのゲッセマネの園で祈っておられたイエスを見ようともせず、深い眠りに落ちた弟子たち。「目を覚ますこと」そして「祈ること」がここで示されています。祈りとは、もともと自己を吟味するという意味があります。単に私が神に願い求めをするだけが祈りなのではなく、むしろ神様から生き方や考え方の修正を迫られることがあるのです。

ビクトール・フランクルは著書「夜と霧」の中で、将来に対する希望、そして宗教的なものへの希求が、強制収容所の人々の生と死を分けたと証言しています。悲惨で絶望的な中にあってなお目を覚まして祈り、感謝することを忘れないような精神の持ち主は生き延びることができた確率も高かったということでしょうか。さらに彼は、将来に対して希望を持ち、待つことの意味と同時に待たれることについても語ります。「どんな時にも人生には意味がある。この人生のどこかに、あなたを必要とする何か、誰かがいる。私たちは常にこの何か・誰かによって必要とされ待たれている存在なのだ。たとえあなたが人生にイエスと言えなくても、人生の方からあなたにイエスと光を差し込んでくれる日がいつか必ずやって来るから。・・・」。

それぞれの元に既に送り届けられて来ている意味と使命を発見し、実現することができればと願います。そのためにも、この恵みの事実に目覚めて気付く私たちでありたいのです。

岡田 仁牧師(富坂キリスト教センター総主事)

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2018年08月07日

8月第2主日礼拝

       8月12日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 目覚めと祈り=@ 岡田 仁牧師(富坂キリスト教センター総主事)
聖  書  マルコによる福音書 13章32〜37節(p.90)
讃 美 歌  27、372、490、494、579、25
交読詩編  詩編62編6〜13節(p.70)

※当日の礼拝の音声録音はありません。
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2018年08月06日

正義は平和とキスをする【詩編 85:9〜14】

聖句「慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし/まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。」(85:11,12)

1.《鎮魂の季節》 1962年に日本基督教団は広島原爆投下の日を覚えて、平和と核廃絶のために祈りを合わせるべく「平和聖日」を始めました。「終戦」「原爆」が俳句短歌の季語となる程に、日本の「平和」は「季節もの」です。お盆や祖霊祭と重なって、死者の「鎮魂」に最適なのです。しかし、私たちが祈るべきは、国体に祟りを為さないように「霊を鎮める」ことではありません。

2.《終戦記念日》 8月に沈痛な表情で平和を祈念するのは日本だけの社会現象です。韓国は「光復節」で植民地支配からの解放を祝います。連合国では「対日戦勝記念日」です。「終戦の日」も8月15日ではなく、9月2日や3日です。樺太では8月25日まで戦闘が続いていました。ポツダム宣言の受諾通告は8月14日です。8月15日は「玉音放送」で天皇が国民に「終戦」を告知した日なのです。「終戦の日」から別の人生や暮らしが始まった訳ではありません。被爆者をはじめ、戦争の傷痍を身心に負い、苦しみ続けた人は大勢いるのです。その人たちにとっては「戦争は終わって」いなかったと思うのです。

3.《正義と平和》 ノルウェーの平和学者ガルトゥングが「平和」の定義をしました。ただ戦争がない状態は「消極的平和」、差別や抑圧、人権侵害や搾取もない社会の実現を目指すのが「積極的平和」です。何千年も前に聖書は「愛と真実、正義と平和の一致」を説いています。「正義」のない所に「平和」はないのです。「正義」は天から注がれる雨水に、「真実」は地から芽生える植物に譬えられています。「真実/エメト」を「faithfulness/信仰」と訳す英訳聖書があります。神の義に応答する「人間の誠意」でもあります。その応答関係は「愛と真の出会い」「正義と平和のキス」があって初めて生まれるものです。

朝日研一朗牧師

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