説 教 植わった場所で実りなさい

聖 書 ルカによる福音書 13章6〜9節(p.134)
讃 美 歌 27、148、490、488(2回)、387、80、26
交読詩編 詩編96編1〜9節(p.110)
・青空カフェ 礼拝後 玄関バルコニー
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(16:7)
1.《石の中の剣》 ディズニーアニメ『王さまの剣』は、領主の下働きをする孤児の少年が魔術師から本当の強さと優しさを学び、石に刺さった剣を抜いて「未来の王」と成って行く物語です。アーサー王物語を下敷きに、英国のT・H・ホワイトが大戦中に書いた小説が原作です。少年の名前は「Wart/イボ」です。今は「味噌っカス」のあなたも「未来の王」だというメッセージです。
2.《胸の中の剣》 アーサー王の剣と言えば「聖剣エクスカリバー」です。石から抜いたのは「カリブルヌス」と言われます。しかし、大切なのは剣の銘ではなく「心に剣を持つこと」です。細田守監督の『バケモノの子』では、熊徹が「あるだろ!胸ん中に剣が!」と孤児に語り掛けます(剣を握ることをしない私たちは「霊的な孤児」なのです)。キリスト教会は、この世を生き抜くための「剣」を求める者たちの集いです。「信仰」「愛」「希望」等、その信念の名前は何でも構いません。それを握り締めて歩んで行くのです。正解を言葉で言うのは簡単です(ルカによる福音書10:28)。それを実行するのは一生ものです。
3.《選びの基準》 神さまは「人間が見るようには見ない」のです。預言者サムエルがエッサイの家を訪れて、次代の王を探します。家の息子たちが順に紹介されます。いずれも美丈夫な青年ですが、神はお選びになりません。「人間は両の眼で見る。しかし主は心で見る」と書いてあります。「心を見る」のではなく「心で見る」のです。「外面ではなく内面を」と解釈されて来ましたが、「未来の王」ダビデも多くの罪を犯します。むしろ、主の心の琴線に触れる何かがあったのでは無いでしょうか。私たち自身の心が本当に豊かでなければ、神さまがその御心をもって、私たちに触れて来て下さることは決してありません。
朝日研一朗牧師
聖句「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(5:16,17)
私たちは、人との誠実な出会いや、人生経験の中からも、貴重な知恵を得ることが出来ます。それは素晴らしいことであり、必要なことであります。
しかし聖書は、もうそれだけで十分だとは言いません。「主(神さま)の御心が何であるかを悟りなさい」と、これを悟らないならば、十分で確かな知恵を得ることができないと指摘します。この点について、コロサイの信徒への手紙2章3節にはこう記されています。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されているからである」と。 したがって、キリストを信ずる者は、聖書の言葉を参考にして人生を歩むという程度のことではありません。イエス・キリストの御言葉と御業に注目し、それに基づいて自らの生き方を吟味して、生活を築いていくことなのです。
さて、私たちがイエス・キリストによって示された主なる神の御心に従い、分別のある生き方をしようと志すとき、「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」という勧めの御言葉が心に迫ってきます。ハッとさせられ、しっかり生きようと促されるでしょう。たしかに今は悪い時代であると、いろいろな面から誰もが感じているに違いありません。ただし、私たちは今が悪い時代だと感じる場合には、とても「今の時代を生かして用いる」意欲は出てこないのではないでしょうか。「今は悪い時代なので、どうしようもない。何をしてもだめだ。あきらめよう」と、嘆くだけになりがちです。ここにこそ、キリストの福音による希望の力が発揮されるのです。
私がお世話になった田崎健作牧師は、いやなことばかりが起こって大変だと言って、皆が落ち込んでいると、「おもしろい時代になってきたね、さあここでどういう活動をするかね」と、突っ込んでこられました。及び腰にならないで、背筋を伸ばして励みましょう。
定家修身牧師(弓町本郷教会名誉牧師)
聖書は私たちに目覚めて待つ、そういう「待ち方」を求めています。それは、ただ傍観するということではありません。今ここに与えられている務めや役割を日々淡々と忠実に果たしていく在り方の中で、信仰と希望と愛が日に日に新しく与えられていくのでしょう。
聖書の信仰から、ただ単純に純粋に待つこと、任せて委ねること、その中で徐々に視野を広げ、ビジョンを広げていく在り方を学びます。破局と崩壊の時代、いわば終末的ともいえる現代を過ごす中で、神は私たちに、目を覚まして待つということ、そしてその待つことの中で視野を広く持つことへと促しておられるのではないでしょうか。
「気をつけて。目を覚ましなさい」。目を覚ますとは油断せず注意深く見つめる(生きる)ということです。主イエスを見つめると同時に、主の眼差しを確認する、主がいつも私たちを見ていて下さる現実を確信し、御手の中にあることを感謝することです。逮捕の直前、あのゲッセマネの園で祈っておられたイエスを見ようともせず、深い眠りに落ちた弟子たち。「目を覚ますこと」そして「祈ること」がここで示されています。祈りとは、もともと自己を吟味するという意味があります。単に私が神に願い求めをするだけが祈りなのではなく、むしろ神様から生き方や考え方の修正を迫られることがあるのです。
ビクトール・フランクルは著書「夜と霧」の中で、将来に対する希望、そして宗教的なものへの希求が、強制収容所の人々の生と死を分けたと証言しています。悲惨で絶望的な中にあってなお目を覚まして祈り、感謝することを忘れないような精神の持ち主は生き延びることができた確率も高かったということでしょうか。さらに彼は、将来に対して希望を持ち、待つことの意味と同時に待たれることについても語ります。「どんな時にも人生には意味がある。この人生のどこかに、あなたを必要とする何か、誰かがいる。私たちは常にこの何か・誰かによって必要とされ待たれている存在なのだ。たとえあなたが人生にイエスと言えなくても、人生の方からあなたにイエスと光を差し込んでくれる日がいつか必ずやって来るから。・・・」。
それぞれの元に既に送り届けられて来ている意味と使命を発見し、実現することができればと願います。そのためにも、この恵みの事実に目覚めて気付く私たちでありたいのです。
岡田 仁牧師(富坂キリスト教センター総主事)
聖句「慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし/まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。」(85:11,12)
1.《鎮魂の季節》 1962年に日本基督教団は広島原爆投下の日を覚えて、平和と核廃絶のために祈りを合わせるべく「平和聖日」を始めました。「終戦」「原爆」が俳句短歌の季語となる程に、日本の「平和」は「季節もの」です。お盆や祖霊祭と重なって、死者の「鎮魂」に最適なのです。しかし、私たちが祈るべきは、国体に祟りを為さないように「霊を鎮める」ことではありません。
2.《終戦記念日》 8月に沈痛な表情で平和を祈念するのは日本だけの社会現象です。韓国は「光復節」で植民地支配からの解放を祝います。連合国では「対日戦勝記念日」です。「終戦の日」も8月15日ではなく、9月2日や3日です。樺太では8月25日まで戦闘が続いていました。ポツダム宣言の受諾通告は8月14日です。8月15日は「玉音放送」で天皇が国民に「終戦」を告知した日なのです。「終戦の日」から別の人生や暮らしが始まった訳ではありません。被爆者をはじめ、戦争の傷痍を身心に負い、苦しみ続けた人は大勢いるのです。その人たちにとっては「戦争は終わって」いなかったと思うのです。
3.《正義と平和》 ノルウェーの平和学者ガルトゥングが「平和」の定義をしました。ただ戦争がない状態は「消極的平和」、差別や抑圧、人権侵害や搾取もない社会の実現を目指すのが「積極的平和」です。何千年も前に聖書は「愛と真実、正義と平和の一致」を説いています。「正義」のない所に「平和」はないのです。「正義」は天から注がれる雨水に、「真実」は地から芽生える植物に譬えられています。「真実/エメト」を「faithfulness/信仰」と訳す英訳聖書があります。神の義に応答する「人間の誠意」でもあります。その応答関係は「愛と真の出会い」「正義と平和のキス」があって初めて生まれるものです。
朝日研一朗牧師
おいしいお素麺をみんなでいただき、テントで遊んだり、かき氷を食べたり楽し い時間を過ごしました。
20年以上行人坂教会に通っている人もびっくり。蝉が地中から出て来た穴がこ んなに沢山ありました。