2018年09月10日

聖書は食べられません【エゼキエル2:8〜3:3】

聖句「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』 わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」(3:3)

1.《聖書の始末》 私の師、深田未来生はUMCの宣教師を隠退した後、米国の高齢者村で暮らして居られます。彼が手伝っている古本市に持ち込まれる聖書の処分に悩んでいるそうです。手垢が付いて汚れていれば、他の書籍は紙ゴミですが、誰かと人生を同伴して来た聖書だけに、捨てるに捨てられず、売れないことは明らかなのに、市の片隅に置いてしまうとか。米国ならではの悩みです。

2.《聖書と対話》 「バイブル」は「紙草/パピルス」から「書籍/ビブリア」と変化した語で、単に「本」という意味です。それが「聖書」として神聖視されるに至るまでには紆余曲折の歴史があります。世界中で1年間に7億冊も出版され、ホテルにも備え付けられていて、有り触れているが故に、実際には読んで貰えないという逆転現象もあります。聖書は大昔の歴史を綴った本ではなく、歴史を通して働く神を、現代の私たちに証しするものです。それによって私たちの命や人生の意味を問い直すのです。従って、その問い掛けの姿勢さえあれば、信者/非信者に関わり無く、聖書は対話の相手に成ってくれるのです。

3.《甘みと苦み》 私の知人に、実際に聖書を暗記しては1ページずつ食べた人がいます。何とか聖書の御言葉を自分のものにしたいと願われたのです。聖書には「御言葉を食べる、巻物を食べる」行為が描かれています。エゼキエルの場合には、預言者活動の通過儀礼だったのでしょう。その巻物には、神の「哀歌、呻き、嘆き」が記されていました。悲しみは「苦み」です。罪の世にありながら、人間如何に生くべきかと問うことは甘くはありません。聖書の苦みを知り、御言葉の魅力を感じるようになるためには、それ相応に、人生の苦しみ悲しみを体験しなければなりません。精神的、霊的な成長が必要なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:03 | 毎週の講壇から

2018年09月04日

9月第2主日礼拝

       9月 9日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 聖書は食べられません音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  エゼキエル書 2章8節〜3章3節(p.1298)
讃 美 歌  27、148、490、54、58、26
交読詩編  詩編96編1〜9節(p.110)

・・・当日の音声録音を聴く
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2018年09月03日

植わった場所で実りなさい【ルカ 13:6〜9】

聖句「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。」(13:6)

1.《しんなり生きる》 リストラや介護離職を契機に孤立した中高年、専業主婦の「ひきこもり」の存在も明らかになり、今や日本の「ひきこもり」人口は百万人を突破していると言われています。お笑い芸人「髭男爵」の「山田ルイ53世」は自身も「ひきこもり」体験者ですが、「皆がキラキラ輝かなくても良い。もっとしんなり生きても良いんじゃないですか」とコメントしていました。

2.《サポートする人》 「しんなり」は「主役」ではなく「脇役」の生き方と言っても良いでしょう。米国では「助演」がプロフェッショナルの仕事として認められています。聖書の主役は「葡萄の木」であるイエスさま、私たちはその枝、主にお仕えする者です。その意味では、いちじくは脇役ですが、決して不要な存在ではありません。葡萄園では、葡萄を移植する時には、いちじくの木に葡萄の蔓を這わせたそうです。いちじくの木は葡萄の実りを支える「葡萄棚」として利用されていたのです。しかも、葡萄園の主人は「主役」の前を素通りして、「脇」にあるいちじくの実りを熱烈に求めているのです。

3.《実を求めて待つ》 「探す−見つける」のモチーフは「ルカ」の定番です。「3年もの間」は「何年も何年も」です。主人の愛着の程が窺い知れます。彼の激しい怒りは悲しみの裏返しです。「土地を塞いで置くのか!」は「仕事をしない者、役立たず」という語ですが、彼の求める「実」は「生産性、利益還元」ではなく「創造の業、神の義に対する応答」です。「園丁」は単なる「番人、庭師」ではなく「葡萄を作る人」ですが、いちじくの木のために尽力を惜しみません。それは、彼が主人の真意を心得ているからです。葡萄園の主人こそは、手ずからいちじくを植えて、これを愛して止まないからです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から