2018年10月16日

10月第3主日礼拝

      10月21日(日) 午前10時30分〜11時40分
信徒奨励 川の流れのように=@       橋満子
聖  書  マタイによる福音書 6章31〜34節(p.11)
讃 美 歌  27、152、490、206、175、28
交読詩編  詩編146編1〜10節(p.163)

教会バザー  午後0時30分〜3時   階下ホール、中庭

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2018年10月15日

光あるうちに光を信ぜよ【ヨハネ12:27〜36】

聖句「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。…光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(12:35,36)

1.《リプレイ》 誰でも「人生、もう1回やり直せたら」と考えることがあります。ケン・グリムウッドのSF小説『リプレイ』(1988年)では、心臓発作で死亡した主人公の意識が戻ると、18歳に戻っています。その後「強制終了」と「強制再生」が繰り返されるループと成るのですが、何度、過去をやり直しても死は避けられません。過去を変えることに大きな意味は無いのかも知れません。

2.《時がある》 何も「タイム・トラベル・ファンタジー」は小説や映画の中だけの話ではありません。私たちの肉体は時間と空間に縛られていますが、精神は自由なのです。だからこそ、私たちは、亡き人を想起したり過去を懐かしむことが出来るのです。そのジャンルの先駆けとされる、英国の児童文学者、アリソン・アトリーの小説『時の旅人』(1939年)巻頭の題辞に「時あり、時ありき、時はなし」と記されていました。人間には時の移ろい、時の流れを止めることは出来ませんが、その時を知って、決断したり行動したりすることは出来るのです。残念ながら、その時を逃してしまうこともあるのですが…。

3.《光の歩み》 イエスさまの仰る「光と闇」は「昼と夜」です。その意味で日時計を思い出させます。「日時計」は何の仕掛けも無い「ダイヤル/目盛り」に過ぎません。多くの日時計には碑銘が刻まれています。例えば「私は晴れの日だけ時を刻む」「暗い時は刻まず、日の当たる時のみを刻む」とかです。人生には明るい日も暗い日もあります。しかし、復活の光、命の光を投げ掛けられるイエスさまは、闇を抱える私たちを照らし「光の子」へと変えて下さるのです。日時計と同じく、私たちの闇の業をカウントせず、光の業だけをカウントして下さるのです。その約束の徴こそ、この日曜日の朝の礼拝なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年10月14日

キリスト教こんにゃく問答]]V「戦争について」

1.遠く離れた雷鳴

インドの名匠、サタジット・レイ監督に『遠い雷鳴』(Ashani Sanket)という映画があります。1973年の作品です。ベンガルの片田舎を舞台に、バラモンの貧しい若夫婦の生活が描かれています。バラモンはカースト最上位ですが、僧職や教職以外の仕事に就いて労働することが禁じられています。バラモンなりの不自由さがあるのです。

舞台は1942年、一見すると、戦争の影響など感じられぬ、穏やかな農村生活から始まります。しかし、米の価格が上昇して行きます。日本軍がシンガポールに進駐したために、一袋4ルピーが6ルピーに上がり、主人公ガンガの家に、隣村から同じバラモンの老人が食べ物の無心にやって来ます。バラモンの掟では無視することは許されません。

やがて日本軍がビルマに進駐し、米の価格は18ルピーにまで跳ね上がります。米屋では略奪騒動が起きます。ガンガの妻アナンガは農作業で日銭を稼ごうとします。ガンガは遠くの村まで出掛けて、妻の腕輪を売った代金で、闇米を買い求めようとしますが、果たせません。アナンガの女友だち、チェトキは米を手に入れるために、煉瓦職人に身を投げ出します。飢えは日に日に深刻になって行きます。

映画のラストでは、あの隣村のバラモンの老人が子や孫たちを引き連れて、ガンガの家に向かって歩いて来るではありませんか。アナンガは「これから私たちはどうするの?」と夫に問い掛けます。余りのことに笑ってしまいそうになりながら、ガンガは「いや何、二人が十人になるだけさ」と呟きます。すると、アナンガが「いいえ、十一人よ」と答えます。彼女の胎には新しい命が宿っていたのです。嬉しいような困ったような、複雑な表情で妻を見詰め返すガンガ…。

老人一家の行進は、真っ赤な夕焼けを背にして、何百人という集団の大行進のシルエットへと変わって行きます。そして、このような字幕が出て映画は終わります。「1943年、ベンガル地方において、五百万人が飢えと疫病のために死んだ。人間によって作られた飢饉によってである」。

ガンガとアナンガの台詞は、サタジット・レイの黒澤明に対するオマージュです。あの『羅生門』(1950年)のラスト、貧しい樵(志村喬)が捨て子を愛しそうに抱きしめながら、「おらのとこには子供が六人おる。六人育てる苦労も七人育てる苦労も一緒だ!」と呟くのです。雨が上がり、羅生門を跡にして家路へと向かう樵に、天からの光が射しています。

2.アメリカひじき

それにしても、戦火の直接及ばなかったはずの、しかも世界有数の米の生産地である、ベンガル地方で数百万人もの餓死者が出ていたという現実に、私は胸を突かれました。ベンガルはガンジス川の河口の平原地帯で、そこから数百キロ北東には、マニプル州インパールがあります。

悪名高い「インパール作戦」(1944年)では、兵站の確保が難しいまま、「援蔣ルート」遮断を戦略目的として、日本陸軍はインパール攻略戦に九万の兵を送り込みました。二万六千人の戦死者を出していますが、その半数近くが餓死、戦病死(マラリヤと赤痢)でした。何の補給も増援もなく、前線は「食うに糧なく、撃つに弾なし」という状況で、同胞の死体を食べるしか無かったと言われています。

この作戦を従軍取材した火野葦平は「前線にダイナマイトを百キロ送ったら、五十キロしかないと報告がきた。兵隊が食うのである」と記しています。佐藤幸徳中将は「軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり」と、大本営に対して繰り返し撤退を進言するも聞き入れられず、最終的には死刑覚悟で、師団の独断退却を実行しています。

前年の「ガダルカナルの戦い」でも、数多くの日本軍将兵が餓死、戦病死しています。部隊から離脱した挙句、飢えた兵士が人肉食を行なったことも知られています。戦争とは、即ち飢えなのです。

それは「銃後」においても同じこと。『火垂るの墓』で知られる野坂昭如の短編小説に『アメリカひじき』(1967年)があります。「玉音放送」の流れた日、米軍の飛行機から落下傘で物資が送られます。それは米人捕虜のために投下された食糧でしたが、中からは、チョコレートやガム、豆の缶詰やチーズ、ジャムや砂糖、ベーコンやハム等が出て来て、町内会の人たちは溜め息混じりに眺めつつ、その宝物を分配するのでした。主人公の俊夫の母親も宝物の分配に与りますが、一つだけ不明な食品がありました。黒い縮れた糸くずのような物です。近所のおばさんが「ひじきに似とる」と言うので、煮込み、岩塩を加えてみますが、湯が赤茶色に変わるだけで食べられたものではありません。

「アメリカのひじきはアクが強いんやわ」と母は言いますが、ひもじさ故に捨てられもせずに、何とか食べてしまいます。町内会長が「どうやら、ブラックテーいう物(紅茶の葉)らしいで」と教えてくれた時には、もう既に、どの家の「アメリカひじき」も無くなってしまっていたというエピソードです。

3.母親が子を食う

旧約聖書にも「戦争とは、即ち飢えのことだ」と思わせる場面があります。「列王記下」6章25節には「アメリカひじき」ならぬ「鳩の糞」が出て来ます。紀元前9世紀末、北王国イスラエルはアラムとの間で戦争を続けていました。アラム王がイスラエルの王都サマリアを包囲した時、折り悪くサマリアは食糧不足、忽ち住民は飢饉に陥りました。この時、「ろばの頭一つが銀80シェケル(約1キロ)、鳩の糞4分の1カブ(1カブは1リットルと少し)が5シェケルで売られるようになった」と書いてあるのです。

律法では、ろばは「食べてはならない動物」とされていました。その頭が高値で取り引きされたと言うのです。そして「鳩の糞」ですが、幾ら飢えていても鳥の糞までは食べられるものではありません。紀元1世紀のユダヤの歴史家ヨセフスは「鳩の糞」を「食塩の代用」にしたと書いていますが、これは眉唾でしょう。「鳩の糞」は「エジプト豆」のことだという説があります。

また、アラビア人が「オカヒジキ」「ミルナ/水松菜」を「雀の糞」と呼んでいることから、「鳩の糞」も野草の俗称だったのでは無いかと言われています。聖書事典によると「ベツレヘムの星」と呼ばれる植物で、この茎は生で食べると中毒を起こすが、煮るか焼くかすると食べることが出来たそうです。パレスチナの丘陵や岩場に、白い六弁の花を咲かせるので「ベツレヘムの星」と呼ばれるのですが、それが一斉に咲いて断崖を覆う様は、さながら「鳩の糞」で白く成ったように見えるとか。

日本の「オカヒジキ」は、さっ湯通しして和え物やおひたし、汁の具や炒め物に使いますが、「鳩の糞」は乾かして粉にして砕き、麦粉に混ぜて食べていたようです。勿論、サマリア包囲の状況下で糧食は尽きていますから、麦粉などはありません。

「列王記下」の物語は、この後、更に恐ろしい話に変わります。アハブ王が城壁を歩いていると、一人の女が「我が主君、王よ、救ってください!」と叫んで訴えます。彼女の話によると、女友だちが「今日はあなたの子を食べ、明日は私の子を食べましょう」と言うので、自分の子を煮て食べたのに、翌日に成ると、その女は自分の子を隠してしまったと言うのです。王はそれを聞くと悲嘆の余り自らの衣を引き裂きます。

二人の女性が一人の子どもを取り合う図は、「列王記上」3章の「ソロモンの知恵」にも見られます。同じ時に出産した遊女が、互いに「生きているのが我が子で、死んだのはお前の子だ」と主張し合って譲らない話です。「大岡政談」の「子争い」のモトネタです。しかし、それは、どちらが本当の母親であるかと、我が子を引き合う人情話です。嘘をついている母親の姿もまた、哀れを誘います。

ここでは、我が子の肉を食べてしまった母親が、今度は「あんたの子を食べる番だよ」と要求するのです。グロテスク極まりない話です。戦争は飢餓を生み、飢餓は人間を食い尽くすのです。


【会報「行人坂」No.257 2018年10月発行より】

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2018年10月13日

旭日亭菜単(続き)その48

  • 「真赤な子犬」(日影丈吉著、徳間文庫)
    冒頭から赤川次郎みたいな文体で、コケットなヒロイン登場と思いきや、すぐに予想は裏切られます。彼女は探偵役ではありません。先ず、探偵の務めを担わされるのは読者なのです。若社長の自殺未遂とそれに続く転落死の一部始終を示されているのは読者だけで、捜査に当たる警察よりも先に、その経緯を読んで知っている…と思い込まされるのです。ところが、この設定そのものがトリッキーであったことが、後から知られて来る訳です。それにしても、「サラド・ワルドルフ」に「ビフテック・オー・ポワヴル・ノワール」、食べてみたいものです(勿論、毒入りでないヤツを)。ジャクリーヌ・ササール主演の映画『芽ばえ』が引用されていることから時代は明らかですが(日本公開は1958年)、こんな時代に、田園調布に4階建てのお屋敷を構え、専任のコック、執事、メイドたちがいて、2階が会議室と食堂、3階が客室、遊技室、図書室、独身の若社長が書斎付きの4階で暮らしているなんて、夢のようです。『ちびまる子ちゃん』の花輪くんの家です。しかるに、後半に登場する工場の守衛の老人の自宅、これが私らには相応しいのです。
  • 「人みな眠りて」(カート・ヴォネガット著、大森望訳、河出文庫)
    初期作品のお蔵だしのような短編集ですからSFネタは少ないのです。冷蔵庫型の女性ロボットを連れて、セールス巡業する天才科学者が主人公の「ジェニー」、罹患者に自殺衝動を引き起こす感染症を描く「エピゾアティック」が辛うじてSFの味付けです。「ミスターZ」は、犯罪学の講座を履修する神学生(牧師の卵)と服役中の娼婦とのラブロマンスです。伝説で「聖なる娼婦」にされてしまったマグダラのマリア以来、よくあるパターンのカップルですが、思わずホロリとさせる予想外のオチを用意するのがヴォネガット流です。「金がものを言う」も、欲しくも無い巨万の遺産を相続した娘と借金に悩む男とのラブロマンス。両作に共通するのは、男が柔弱な態度では真心は伝わらないという教訓です。「ガール・プール」や「ルース」は女性同士の、「賢臓(kiddley)のない男」(「腎臓/kiddney」ではない)や「ペテン師たち」は男性同士の確執と共感を描いていて、後々じわぁ〜と胸に染みます。表題作は、ディケンズの「クリスマス・キャロル」と同じく、クリスマス嫌いで性悪な男が、本物のクリスマスを現出させます。
  • 「ゴールデンカムイ」第15巻(野田サトル作、集英社)
    「ヤングジャンプ」は週刊だけにコミックス新刊が出るのも速い。アシリパの行方を追って樺太に渡航した杉元たちの活躍が描かれます。クズリにスチェンカ、バーニャ、トド狩りと当地の自然や風俗がしっかり描かれていて、本作の美点が出揃っています。第149話「いご草」では、以前は背景人物の一人に過ぎなかった月島軍曹の過去、鶴見中尉との因縁も描かれます。恐らく、最初からキャラ設定があったのではなくて、舞台を樺太に移動させる段階で、月島にロシア語通訳の技能を振り、その結果「いご草」の物語が生まれたのでしょう。要するに、後からキャラ内容を膨らませたはずです。登場キャラが増えると、その分サブストーリーが派生して、作品そのものが重厚さを帯びる結果となるのです。第120話「奇襲の音」〜第121話「暗中」の屈斜路湖温泉の時と同じく、男性陣の集団入浴の場面が多く、往年の雑誌「SABU」のグラビアみたいです。これは、作者の性的指向なのか、読者へのファンサービスなのでしょうか。
  • 「牧野富太郎/なぜ花は匂うのか」(牧野富太郎著、平凡社)
    小学校の図書室には、牧野の植物図鑑が何冊か並んでいました。今思えば(子ども向けではない)結構な専門書だったと思います。しかし、私たち男子は動物図鑑や昆虫図鑑に夢中で、好んで頁を開いてみたいとは思いませんでした。それでも時折り、目当ての図鑑が他の子たちの手に渡ってしまっている時に、暇潰しに止む無く植物図鑑を開いてみて、その鮮やかな写生に目を奪われたことがあります。植物の美しさが余す所無く表現されていました。牧野自身が「私は植物の愛人として、この世に生まれてきたように感じます」と告白している通り、それは彼の激しい植物愛、愛情の為せる業だったのです。「人間は植物を神様だと尊崇し礼拝し、それに感謝の真心を捧ぐべきである」。植物教の信徒、いや使徒なのです。私たちが食べているバナナは「実」ではなく「皮」であること、イチゴも「茎の末端」、蜜柑もまた「毛」であること、これは子どもに教えてやらねば。私の生まれ故郷の町花は野路菊ですが、命名は牧野だったのですね。
  • 「完全犯罪/加田伶太郎全集」(福永武彦著、創元推理文庫)
    『草の花』『死の島』等で高名な「純文学」作家、福永が加田のペンネーム(しかも、アナグラム)で発表した正統派探偵小説の連作集です。古典文学の研究者、伊丹英典(これまた「名探偵」のアナグラム)が毎回舞い込んで来る謎の事件を解いていきます。これらの連作が書かれたのは「大学助教授」という肩書きが未だ確かな地位と、時間的余裕を保証してくれていた1950〜60年代初め。「ディレッタント」が気取れないと、探偵遊戯(趣味としての推理と事件解決)等は成立しませんからね。昨今の大学教員は勿論、最近では大学生ですらリアリティがありません。「解説」の法月綸太郎が「「温室殺人」の封建的な犯人像は、横溝作品を念頭に置いていたかも知れない」と指摘していますが、強い意志と高い知性を併せ持ったキャラクターにハッとさせられた私としては、目に見えぬ因果や因縁に操られる(が故の悲哀もある)横溝の犯人像とは異なると思います。むしろ「ディクスン・カーや横溝正史調のおどろおどろしい演出」が垣間見えるのは、大学院生が伊豆半島で消息を断つ「失踪事件」、催眠術や古い西洋屋敷に「落人池」等という舞台装置の「眠りの誘惑」でしょう。とにかく挑戦と実験精神に溢れる粒揃いの短編集。巻末に収録されている、福永が都築道夫、結城昌治と囲む鼎談も凄い内容です。
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2018年10月09日

10月第2主日礼拝(神学校日)

      10月14日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 光あるうちに光を信じよ=@音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 12章27〜36節(p.193)
讃 美 歌  27、152、490、502、509、28
交読詩編  詩編146編1〜10節(p.163)


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2018年10月08日

すべての人と和らげ【ローマ 12:9〜21】

聖句「すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(12:17,18)

1.《フィラデルフィア》 映画『ロッキー』の舞台は、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアです。ここに合衆国建国の理念の原点「信教の自由」があるからです。クエーカー教徒のウィリアム・ペンが、欧州の宗教迫害や不寛容から逃れて来た、全ての教派の人に開かれた町として設立したのです。人が自らの信念によって自由に生きることが保証されているのです。

2.《結び合わされた者》 フィラデルフィアとは「兄弟愛」を意味します。新約聖書に174回も使用される語です。「兄弟愛」と言っても肉親のことではありません。地縁血縁の紐帯ではなく、信仰による繋がりなのです。残念ながら、仲間意識には排他性と現実逃避が付きものです。誰かと誰かが盛り上がれば、疎外感に悩む人が出て来ます。仲間意識を保ちながらも、内輪で固まらず、常に外の人に目を向ける姿勢が大切です。日本では「ブレザレン」を「兄弟」ではなく「同胞」と訳しました。日本語の「兄弟/姉妹」に比べて、ギリシア語の「アデルフォス/アデルフェー」が、性差を強調していないことも忘れてはなりません。

3.《真の幸福とは何か》 キリストに結ばれた者は、年齢の序列や性差、性別も超えて行くべきです。仲間意識も超えて行くのです。勿論、核に成るのは「兄弟愛」ですが、旅する同信の友、喜ぶ者と悲しむ者、身分の低い人へと順々に、その愛は広がって行き、敵や迫害する者にまで向けられるのです。一足飛びに出来ることではありません。「せめて」と訳されている語句は「あなたがた自身に応じて、あなたがた次第、あなたがたに掛かっている」です。自分の愛が偽りであることが露わになるかも知れません。しかし、失敗と挫折を繰り返しながら、神の下さる祝福を信じて、真の幸福を求めて参りましょう。

朝日研一朗牧師

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2018年10月02日

10月第1主日礼拝

      10月 7日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 すべての人と和らげ=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 12章9節〜12節(p.292)
讃 美 歌  27、152、490、162、540、81、28
交読詩編  詩編146編1〜10節(p.163)

・青空カフェ     礼拝後       玄関バルコニー

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2018年10月01日

裸の大将の失楽園【創世記3:8〜19】

聖句「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(3:10)

1.《いちじくの葉》 米国のドラマ『デスパレートな妻たち』のタイトルは、クラナッハの「アダムとエバ」から始まり、女優陣が真っ赤な毒リンゴを手にして登場します。「禁断の果実」がリンゴになったのはラテン語の語呂合わせからです。他方、アダムとエバが腰に巻いたイチジクは実名です。英語で「いちじくの葉」と言えば「都合の悪いこと、恥ずかしいことを覆い隠す」の意味です。

2.《顔向けできぬ》 しかし原典は「彼ら自身のために帯を作った」とあるだけで「隠した、覆った」の含みはありません。性的な深読みを始めたのは、後代の人たちの妄想に過ぎません。「腰に帯する」のは自我、自意識の表われです。彼らが逃げ隠れするのは、神さまが園の中をやって来る「足音」(もしくは歌声、話し声)を聞いた瞬間です。約束を破って「顔向けできない」気分だったのです。「今更どの面下げて会いに行けるかよ」と言うのは社会的な立場のない人です。アダムとエバは「どこにいるのか?」という神の呼びかけに、素直に出て来るのです。それでは、なぜ「恐ろしくなり、隠れた」のでしょうか。

3.《裸であること》 エデンの園の中では裸が当たり前でした。岩波版「創世記」では「彼ら二人は裸であった。彼らは互いに恥じることはなかった」と訳されています。「裸であったが…」ではなく「裸であるが故に」と読むことも出来ます。衣服は階級や貧富の差を示します。園を追放された人間たちは、もはや愛と信頼で結ばれた「隣人」ではいられなくなります。支配/被支配の関係(16節)が生まれたのです。御前にあって、私たちは上下、主従、優劣の関係を前提に生きるべきではないとのメッセージが込められているのです。神に対しても人に対しても「裸の生き方」を示されたのが、十字架のイエスさまです。

朝日研一朗牧師

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