2018年10月30日

11月第1主日礼拝(聖徒の日、永眠者記念礼拝)

      11月 4日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 来る年も来る年も=@音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  士師記 11章34〜40節(p.403)
讃 美 歌  27、174、381、300、385、29
交読詩編  詩編77編1〜16節(p.87)

・青空カフェ      礼拝後      玄関バルコニー

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2018年10月29日

悲しみが喜びに変わる時【ヨハネ16:15〜24】

聖句「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(16:20)

1.《年末の第九》 年末に「第九」の演奏会が恒例になったのには、2つの契機があったと言われています。1943年の学徒動員で兵隊に取られる音大生たちが、入隊直前に「第九」を演奏、その多くが戦死し、戦後、彼らへのレクイエムとして演奏された説。また、戦後の食糧難の折り、NHK交響楽団が楽団員の年越し費用を稼ぐためにk恒例化したとも言われています。

2.《契約の更新》 ベートーヴェンは弱冠25歳にして音楽家として成功を治め、ウィーン社交界の花形と成りますが、やがて難聴に苦しめられ、数年後には自死を思う程に追い詰められます。何しろ、聴覚は音楽家にとって最も大切な感覚です。それを失ってしまったのです。そして、他の人に聞こえる音が、自分には聞こえない不幸は、彼を二重に苦しめたのです。その心中を、弟たちに宛てた「ハイリゲンシュタットの遺言」の中で吐露しています。しかし、芸術への愛の故に踏み止まるのです。ですから「テスタメント」には「遺書」ではなく、むしろ「覚悟表明」「神との再契約」の意味があります。

3.《生まれる時》 私たちの人生にも不幸や苦難の時が訪れます。聖書で「杯」「器」と言うのは、自分の分を表わします。キリスト教信仰は、不幸に対する優れた解釈であり、不幸と向き合う姿勢です。それ故、主は「悲しみは悲しみのままに終わらない」と仰るのです。女性が出産に際して味わう苦しみを例に挙げていますが、「変わる」も「ゲンナオー/子を産む」です。いつか、その悲しみが深い喜びを生み出すのです。「自分の時が来たからである」は、イエスさまの「わたしの時」、十字架の時に通じます。それこそ「人生のクライマックス」、私たちは皆、この時を受け取るために生まれて来たのです。

朝日研一朗牧師

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2018年10月23日

10月第4主日礼拝

      10月28日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 悲しみが喜びに変わる時=@音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 16章16〜24節(p.200)
讃 美 歌  27、152、490、221、158、28
交読詩編  詩編146編1〜10節(p.163)

・讃美歌練習(11月の月歌:174番)  礼拝後   礼拝堂

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2018年10月21日

2018年教会バザー

2018年教会バザー1

2018年教会バザー2

2018年教会バザー3
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2018年10月16日

10月第3主日礼拝

      10月21日(日) 午前10時30分〜11時40分
信徒奨励 川の流れのように=@音楽      橋満子
聖  書  マタイによる福音書 6章31〜34節(p.11)
讃 美 歌  27、152、490、206、175、28
交読詩編  詩編146編1〜10節(p.163)

教会バザー  午後0時30分〜3時   階下ホール、中庭

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2018年10月15日

光あるうちに光を信ぜよ【ヨハネ12:27〜36】

聖句「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。…光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(12:35,36)

1.《リプレイ》 誰でも「人生、もう1回やり直せたら」と考えることがあります。ケン・グリムウッドのSF小説『リプレイ』(1988年)では、心臓発作で死亡した主人公の意識が戻ると、18歳に戻っています。その後「強制終了」と「強制再生」が繰り返されるループと成るのですが、何度、過去をやり直しても死は避けられません。過去を変えることに大きな意味は無いのかも知れません。

2.《時がある》 何も「タイム・トラベル・ファンタジー」は小説や映画の中だけの話ではありません。私たちの肉体は時間と空間に縛られていますが、精神は自由なのです。だからこそ、私たちは、亡き人を想起したり過去を懐かしむことが出来るのです。そのジャンルの先駆けとされる、英国の児童文学者、アリソン・アトリーの小説『時の旅人』(1939年)巻頭の題辞に「時あり、時ありき、時はなし」と記されていました。人間には時の移ろい、時の流れを止めることは出来ませんが、その時を知って、決断したり行動したりすることは出来るのです。残念ながら、その時を逃してしまうこともあるのですが…。

3.《光の歩み》 イエスさまの仰る「光と闇」は「昼と夜」です。その意味で日時計を思い出させます。「日時計」は何の仕掛けも無い「ダイヤル/目盛り」に過ぎません。多くの日時計には碑銘が刻まれています。例えば「私は晴れの日だけ時を刻む」「暗い時は刻まず、日の当たる時のみを刻む」とかです。人生には明るい日も暗い日もあります。しかし、復活の光、命の光を投げ掛けられるイエスさまは、闇を抱える私たちを照らし「光の子」へと変えて下さるのです。日時計と同じく、私たちの闇の業をカウントせず、光の業だけをカウントして下さるのです。その約束の徴こそ、この日曜日の朝の礼拝なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年10月09日

10月第2主日礼拝(神学校日)

      10月14日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 光あるうちに光を信じよ=@音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 12章27〜36節(p.193)
讃 美 歌  27、152、490、502、509、28
交読詩編  詩編146編1〜10節(p.163)


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2018年10月08日

すべての人と和らげ【ローマ 12:9〜21】

聖句「すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(12:17,18)

1.《フィラデルフィア》 映画『ロッキー』の舞台は、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアです。ここに合衆国建国の理念の原点「信教の自由」があるからです。クエーカー教徒のウィリアム・ペンが、欧州の宗教迫害や不寛容から逃れて来た、全ての教派の人に開かれた町として設立したのです。人が自らの信念によって自由に生きることが保証されているのです。

2.《結び合わされた者》 フィラデルフィアとは「兄弟愛」を意味します。新約聖書に174回も使用される語です。「兄弟愛」と言っても肉親のことではありません。地縁血縁の紐帯ではなく、信仰による繋がりなのです。残念ながら、仲間意識には排他性と現実逃避が付きものです。誰かと誰かが盛り上がれば、疎外感に悩む人が出て来ます。仲間意識を保ちながらも、内輪で固まらず、常に外の人に目を向ける姿勢が大切です。日本では「ブレザレン」を「兄弟」ではなく「同胞」と訳しました。日本語の「兄弟/姉妹」に比べて、ギリシア語の「アデルフォス/アデルフェー」が、性差を強調していないことも忘れてはなりません。

3.《真の幸福とは何か》 キリストに結ばれた者は、年齢の序列や性差、性別も超えて行くべきです。仲間意識も超えて行くのです。勿論、核に成るのは「兄弟愛」ですが、旅する同信の友、喜ぶ者と悲しむ者、身分の低い人へと順々に、その愛は広がって行き、敵や迫害する者にまで向けられるのです。一足飛びに出来ることではありません。「せめて」と訳されている語句は「あなたがた自身に応じて、あなたがた次第、あなたがたに掛かっている」です。自分の愛が偽りであることが露わになるかも知れません。しかし、失敗と挫折を繰り返しながら、神の下さる祝福を信じて、真の幸福を求めて参りましょう。

朝日研一朗牧師

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2018年10月02日

10月第1主日礼拝

      10月 7日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 すべての人と和らげ=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 12章9節〜12節(p.292)
讃 美 歌  27、152、490、162、540、81、28
交読詩編  詩編146編1〜10節(p.163)

・青空カフェ     礼拝後       玄関バルコニー

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2018年10月01日

裸の大将の失楽園【創世記3:8〜19】

聖句「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(3:10)

1.《いちじくの葉》 米国のドラマ『デスパレートな妻たち』のタイトルは、クラナッハの「アダムとエバ」から始まり、女優陣が真っ赤な毒リンゴを手にして登場します。「禁断の果実」がリンゴになったのはラテン語の語呂合わせからです。他方、アダムとエバが腰に巻いたイチジクは実名です。英語で「いちじくの葉」と言えば「都合の悪いこと、恥ずかしいことを覆い隠す」の意味です。

2.《顔向けできぬ》 しかし原典は「彼ら自身のために帯を作った」とあるだけで「隠した、覆った」の含みはありません。性的な深読みを始めたのは、後代の人たちの妄想に過ぎません。「腰に帯する」のは自我、自意識の表われです。彼らが逃げ隠れするのは、神さまが園の中をやって来る「足音」(もしくは歌声、話し声)を聞いた瞬間です。約束を破って「顔向けできない」気分だったのです。「今更どの面下げて会いに行けるかよ」と言うのは社会的な立場のない人です。アダムとエバは「どこにいるのか?」という神の呼びかけに、素直に出て来るのです。それでは、なぜ「恐ろしくなり、隠れた」のでしょうか。

3.《裸であること》 エデンの園の中では裸が当たり前でした。岩波版「創世記」では「彼ら二人は裸であった。彼らは互いに恥じることはなかった」と訳されています。「裸であったが…」ではなく「裸であるが故に」と読むことも出来ます。衣服は階級や貧富の差を示します。園を追放された人間たちは、もはや愛と信頼で結ばれた「隣人」ではいられなくなります。支配/被支配の関係(16節)が生まれたのです。御前にあって、私たちは上下、主従、優劣の関係を前提に生きるべきではないとのメッセージが込められているのです。神に対しても人に対しても「裸の生き方」を示されたのが、十字架のイエスさまです。

朝日研一朗牧師

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