2018年10月08日

すべての人と和らげ【ローマ 12:9〜21】

聖句「すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(12:17,18)

1.《フィラデルフィア》 映画『ロッキー』の舞台は、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアです。ここに合衆国建国の理念の原点「信教の自由」があるからです。クエーカー教徒のウィリアム・ペンが、欧州の宗教迫害や不寛容から逃れて来た、全ての教派の人に開かれた町として設立したのです。人が自らの信念によって自由に生きることが保証されているのです。

2.《結び合わされた者》 フィラデルフィアとは「兄弟愛」を意味します。新約聖書に174回も使用される語です。「兄弟愛」と言っても肉親のことではありません。地縁血縁の紐帯ではなく、信仰による繋がりなのです。残念ながら、仲間意識には排他性と現実逃避が付きものです。誰かと誰かが盛り上がれば、疎外感に悩む人が出て来ます。仲間意識を保ちながらも、内輪で固まらず、常に外の人に目を向ける姿勢が大切です。日本では「ブレザレン」を「兄弟」ではなく「同胞」と訳しました。日本語の「兄弟/姉妹」に比べて、ギリシア語の「アデルフォス/アデルフェー」が、性差を強調していないことも忘れてはなりません。

3.《真の幸福とは何か》 キリストに結ばれた者は、年齢の序列や性差、性別も超えて行くべきです。仲間意識も超えて行くのです。勿論、核に成るのは「兄弟愛」ですが、旅する同信の友、喜ぶ者と悲しむ者、身分の低い人へと順々に、その愛は広がって行き、敵や迫害する者にまで向けられるのです。一足飛びに出来ることではありません。「せめて」と訳されている語句は「あなたがた自身に応じて、あなたがた次第、あなたがたに掛かっている」です。自分の愛が偽りであることが露わになるかも知れません。しかし、失敗と挫折を繰り返しながら、神の下さる祝福を信じて、真の幸福を求めて参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:56 | 毎週の講壇から

2018年10月02日

10月第1主日礼拝

      10月 7日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 すべての人と和らげ=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 12章9節〜12節(p.292)
讃 美 歌  27、152、490、162、540、81、28
交読詩編  詩編146編1〜10節(p.163)

・青空カフェ     礼拝後       玄関バルコニー

・・・当日の音声録音を聴く
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2018年10月01日

裸の大将の失楽園【創世記3:8〜19】

聖句「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(3:10)

1.《いちじくの葉》 米国のドラマ『デスパレートな妻たち』のタイトルは、クラナッハの「アダムとエバ」から始まり、女優陣が真っ赤な毒リンゴを手にして登場します。「禁断の果実」がリンゴになったのはラテン語の語呂合わせからです。他方、アダムとエバが腰に巻いたイチジクは実名です。英語で「いちじくの葉」と言えば「都合の悪いこと、恥ずかしいことを覆い隠す」の意味です。

2.《顔向けできぬ》 しかし原典は「彼ら自身のために帯を作った」とあるだけで「隠した、覆った」の含みはありません。性的な深読みを始めたのは、後代の人たちの妄想に過ぎません。「腰に帯する」のは自我、自意識の表われです。彼らが逃げ隠れするのは、神さまが園の中をやって来る「足音」(もしくは歌声、話し声)を聞いた瞬間です。約束を破って「顔向けできない」気分だったのです。「今更どの面下げて会いに行けるかよ」と言うのは社会的な立場のない人です。アダムとエバは「どこにいるのか?」という神の呼びかけに、素直に出て来るのです。それでは、なぜ「恐ろしくなり、隠れた」のでしょうか。

3.《裸であること》 エデンの園の中では裸が当たり前でした。岩波版「創世記」では「彼ら二人は裸であった。彼らは互いに恥じることはなかった」と訳されています。「裸であったが…」ではなく「裸であるが故に」と読むことも出来ます。衣服は階級や貧富の差を示します。園を追放された人間たちは、もはや愛と信頼で結ばれた「隣人」ではいられなくなります。支配/被支配の関係(16節)が生まれたのです。御前にあって、私たちは上下、主従、優劣の関係を前提に生きるべきではないとのメッセージが込められているのです。神に対しても人に対しても「裸の生き方」を示されたのが、十字架のイエスさまです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から