説 教 君はひとりじゃない

聖 書 マタイによる福音書 1章18〜25節(p.1)
讃 美 歌 27、233、490、356、231、71、88
交読詩編 詩編25編1〜11節(p.30)
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(4:26,27)
1.《食物リレー》 私たちの食べている物は自然からの恵みです。それを収穫するために働いている農業者、漁業者、生産者があり、それを運ぶ人、売る人、料理する人の手を経て、初めて私たちの口に入るのです。後片付けをする人もいます。丁度、人から人へとバトンや襷を繋ぐリレーのようです。自然界に食物連鎖があるように、人間の社会にもリレーがあるのです。
2.《バナナの皮》 バナナを皮ごと食べる人はいません。しかし、中の白い部分も「実」ではありません。「外果皮」に対して「内果皮」と言います。私たちはバナナの皮を食べているのです。イチゴの赤い部分も「実」ではありません。茎の先端に果肉が付いているのです。ミカンも中身に至っては毛なのです。房から細胞の毛が生えて来て、袋の中で成長し、甘い汁が溜まったのです。その名残が白い筋のような繊維質「アルベド」です。食用に品種改良され退化していますが、これらの果物の中にも、かつては種があったのです。
3.《見えない種》 マジシャンが「種も仕掛けもありません」と口上を述べますが、本当は仕掛け(トリック)があるのです。但し、それは種のように小さくて観客が気づくことが出来ないのです。イエスさまの譬え話の農夫も自分で種を蒔いて置きながら、どうして成長して行くのか分からないのです。奈良県の社会福祉施設「たんぽぽの家」で入所者が思い思いのアートを作っています。「エイブル・アート/可能性の芸術」と言うのだそうです。障碍者は「出来ない人」ではなく、何事か「出来る人」なのであり、彼らの創造にこそ、むしろ社会の在り方や仕組みを変えて行く「種」が隠されているのです。
朝日研一朗牧師
収穫感謝日合同礼拝で、子どもたちも司式や聖書朗読をしました。
礼拝後、収穫感謝日パーティーがありました。持ち寄った食材で作った豚汁、果物、海の幸をいただきました。
その後、子どもたちはクリスマスツリーを飾って、来週からのアドベントの準備をしました。
1.安らぎと幸せ
2012年のNHK連ドラ『純と愛』は、宮古島で祖父が営んでいた「魔法の国」のようなホテルを再建しようと奮闘するヒロイン、純(夏菜)に、「人の心が見える」という不思議な能力を持つ青年、愛(いとし)(風間俊介)が絡んで来るドラマでした。
ヒロイン純が情緒不安定の上、相手役の愛も心の病気を抱えています。愛と母親(若村麻由美)との確執も見ていて辛くなる程です。更に、ヒロインの母親(森下愛子)は若年性アルツハイマーに成るわ、父親(武田鉄矢)は海で溺れて死んでしまうわ、純と愛は結婚するものの、愛は脳腫瘍で倒れて、昏睡状態のまま、ドラマが終了するわ、不幸の釣瓶落としのような、その展開は「朝ドラ」ではなく「深夜ドラ」でした。吉田羊や黒木華が一躍注目されたドラマですが、視聴率は振るわず、評判も芳しくありませんでした。今でも「トラウマ系連ドラ」の烙印を押されています。
このドラマは「オオサキプラザホテル」という大阪(北浜の辺りでしょうか)の格式あるホテルに、新入社員のヒロインが出社する所から始まりました。そのホテルのロビーには「PAX INTRATIBVS/SALVS EXEVNTIBVS」=「パクス・イントランティブス/サルース・エクセウンティブス」というモットーが掲げられていました。「訪れる者に安らぎを、去り行く者に幸せを」という意味です。社長役の舘ひろしが楽しそうに説明する場面があったように記憶します。それが唯一、心の和む場面でした。
2.誰もに祝福を
上記の碑文も、小文字なら「pax intrantibus,salus exeuntibus」と書きます。ラテン語の「U」と「V」、「I」と「J」は交換可能なのです。そもそも古代のラテン文字には小文字も無く、「J」「W」「U」の文字も無かったのです。だから、高級時計メーカー「ブルガリ」も気取って「BVLGARI」と銘打っているのでしょう。
1989年のスピルバーグ監督の『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(Indiana Jones and the Last Crusade)のクライマックス、キリストの聖杯に至る第二の試練は「神の言葉を辿れ」という指示でした。石畳の床石には、アルファベットの文字が一文字ずつ彫ってあります。「『神の言葉』とは『神の名』だ!」と気付いたインディが、「ヤハウェ。いや、中世はエホバと呼んでいた!」と「JEHOVA」の文字石を踏もうとしますが、冒頭の「J」を踏んだ途端に石が崩れて危機一髪。インディは「IEHOVA」と踏み直して渡り切るのです。でも、よく考えてみたら、「古代から生き永らえている」という聖杯の騎士が守る神殿に「J」だの「W」だのの文字があるはずは無いでしょう。
さて、上記の碑文は、羽田空港第二ターミナルにもプレートとして掲げられていますが、本家本元は、南ドイツはバイエルン州ミッテルフランケン行政管区のローテンブルクの街の「シュピタール門/Spital Tor」に刻まれているそうです。「門」を意識して訳すなら「入るものには平安、出づる者に安泰」とでも言いましょうか。「シュピタール/Spi’tal」と言えば「ホスピタル/Hospital/病院、養老院、救貧院」の事です。とにかく、ローテンブルクの正式名称は「ローテンブルク・オプ・デル・タウバー/Rothenburg ob der Tauber/タウバー川を臨む丘の上のローテルブルク」で、「ブルク/Burg」と言うだけあって「城塞」都市だそうです。中世の街並みが綺麗に保存されていて、所謂「ロマンティック街道」の中でも一番人気、「中世の宝石箱」と呼ばれているとか…。
かの碑文との類似が指摘されているのは、旧約聖書「申命記」28章6節「あなたは入る時も祝福され、出て行く時も祝福される」です。また、ラテン語の成句には「住まう者(留まる者、滞在する者)に祝福を/Benedictio habitantibus/ベネディクティオー・ハビタンティブス」があります。訪れる者も去り行く者も、入る人も出る人も、そこに留まる人も祝福される。関わった人、誰もが全て祝福されるのです。それこそ「クリスマスの心」です。キリストの教会たる私たちも、このようにありたいものです。
3.救世主の到来
今年の10月24日、日本の「来訪神(らいほうじん)」の習俗が「ユネスコ無形文化遺産」に登録されました。秋田県牡鹿のナマハゲ、石川県能登のアマメハギ、鹿児島県甑島のトシドシ、沖縄県宮古島のパーントゥ他10件です。「来訪神」とは、年1回、決まった時期に、人間界を訪れる神で、豊穣と幸福をもたらす存在と考えられています。ですから、ナマハゲに脅された子どもが号泣しても、親は微笑んでいますし、パーントゥに異臭を放つ泥を塗られても、住民は楽しそうです。どの「来訪神」も仮面を付けています。仮面を付ける事で、演者は神の依り代に成っているのです。
実は、ヨーロッパにもオーストリアのペルヒタ、スイスのクロイセ、ドイツのベンデル等、真冬に仮面を付け、異形の妖精や悪魔の姿をした演者が、民を来訪する祭りがあるのです。そんな民俗がまた、見事にクリスマス、エピファニー、レント、イースター等の教会行事に織り込まれているのです。例えば、ペルヒタや黒いピート、クランプスやクネヒト・ルプレヒト等は、聖ニコラウスやシンタクラース(サンタクロースの原型)の従者として登場します。イタリアの魔女ベファーナはエピファニー(公現日)という語が訛って付けられた名前です。「来訪神」と言えば「三人の博士たち」も登場します。宗教改革をしたはずのルター教会が支配する地域ですら、クリストキント(幼子キリスト)という名前の妖精が深夜に訪れ、クリスマスツリーの下にプレゼントを置くと信じられています。
そして、イエス・キリストこそは、天から地上に送られた「来訪神」そのものです。何しろアドベント(待降節)とは「アドウェントゥス/adventus/到来」なのですから。
牧師 朝日研一朗
【2018年12月の月報より】
聖句「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10:15)
1.《目的と手段》 最近「ユニセフ・マンスリー・サポート・プログラム」の広告がメディアを使って大々的に行なわれています。テレビやDMは勿論、山手線の車両を使った宣伝もありました。広報の必要性は理解できますが、現場での活動と広告との乖離を感じさせられます。目的と手段の一致は、私が福音から教えられた真理です。目的が愛であるなら、手段もまた愛でなくてはなりません。
2.《子の立会人》 一行が町に入ると、人々がイエスさまに「触れて」頂くために、子どもたちを「連れて来」ました。主は子どもを「抱き」「手を置き」「祝福」されました。まるで保育学の教科書のようです。子どもが成長するのに必要なことばかりです。触れること、抱くこと、「連れて来る」は「外に出す」(外遊び!)、「祝福する」は「誉める」(誉めて伸ばす!)です。「手を置く」は聖別の祈りですが、任務の委託の意味があります。親の願いではなく、神さまが与えられた使命を全う出来るように祈るのです。大人は子どもの人生の立会人なのです。
3.《子供と貧困》 貧困と言っても、衣食住に窮する「絶対的貧困」と、経済的な理由で人生の可能性が損なわれる「相対的貧困」があります。紀元1世紀のパレスチナでは、ヘロデ王家の失政による財政破綻、領土の分割、ローマの支配に加えて、自然災害と飢饉もあり、絶対的な貧困層(プトーコス)に溢れていました。「縮こまる、蹲る」という語源が極貧の状態を表わしています。町の人たちは「養いの奇跡」で評判のイエスさまの来訪に、子どもたちを押し付けようとしたのです。だから弟子たちは叱ったのです。シュテーゲマンは「1人の子どもを受け入れる人が神の国に入る」という解釈を提案しています。
朝日研一朗牧師
聖句「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに…」(4:9)
1.《自分を知る》 自分を知るということは、そんなに簡単なものではありません。私たちは、自分の性格をある程度知ることも出来ますが、多くの場合、自己理解に基づいており、自己理解を形成してきた過去に溯るもので、絶対的なものではないと言えます。そもそも自分は何者か、ということを知ることが問題です。
2.《自己と他者》 宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』の冒頭に、人生で最も大切なことは、神を知ることと、自分を知ることであって、この二つは結び合っている、と言いました。でも、私たちは普通、自己について無自覚に生きて、自分の業績や生き方に満足している、とも言っています。キルケゴールは、自己とは関係であって、それ自身が関係に関係する関係である、と言っていました。自己は、相矛盾する二つの要素から成っていて、この二つの関係に関係するのが自己ですが、そのように定めた他者が更にいて、この他者との関係が壊れているために、二つの要素も調和せず、自己に成ろうと絶望的な病に陥っている、と言いました。しかも、多くの場合、それを忘れて生きているのです。
3.《十字架の姿》 聖書は、神を知ることは「十字架につけられたイエス・キリスト」をはっきりと見る、その福音を聞くことである、と述べています。十字架のキリストは、私たちの姿をはっきりと目の前に描いて見せてくれます。これは神に呪われた人間の姿である、とも言っています。それだけではなく、これは神に受け入れられ、愛されている人間の姿でもあります。私たちは、この姿のうちに、私たちの惨めな姿を見ると同時に、それが神に知られ、受け入れられ、愛されていることをも見るのです。ここで私たちは、神を知ることと、自分を知ることの、二つのことを、しっかりと見出すのです。
渡部 満(銀座教文館代表取締役社長)