2018年11月20日

11月第4主日礼拝(収穫感謝日、謝恩日)

      11月25日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 どんな果実にも種がある=@    朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 4章26〜29節(p.68)
讃 美 歌  27、174、教会福音讃美歌245、386、29
交読詩編  詩編77編1〜16節(p.87)

・讃美歌練習(12月の月歌:233番)  礼拝後    礼拝堂
収穫感謝日パーティー   讃美歌練習後〜午後2時   階下ホール
  会費無料(豚汁、餅つき、フルーツ他)、カンパよろしくお願いします。

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2018年11月19日

この子を受け入れる人が…【マルコ10:13〜16】

聖句「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10:15)

1.《目的と手段》 最近「ユニセフ・マンスリー・サポート・プログラム」の広告がメディアを使って大々的に行なわれています。テレビやDMは勿論、山手線の車両を使った宣伝もありました。広報の必要性は理解できますが、現場での活動と広告との乖離を感じさせられます。目的と手段の一致は、私が福音から教えられた真理です。目的が愛であるなら、手段もまた愛でなくてはなりません。

2.《子の立会人》 一行が町に入ると、人々がイエスさまに「触れて」頂くために、子どもたちを「連れて来」ました。主は子どもを「抱き」「手を置き」「祝福」されました。まるで保育学の教科書のようです。子どもが成長するのに必要なことばかりです。触れること、抱くこと、「連れて来る」は「外に出す」(外遊び!)、「祝福する」は「誉める」(誉めて伸ばす!)です。「手を置く」は聖別の祈りですが、任務の委託の意味があります。親の願いではなく、神さまが与えられた使命を全う出来るように祈るのです。大人は子どもの人生の立会人なのです。

3.《子供と貧困》 貧困と言っても、衣食住に窮する「絶対的貧困」と、経済的な理由で人生の可能性が損なわれる「相対的貧困」があります。紀元1世紀のパレスチナでは、ヘロデ王家の失政による財政破綻、領土の分割、ローマの支配に加えて、自然災害と飢饉もあり、絶対的な貧困層(プトーコス)に溢れていました。「縮こまる、蹲る」という語源が極貧の状態を表わしています。町の人たちは「養いの奇跡」で評判のイエスさまの来訪に、子どもたちを押し付けようとしたのです。だから弟子たちは叱ったのです。シュテーゲマンは「1人の子どもを受け入れる人が神の国に入る」という解釈を提案しています。

朝日研一朗牧師

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2018年11月13日

11月第3主日礼拝

      11月18日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 この子を受け入れる人が…音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 10章13〜16節(p.81)
讃 美 歌  27、174、105、371、82、29
交読詩編  詩編77編1〜16節(p.87)

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2018年11月12日

神に知られている私【ガラテヤ4:8〜11】

聖句「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに…」(4:9)

1.《自分を知る》 自分を知るということは、そんなに簡単なものではありません。私たちは、自分の性格をある程度知ることも出来ますが、多くの場合、自己理解に基づいており、自己理解を形成してきた過去に溯るもので、絶対的なものではないと言えます。そもそも自分は何者か、ということを知ることが問題です。

2.《自己と他者》 宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』の冒頭に、人生で最も大切なことは、神を知ることと、自分を知ることであって、この二つは結び合っている、と言いました。でも、私たちは普通、自己について無自覚に生きて、自分の業績や生き方に満足している、とも言っています。キルケゴールは、自己とは関係であって、それ自身が関係に関係する関係である、と言っていました。自己は、相矛盾する二つの要素から成っていて、この二つの関係に関係するのが自己ですが、そのように定めた他者が更にいて、この他者との関係が壊れているために、二つの要素も調和せず、自己に成ろうと絶望的な病に陥っている、と言いました。しかも、多くの場合、それを忘れて生きているのです。

3.《十字架の姿》 聖書は、神を知ることは「十字架につけられたイエス・キリスト」をはっきりと見る、その福音を聞くことである、と述べています。十字架のキリストは、私たちの姿をはっきりと目の前に描いて見せてくれます。これは神に呪われた人間の姿である、とも言っています。それだけではなく、これは神に受け入れられ、愛されている人間の姿でもあります。私たちは、この姿のうちに、私たちの惨めな姿を見ると同時に、それが神に知られ、受け入れられ、愛されていることをも見るのです。ここで私たちは、神を知ることと、自分を知ることの、二つのことを、しっかりと見出すのです。

渡部 満(銀座教文館代表取締役社長)

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年11月11日

2018特別礼拝&講演会

20181111特別礼拝&講演会
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2018年11月06日

11月第2主日礼拝(障がい者週間)

      11月11日(日) 午前10時30分〜11時40分
奨  励 神に知られている私音楽
              渡部 満(銀座教文館代表取締役社長)
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙 4章8〜11節(p.347)
讃 美 歌  27、174、未定、未定、29
交読詩編  詩編77編1〜16節(p.87)

特別講演会  午後1時30分〜2時30分  礼拝堂
   講演:  銀座の中の教文館=@   渡部 満

・・・当日の音声録音を聴く
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2018年11月05日

来る年も来る年も【士師記11:34〜40】

聖句「来る年も来る年も、年に4日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。」(11:40)

1.《死の無残さ》 人生の歩みが十人十色であるように、最期の迎え方も同じではありません。同じ病気で亡くなろうと、同じ日に亡くなろうと、全く異なるのです。死は自然の理と言いつつも、愛する者と引き裂かれる人にとっては大きなダメージです。医療の発達により長寿が可能になっても、死の実態は変わっていません。ある日、私たちの絆は無残に断ち切られてしまうのです。

2.《士師エフタ》 勇者エフタはギレアドの長老たちに乞われて、軍の司令官と成り、アンモン人との戦いに勝利します。しかし、決戦の前に「勝利の暁には自宅から私を迎えに出た者を生贄に捧げる」と神に誓いを立てるのです。人間の体と命を捧げる「人身御供」が最も強い影響力を持つとされていたのです。結局、父の凱旋を喜び飛び出した一人娘を生贄に差し出すことになります。エフタは勇者と言っても、実の娘に優しい言葉も掛けず逆ギレするダメ男の典型です。その無責任、無慈悲、無節操は、彼が「ならず者」の親分だった出自を思わせます。男の「冒険」の尻拭いを女性がさせられているのです。

3.《エフタの娘》 娘は12〜13歳の女の子のはずですが、父の誓いの責任を自ら果たそうとするのです。古代社会では、妻となり母となり、子をもうけることが女性の唯一の義務とされていました。さもなければ、神からも民からも「記憶されない者」として打ち捨てられるのです。父のため、その運命を受け入れた娘は、結婚式の付添い人を思わせる女友だちと最期の日々を過ごします。娘は生贄にされますが、少女たちは彼女のことを忘れず、その記念の儀式は伝統に成ったのです。作家の高橋たか子は「死者に対する礼儀は2つある。1つは沈黙すること、もう1つは、彼らのことを決して忘れないこと」と言います。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2018年11月04日