2019年01月29日

2月第1主日礼拝(創立記念礼拝)

       2月 3日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 希望はどこから来るのだろう音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 15章7〜13節(p.95)
讃 美 歌  27、5、490、151、413、74、24
交読詩編  詩編147編1〜11節((p.164)

・青空カフェ      礼拝後       玄関バルコニー

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2019年01月28日

新しく創造されること【ガラテヤ6:11〜16】

聖句「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(6:15)

1.《作者と楽器》 演奏者もいなくなり、古びて壊れたハープが物置小屋に仕舞われていました。ある時、旅人が一夜の宿を所望して、物置小屋に泊まりました。翌朝、家の主人が目覚めると、美しいハープの音色が聴こえます。旅人に尋ねると、彼は「私はハープ職人で、私の製作した物だと分かりました。一晩の宿のお礼にと修理しました」と言うのでした。私たちの人生や生活も、奏者を失ったり壊れたりします。その時、神さまに新しく創造して貰う他ありません。

2.《祈りは便り》 実は、旅人が製作者その人であったという展開が重要です。工房で丁寧に作られた楽器は、演奏者と共に成長して、共に生きて行きます。同じく、楽器と製作者とが呼び合うこともあります。城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』のように、亡き伴侶に呼び掛けるのも一種の祈りです。但し、私たちが一番に呼び掛けなくてはならないのは、私たちを創られた神さまです。日常的に祈り、礼拝を守り、心から賛美し、聖書を読むことを倦まず弛まず続けないと、私たちは見えないものを見ようとはしなくなります。すると、音信が途絶えて、私たちの魂は物置小屋で埃を被ってしまうことになるのです。

3.《新しい創造》 ユダヤ教徒は「割礼」を神との契約の徴として重んじて来ました。キリスト教がユダヤ教から脱皮する時、パウロがこれを廃棄したのです。食物規定の律法はペトロが廃棄してくれました。女性のベール着用義務や女性の発言禁止は宗教改革者が廃棄しました。信仰の本質を生きるためには、聖書とは言え、乗り越えなくてはならぬ言葉もあるのです。パウロは「価値があるのは新しい創造だ」と言います。私たちは何より、イエス・キリストの立てられた「原理/カノーン」に従って歩いて行くのです。それこそが「新しい創造」です。神に創られ愛された者としての自覚をもって生きるのです。

朝日研一朗牧師

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2019年01月27日

感じて、漢字の世界

1.珍妙な当て字

子どもの頃、新聞記事の見出しに「米軍」という文字があるのを(ベトナム戦争の戦況を伝えていたのでしょう)見て、父親に尋ねたことがあります。「アメリカ人はパン食で、米を食べないのに、どうして「米軍」なの?」。勿論、すぐに父は「アメリカ」の漢字音写「亜米利加」の「米」であることを教えてくれました。

ところが、私も子どもながら簡単には引き下がりません。「それじゃあ、どうして頭文字の「亜」では無いの?」。父が答えます。「他にも「亜弗利加/アフリカ」や「亜拉比亜/アラビア」や「亜爾然丁/アルゼンチン」があるからだ」。私は更に重ねて「フランス人は仏教徒ではなくて、大半はキリスト教徒なのに、どうして「仏」等という文字が当ててあるの?」と尋ねたのでした。父の答えは「音写は適当に近い音の漢字を当てているので、特に深い意味内容は無いのだ」ということでした。父は大学での専攻が人文地理学だったので、こういう話はお得意だったのです。

しかし、相変わらず、その後も、私の頭の中には「米飯給食のアメリカ(亜米利加)軍」「仏像のように螺髪になったフランス(仏蘭西)人」「ハミ子のドイツ(独逸)人」「チューリップならぬ胡蝶蘭を手にしたオランダ(阿蘭陀)人」「土まみれのトルコ(土耳古)人」「埃まみれのエジプト(埃及)人」「いつも素っ裸で歩くロシア(露西亜)人」「ワインに悪酔いしたポルトガル(葡萄牙)人」「インスタント縮れ麺を食べるビルマ(緬甸)人」等が徘徊することになったのでした。

そう言えば、何年か前、八王子在住のドイツ人の漢字研究家が祖国「ドイツ」に「独」の漢字を当てるのは「不愉快だから止めて欲しい」と訴えている新聞記事を読んだことがあります。「獣偏」を使っている所に差別意識が伺えるとのことでした。その関連で言うと「ユダヤ」も「猶太」と書きましたね。「猶」は、猿の一種で疑い深い性質なので「疑う、躊躇う」の意味があるそうです。こっちの方が余程、問題です。

2.映画と当て字

長じて映画ファンに成った私は、戦前の映画を好んで観るように成りました。そしたらあるわあるわ、読めない漢字の外国映画の題名…。まあ、『聖林(ハリウッド)ホテル』に『巴里(パリ)祭』くらいは、誰でも読めるでしょう。

リア・デ・プティのハリウッド進出第1作のヴァンプ物『神我に二十仙(セント)を給ふ』、英国のスパイ映画『空襲と毒瓦斯(ガス)』、ジャネット・マクドナルドの歌も有名な、災害スペクタクル映画『桑港(サンフランシスコ)』、社会諷刺劇『市俄古(シカゴ)』、怪人フー・マンチュウの『成吉斯汗(ジンギスカン)の仮面』、マルレーネ・ディートリッヒ主演の『西班牙(スペイン)狂想曲』、恋愛喜劇の『大紐育(ニューヨーク)』、青春の思い出を描く名作『たそがれの維納(ウィーン)』…。『桃源郷』に「テュランドット」、『胡椒娘』に「パプリカ」とルビを振るに至っては、もはや完全な遊び心です。

「ハリウッド」に「聖林」の漢字を当てたのは「Hollywood」の「holly/柊」を「holy/聖なる」と読み違えたことから来ているのですが、映画の都、即ち、映画ファンにとっての「聖地」という意味で、今でも日本では「ハリウッド」=「聖林」が通用してしまうのですから馬鹿に出来たものではありません。

『七年目の浮気』の香港版のポスターを見た時に、主演女優が「瑪麗蓮・梦露」と成っていたのにも感動しました。言うまでもありません、マリリン・モンローです。「瑪瑙(めのう)」や「睡蓮」のように「麗しく」、「梦(夢)」のような美女で、少し「露出」あります…みたいな…。面白すぎる。

他にも挙げて置きます。エリザベス・テイラーは「伊莉沙白・泰勒」、ソフィア・ローレンは「蘇菲亞・羅蘭」、ブリジット・バルドーは「碧姫・芭社」、グレイス・ケリーは「格蕾絲・凱利」、エヴァ・ガードナーは「愛娃・嘉コ納」、キャサリン・ヘップバーンは「凱瑟琳・赫本」、オードリー・ヘップバーンは「奥黛麗・赫本」です。漢字を見ると発情してしまいそうです。

3.聖書と当て字

礼拝のメッセージや聖書研究の準備などをしていて、疲れた時には、私は中国語訳聖書を開くようにしています。「和合本/Chinese Union Version」という、中国語圏で最も普及している翻訳聖書です。

中国語訳聖書の何が面白いかと言って、やはり、固有名詞の当て字です。「伊甸園/エデンの園」、「亞當/アダム」と「夏娃/エバ」、「該隠/カイン」と「亞伯/アベル」、洪水と来たら「挪亞/ノア」、族長は「亞伯拉罕/アブラハム」「以撤/イサク」「雅各/ヤコブ」。エジプトからカナンへ「約瑟/ヨセフ」「摩西/モーセ」「約書亞/ヨシュア」「參孫/サムソン」。王様は「大衛/ダビデ」「所羅門/ソロモン」。預言者は「以利亞/エリヤ」「以利沙/エリシャ」に「以賽亞/イザヤ」「耶利米亞/エレミヤ」「以西結/エゼキエル」…。

女性の名前を補充しましょう。「撤拉/サラ」「利百加/リベカ」「利亞/レア」「拉結/ラケル」「她瑪/タマル」「米利暗/ミリアム」「大利拉/デリラ」「路得/ルツ」「拔示巴/バトシェバ」「耶洗別/イゼベル」「以斯帖/エステル」…。

新約に移って、「耶穌基督/イエス・キリスト」は言うに及ばず、「馬利亞/マリア」「希律/ヘロデ」「約翰/ヨハネ」「撤但/サタン」「拿撤勒/ナザレ」「西門・彼得/シモン・ペトロ」「法利賽/ファリサイ」「耶路撤冷/エルサレム」「本丟・彼拉多/ポンティオ・ピラト」「巴拉巴/バラバ」「各各多/ゴルゴタ」「抹大拉的馬利亞/マグダラのマリア」「保羅/パウロ」。福音書記者は「馬太/マタイ」「馬可/マルコ」「路加/ルカ」です。

牧師 朝日研一朗

【2019年2月の月報より】

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2019年01月22日

1月第4主日礼拝

       1月27日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 新しく創造されること=@音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙 6章11〜16節(p.350)
讃 美 歌  27、366、490、299、475、89
交読詩編  詩編100編1〜5節(p.113)

・讃美歌練習(2月の月歌:5番)   礼拝後     礼拝堂

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2019年01月21日

どうぞこのまま【マタイ3:13〜17】

聖句「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(3:15)

1.《千人斬り》 千人以上に洗礼を授けたと言う老牧師の自慢を聞いて、友人が「まるで千人斬りや」と揶揄したのに思わず吹き出したことがあります。千人斬りとは、侍が祈願成就や腕試しで辻斬りをすること、あるいは西鶴の『好色一代男』の世之助のように、大勢の相手と性交渉することです。受洗は神さまの御業であって、牧師などが業績として誇るようなことではありません。

2.《洗礼否定》 パウロは「コリントの信徒への手紙T」で、教会の内輪揉めの原因が「誰に受洗したか」にあるとして、自分は誰にも洗礼など授けていないと叱りました。実は、イエス御自身も誰にも洗礼など授けていないのです(ヨハネによる福音書4章2節)。洗礼は、原始キリスト教会が、ユダヤ教のエッセネ派かクムラン教団の流れを汲む洗礼者ヨハネから引き継いだ儀式です。福音書中、イエス御自身が洗礼に関わるのは、そのヨハネから受洗する場面だけなのです。しかも、ヨハネは「神の子」に「罪の悔い改めの洗礼」を授ける等と考えられず、一旦は、何とかして思い留まらせようとさえするのです。

3.《今のまま》 イエスさまは「神の子」であることに固執せず、十字架の死に至るまで「人の子」として生きることを決断されたのです。それが「キリストの洗礼」です。それまでのナザレでの暮らしから、新たに進むべき道に一歩を踏み出されたのです。「今は、止めないでほしい」は「今は、許して」です。「至らぬ身ながらも受けたい」と、私たちの受洗を決断する態度と同じです。英訳聖書では「レット・イット・ビー」とも訳される箇所です。洗礼を授けるヨハネの側の遜った姿勢にも注目しましょう。洗礼は両者の共同作業、しかも神さまの御心に従う、これこそが「正しい」在り方なのです。

朝日研一朗牧師

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2019年01月15日

1月第3主日礼拝

       1月20日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 どうぞこのまま=@音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 3章13〜17節(p.4)
讃 美 歌  27、366、490、67、277、89
交読詩編  詩編100編1〜5節(p.113)

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2019年01月14日

終末のドレスコード【マタイ22:1〜14】

聖句「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。」(22:11,12)

1.《晴れ着の礼拝》 英米には「サンデーベスト」という語があります。日曜日に自分なりの最上の装いをして礼拝に行くのです。毎日が「晴れ着状態」の貴族や金持ちは論外。週日は労働に汗を流している人たちならではの習慣です。宗教改革後の教会が「市民の教会」へと大きく舵を切った結果です。米国移民にとっては、民族や教派のアイデンティティを表現することでもあったのです。

2.《普段着の礼拝》 現代の教会は、むしろ週日と同じ「カジュアル派」です。牧師も特別な儀式にしかガウンを着用しません。ジュネーヴ・ガウンは、その名の通り、カトリックの神父の黒服キャソックに対抗して、長老派が作ったものです。聖公会やメソジスト、ルーテル等はキャソックの詰襟の部分だけを使うことで、牧師であることを示しています。私の友人は、牧師も信徒の1人でありたい、礼拝も日常生活と地続きでありたいと考えて「普段着の礼拝」を続けています。彼自身が鬱病を発症して、指導者のポーズに疲れ果てたというのが発端でした。

3.《婚礼服の着用》 婚宴に招かれていながら出席を拒否して、王を王とも思わぬ乱暴狼藉の故に滅ぼされる客は、旧約の民を表わします。次に、王は家来に命じて大通りから「悪人でも善人でも」婚宴に連れて来させるのです。これは新約の民である教会を意味します。人間的な価値基準や判断材料ではないのです。教会もまた、終末に裁かれなくてはなりません。「礼服/婚礼の服」は、招待客の全員に入り口で手渡される法被のような上着です。無条件の恵みです。イエスさまの御蔭で、私も神の子とされているとの信仰です。これを自分から脱いだり、軽んじたりしない限り、神は私たちを見捨てられません。

朝日研一朗牧師

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2019年01月08日

1月第2主日礼拝

       1月13日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 終末のドレスコード=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 22章1〜14節(p.42)
讃 美 歌  27、366、490、576、75、89
交読詩編  詩編100編1〜5節(p.113)

・・・当日の音声録音を聴く
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2019年01月07日

神さまの宝物【申命記7:6〜8】

聖句「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。…ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…」(7:6,8)

1.《七福神と宝船》 新年の寺も「七福神」詣でに参る人で賑わいます。しかし本来は、除夜に際して、船の絵を床に敷いて眠り、翌朝、川に流して穢れを祓う儀式でした。「宝船」に乗った「七福神」は、私たちの願う「幸福」が「宝」(個人的な富の集約、経済的成功)であるという告白です。誰でも自らの幸福を追求する権利がありますが、もう少し社会全体の幸せを願うべきです。

2.《主なる神の宝》 他の翻訳聖書が「選ばれた民」と訳している中、日本語訳聖書は、伝統的に「宝の民」という直訳的表現を大切にして来ました。何を「宝」とするか、聖書の「価値観」の表明として重視しているのです。神さまが「所有」なさったことによる「付加価値」なのです。パウロの「コリントの信徒への手紙T」1章の召命観(選びの不思議)にも通じますが、「申命記」には「主の愛の故に」と強調されています。「宝」とは「愛」のことなのです。イエスさまも「あなたの宝のある所に、あなたの心もある」と仰っています。

3.《宝を守る闘い》 ドイツの中西部にビーレフェルトという町があり、その中心に、障碍の有無に関わりなく、何の隔てもなく、人々が共生する「ベーテル」という共同体があります。19世紀後半に、ボーデルシュヴィンクという牧師が呼び掛けて始まり、百年以上を掛けて街創りをしています。ナチスの障碍者抹殺部隊が来た時にも、街の人たちが「ここにいる人たちは、私たちの宝です。神の宝です」と、身を挺して守り切ったのです。神と格闘して障碍者に成ったヤコブは「イスラエル/神と闘う」の名前を授かりました。「宝」を守るために、真の宝が何であるか証しするために、神は闘い給うのです。

朝日研一朗牧師

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旭日亭菜単(続き)その49

  • 「黒いアリバイ」(ウィリアム・アイリッシュ著、稲葉明雄訳、創元推理文庫)
    この小説には、7人の魅力的な女性が登場します。流れて来た南米で一躍スター女優に成ったキキ、夜更けに母親から雑貨屋にお遣いに行かされる少女テレサ、霊園で恋人と逢引きしようとして果たせない令嬢コンチータ、酒場でコンパニオン紛いで稼いでいる「夜の姫君」クロクロ、米国の農機具販売会社の秘書で、久しぶりの休暇で羽根を伸ばしているサリイ、そして親友の仇を討つために捜査に協力するマージョリイ。どの女性も生き生きと描かれていて、その都度、読者は彼女たちに寄り添いながら読み進む(夜の道を歩き進む)ことになります。アイリッシュが老母と二人暮らしで、終生、女性と無縁だったとはビックリです。いや、生々しい女性関係が無かったからこそ、私たち(男性読者)の共感できるヒロインたちを産み出すことが出来たのかも知れません。
  • 「北欧神話物語」(キーヴン・クロスリイ=ホランド著、山室静・米原まり子訳、青土社)
    アニメ『進撃の巨人』が大好きな二男に「霧の巨人ユミル」による天地創造の場面を読んで聞かせたら興奮していました。オーディンら「アース神族」が「岩の巨人」に、アースガルドの城壁を建築させる物語も『進撃』を思い出させます。勿論、マーベルの『マイティ・ソー』でお馴染み、雷神トールや変身の神ロキも登場します。彼ら「アース神族」と相容れぬ関係にあるのが巨人族、小人族ですが、単なる敵対関係と言い切れる程に単純ではありません。巨人と知恵を競い合ったり、騙まし討ちにしたり、小人に宝飾品を作らせた挙句に奪い取ったりと、「アース神族」も思い付きや一時の欲望のままに行動し、自らの激情や憤怒を制御できません。無敵なはずのトールがウトガルドの巨人王から散々に侮辱される物語(ウトガルドへのトールの遠征)、ロキが小人のアンドヴァリから、黄金の山と指輪(「ニーベルングの指輪」の原点!)を奪い取り、呪いと共に巨人族に渡す物語(オッタルの賠償金)等、とても興味深い。それにしても、千年以上も昔に、どうしてロキのような屈折したキャラクターが生まれたのか不思議で成りません。
  • 「みんな彗星を見ていた/私的キリシタン探訪記」(星野博美著、文春文庫)
    国際都市香港で過ごした学生時代、自分の先祖のルーツを遡る紀行本など、著者の過去と生活の中にある「生の実感」みたいなものが、執筆の大きな動機に成っています。だから、彼女にとって「キリシタン」の時代に思いを向けることは、先ずリュートの演奏を学ぶことだったりします。島原半島を訪ねて、疲れ果ててしまう辺りの描写などは、こっちまで一緒に腹が減ったり体が冷え切ってしまいそうに成ったりします。周囲「巻き込み」型の執筆スタイルであることが想像されます。若松英輔が「解説」で「作者がキリスト者ではない」ことを評価して居られましたが、そのような評価の仕方自体がナンセンスだと思います。原城で「憑霊」したのと同じように、少なくとも本紀行文中においては、彼女の魂はカトリックに帰依すること著しく、その分、プロテスタントに対するアレルギー症状まで表われているのです。例えば、原城に大砲を打ち込んだオランダ船の出所、フランドルのリュート曲は演奏したくないとか、プロテスタント系の母校(国際基督教大学ですか)では、基本的なキリスト教の知識も教えてくれなかったとか…。秀吉、家康以上に敵対視している感じが読み取れるのです(笑)。それを差し引いても、気付きの発光に満ち溢れた本であることは認めなくてはなりません。当時の宣教師たちにとって、日本は数少ない「殉教」することの出来る地であったこと、宣教師たちの記録は「列福、列聖」の手続き上多く残されているものの、鎖国時代の日本人殉教者たちの記録は存在しない、それでも彼らの歴史は存在していること。胸打たれる考察です。
  • 「西部劇を極める事典」(芦原伸著、山と渓谷社/天夢人)
    前作『西部劇を読む事典』は、文字通り「事典」の体裁を採っていましたが、こちらは、クリント・イーストウッド、ジョン・フォード、カウボーイ御三家(ランドルフ・スコット、ジョエル・マクリー、オーディ・マーフィ)の作家論、役者論が大半を占めています。それでも6章の「ワイルド・ウェスト雑学事典」や「西部開拓史」年表などは、ありそうでいて、意外に無かったもので(少なくとも日本語では)、西部劇愛好家たる著者の面目躍如です。往年の名作『シェーン』が、チミノの『天国の門』と同じ「ジョンソン郡戦争」に関係する作品であること、「アメリカが新しい農業国として立ち上がる決意を表明した映画だった」こと等、目から鱗です。やはりと言うべきか、最も読み応えがあるのは、3章の「ジョン・フォードから学んだこと」です。どんなジャンルの、どんな作家に対する論評であれ、愛情と敬意に溢れた文章に接するのは気持ち良いものです。
  • 「時をとめた少女」(ロバート・F・ヤング著、小尾芙佐他訳、ハヤカワ文庫)
    幾分、揶揄を込めて「叙情SF」等と言われるヤングですが、思いの他、辛辣だったりします。ヤングには、確かに女性崇拝、少女趣味の性質があるのです。表題作などは、まさに直球ド真ん中「ボーイ・ミーツ・ガール」です。しかしながら「花崗岩の女神」等は、女性の形をした異星の山脈に挑む登山家の話で、旧約聖書の「雅歌」が繰り返し引用されるように、遣る瀬無い思いは募り、その挙句に女神崇拝、女性に裏切られた思い等が交じり合って、ここまで来ると、まさに「極北」です。「自分の女神に思いもよらなかった汚点があると知った者は、いったいどうするのだろう? 自分の真の恋人が淫婦だとわかった時、いったいどうするのだろう?」。巻末の「赤い小さな学校」も恐ろしい物語です。幸せな幼年時代の思い出を辿りながら、養父母の下を脱走して、「故郷」への旅を続けて来た少年が出会ったのは何だったでしょうか。憧れの女教師の本当の姿は…。
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