説 教 心のドアは内開き=@

聖 書 ヨハネの黙示録 3章14〜22節(p.456)
讃 美 歌 27、23、490、332、430、75、25
交読詩編 詩編24編1〜10節(p.29)
・青空カフェ 礼拝後 玄関バルコニー
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11:13)
1.《幸福追求権》 2016年、東京地裁にて、ある訴訟事件の判決が下されました。アイドルグループのメンバーが恋愛禁止規定を破ったとして、所属事務所から990万円の損害賠償請求をされていたのです。しかし「日本国憲法」第13条の「幸福追求権」に照らし、恋愛は「人生を自分らしく豊かに生きる自己決定権」であるとして、この損害賠償請求は棄却されたのです。
2.《自己決定権》 憲法の条文に「幸福」の定義はありません。各人の心が決めるべきことであり、定義すべきものではありません。しかし、戦前までは子の幸せを親が決めていました。今も幼少時から「これがあなたの幸せ」と刷り込まれています。幸せを金、地位や名誉、美しい容姿と考えるのも、経済優先の社会やマスコミが植え付けているのです。それらは自己満足や優越感に過ぎません。幸せへの思いは各人により異なりますが、価値観を押し付けることなく、何が本当の幸せかを問い掛けながら、共に歩む道が大切です。
3.《善い在り方》 イエスさまの譬話では、友が友にパンを求めたり、子が親に干し魚や卵を求めています。昔の信徒たちが「肉の糧」「霊の糧」とお祈りされていたのを思い出します。イエスさまも最後に「天の父が聖霊を与える」という約束で締め括って居られます。友にしろ父親にしろ、愛する人たちの手が介在しています。人と人との関係性の中に生まれる「良い贈り物」なのです。「聖霊の結ぶ実」(ガラテヤの信徒への手紙5:22)も同様です。「日本国憲法」を遡ると、米国の人権宣言(1776年)を経て、17世紀英国のリチャード・カンバーランド牧師の「幸福追求権」の定義に辿り着きます。曰く、互いの「Well-being」無くして、個人の「Happiness」等はあり得ないのです。
朝日研一朗牧師
聖句「…いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなったような顔をして高ぶるのですか。」(4:7)
1.《屑と滓》 パウロはキリストの使徒たる自らの有様を「見世物」に譬えています。これは彼の「自虐ネタ」です。コリントの信徒たちに対しては、痛烈な皮肉と成っています。何しろ使徒は侮辱され迫害され、罵られた上に、汚い「ゴミ屑」や「汚物」のように蔑まれているのです。これは、パウロ自身が体験した恥辱の数々、悲しみと悔しさから滲み出た言葉です。
2.《別れ道》 公衆の面前で受ける耐え難い屈辱も「キリストのために」生きることなのだと言うのです。普通なら、怨念に囚われてしまうでしょう。しかし、それを契機として、十字架(謙遜と従順の世界)を目指すのが、本当の信仰です。自分を侮辱した者を「見返してやろう」と現世的成功を追求する伝道者、「終末の日には見てろよ」と復讐心から来る価値の摩り替えに溺れてしまうキリスト者の、何と多いことでしょう。怨念と復讐心では人は救われません。自らの救いに酔い痴れる優越感は、その傲慢さ故「地獄行き超特急」です。
3.《死刑囚》 パウロは使徒を「死刑囚」にも譬えています。ローマの闘技場の試合に赴く剣闘士「死に行く者たち/モリツリ」かも知れません。あるいは、お昼休みの座興に公開処刑される重罪人かも知れません。パウロが繰り返し「高ぶるな」と命じているように、死ぬべく運命づけられているのは使徒たちだけではありません。コリントの信徒たちは、自分たちが何か特別な存在にでもなったと思い込んで、すっかり「金持ち」「王様」気分なのです。しかし、本当に救われている人は「救われている」ことを自慢したりしません。他の人を見下して「未だ救われていない」等と言ったりしないのです。私たちは値無く、無条件に頂いた神の愛を、共に生きる人たちにお裾分けすれば良いのです。
朝日研一朗牧師
聖句「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。』」(5:29)
1.《建国記念日》 戦前の「紀元節」です。初代天皇とされる神武天皇が即位したのが紀元前660年2月11日だと言うのです。縄文時代末期とも弥生時代前期とも言われる(日本では)先史時代です。勤労感謝の日が「新嘗祭」(宮中の収穫祭)であるように、日本の祝日は皇室祭祀の大祭をベースにしている「祭日」が多く、戦前は各家庭で日の丸を掲げるよう指導された「旗日」でした。
2.《信教の自由》 キリスト教会が2月11日を「信教の自由を守る日」として守っているのは、戦前、神社参拝を強制され、礼拝においても「宮城遥拝」を強要された苦い歴史があるからです。それどころか、自ら進んで教団統理が伊勢神宮(天皇家の氏神)に参拝しました。朝鮮の朱基徹牧師が「神社参拝は偶像礼拝」と主張した時には、教団から「神社は宗教ではない」と説得に出向いたりしています。自らの命を賭して抵抗した牧師や教派を切り捨てて、宗教団体としての生き残りを図ったのです。その罪の歴史を忘れてはなりません。
3.《神への従順》 後にスコットランド改革派教会の牧師となるグッドマンは、メアリー1世の迫害を逃れて大陸に亡命します。暴君の支配する祖国に思いを馳せながら、信仰者は政治権力と如何に対峙すべきかを考えました。古来、教会では、君主は神が立てたという教説の故に、君主に対する「受動的服従」を教えて来ましたが、彼は「人に従うよりも神に従う」の聖句から「積極的抵抗」を主張しました。君主と言えども、不敬虔、不信仰であるならば抵抗すべきなのです。私たちは弱い存在ですから、強大な政治権力に負けてしまうかも知れません。しかし、負けてしまっても何も気付かないよりマシです。その苦い挫折が、いつか私たちを、使徒ペトロのようにしてくれることでしょう。
朝日研一朗牧師
聖句「希望の源である神が、信仰によって…喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(15:13)
1.《それでも》 ナチスの強制収容所で4年間を過ごした精神科医、フランクルが、そこでの体験を綴ったのが『夜と霧』です。原題は「それでも人生に然りと言う」です。絶望的な状況にありながら、それでも敢えて人生を肯定するのです。祈りと音楽(感動)とユーモア、この3つが耐え難い苦しみの中にあって、生きる希望を人に与えるのです。この3要素は教会にも与えられています。
2.《希望の源》 収容所では「クリスマスに解放される」という噂が流れて、それが空しく潰えた翌日に大勢の人が死んだそうです。「在り来たりな希望」ではダメなのです。パウロは「教会の希望は神にある」と宣言します。当時の教会では、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との対立が問題に成っていました。背景には根深い差別と偏見があります。対立の現実を何とかして乗り越えようとする根拠は、信仰にあります。だから、パウロは「互いに相手を受け入れなさい」と説きます。主が私たち罪人を「仲間として迎え入れて」下さったように…。
3.《聖霊の力》 「信じること」は「聖霊の力」、「希望」とは「喜びと平和」です。「満たす」は「プレローマ/充満」です。ストア哲学の用語で、対立する世界を包み込み「一なる世界」を形成するものです。何より聖霊の働きを表わす語です。ユダヤ人の救いのためには、異邦人も救われなければならないのです。救いというものは、自分だけが救われることではありません。それは、むしろ地獄です。私たちが神に期待するのではなく、神が私たちに何を期待して居られるか、それが問題です。私たちが人生に絶望しても、主は私たちに絶望なさっていません。私たちが神に問うのではなく、神が私たちに問うて居られることを覚えましょう。私たちには「受け入れる」という使命があるのです。
朝日研一朗牧師