説 教 信仰のパントマイム=@

聖 書 マタイによる福音書 6章1〜4節(p.9)
讃 美 歌 27、36、490、496、566、78、28
交読詩編 詩編102編13〜19節(p.114)
・青空カフェ 礼拝後 玄関バルコニー
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち…。」(20:19)
1.《呼吸家》 加藤俊朗は独自の健康呼吸法を普及して「呼吸家」を自称なさっています。ある時、詩人の谷川俊太郎から、マザー・テレサの額入り生写真を貰って、事務所に掛けていると、マザーが現われて「キリストさん」を紹介してくれたと言います。「キリストさん」は彼に「呼吸に愛を入れなさい」と教えてくれ、以来、左の掌に愛の指文字を書いて呼吸するとのことです。
2.《不偏心》 東方正教会には「ヘシュカム」という祈りの身体技法があり、修道士は独自の呼吸法と座法によって祈ります。但し、ヨーガや座禅が技法だけ利用されて、中身の信仰が疎かにされているのと違い、大切なのは、そこで唱えられる「イエスの祈り」です。カトリックにも「サダナ」という呼吸瞑想法がありますが、その基本はロヨラの『霊操』です。「霊操」の「不偏心/indifferentia」とは「区別しない心」です。病気より健康を、貧困より裕福を、不名誉よりも名誉を求める私たちの価値判断は、被造物に偏っているのです。
3.《息吹き》 弟子たちは「恐怖/フォボス」に囚われています。「ユダヤ人恐怖症」として描かれています。自身もユダヤ人ですから、一種の自閉症です。エルサレム入城の時には得意満面だったのですが、今は自らの弱さ小ささ、ダメさ加減に打ちのめされています。しかし、そんな時に初めて、私たちは神の働きに気付かされるのです。復活の主は「真ん中に」立って、彼らに愛と赦しを宣言されます。復活のイエスさまにとっては、生と死、罪人と義人、信者と不信者、何の「区別」もありません。主が息を吹き込まれると、窒息寸前だった弟子たちは風船が膨らむように希望で満たされます。彼らは死からも、この世の生からも自由にされたのです。「主は生きて居られる」のですから。
朝日研一朗牧師
聖句「マリアは園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。…』」(20:15)
1.《七つの顔の男》 片岡千恵蔵演じる探偵「多羅尾伴内」は、色々な職業、面相の人物に変装して潜入捜査をします。そして毎回、クライマックスで犯罪組織のボスに「貴様は誰だ!?」と言われると、「ある時は競馬師、ある時は私立探偵、またある時は画家、ある時は片目の運転手」と列挙、「しかして、その実体は、正義と真実の使徒、藤村大造だ!」と名乗りを挙げ、銃撃戦に突入します。
2.《復活のイエス》 復活の主もまた一筋縄では行きません。ある時には、エマオの旅人の同行者、ある時には亡霊、ある時には岸辺の物乞い、またある時には墓守の園丁です。まるで他の人のようにして御姿を現わされるのです。生前とはすっかり外見が変わってしまっているのです。そうでなくては、こんなに弟子たちが戸惑うはずはありません。パウロは、復活によって「自然の命の体」が「霊の体」に変えられると論じていますが(コリントの信徒への手紙T15章)、何だか彼の言うようには、輝かしくも力強くも無いようです。
3.《最も小さい者》 「園丁、園の番人、園の管理人、庭師」等と訳されますが「墓守」のことです。穢れた場所とされた墓を管理する墓守は賤業とされていました。マグダラのマリアも声を掛けたのが墓守だと思って、キツイ物言いをしています。御生前、弱い立場に置かれた人たち、差別される人たちと共に生きられたイエスさまは、死んで後も、復活された後も、そのような人たちの姿に身をやつして、弟子たちの前に御姿を現わしておられるのです。「マタイによる福音書」25章の「この小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたこと」に通じるものがあります。サン・テグジュペリの「庭師は愛によって、地球のあらゆる土地と、あらゆる樹木に結ばれていた」との言葉も思い出されます。
朝日研一朗牧師
教会学校のこどもたちが植えたチューリップが咲きました。
イースターエッグを作りました。
庭の杏で作った杏酒です。↓
聖句「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」(21:6,7)
1.《ロバは珍獣》 昭和30年代には「ロバのパン屋」の移動販売が一世を風靡しましたが、馬車を牽いていたのはポニーでした。ロバの来日は飛鳥時代に遡りますが、日本で飼育が拡がることはなく、今も珍獣のままです。日本国内のロバは約2百頭です。馬7万頭、山羊2万頭、羊1万7千頭と比べて少な過ぎます。世界中で飼育されているロバが、どうして日本に定着しなかったのでしょう。
2.《ロバは聖獣》 美術の世界では、降誕場面にもエジプトへの逃避の場面にも、傍らにロバの姿が描かれています。聖書的な根拠は「イザヤ書」1章3節です。ロバは、降誕前から、降誕の時にも、降誕後も主と共にいたのです。そして飼い葉桶と十字架は繋がっていて、イエスさまのエルサレム入城に際して再びロバが登場するのです。イエスさまの一行は、エリコからエルサレムまで25キロの距離を歩いて来ましたが、残り1.5キロのベトファゲに来た時、イエスさまがロバを所望されます。入城に際してロバが必要だと思われたのです。
3.《母子のロバ》 メシアはロバに乗ってエルサレムに入るという預言を成就されるためでした。謂わば「メシアの自覚」です。但し、御自分を立派に輝かしく見せよう等という自己演出のためではありません。この時ハッキリと、イエスさまが十字架の死を覚悟されたのではないでしょうか。「マタイによる福音書」では、母ロバと子ロバの2頭が連れて来られるのですが、ギリシア語原文を細かく読むと、どうやら2頭に交互に乗って行かれたようです。「子ロバ」と言っても「4歳以下の雄」という意味です。母子のロバが仲良く奉仕したことに意味があるのかも知れません。この道がゴルゴタに続くことを、弟子たちも群集も知りませんでした。しかし、主の道をロバは知っていたのです。
朝日研一朗牧師